代官町の屋根神さま

名古屋市東区代官町
町名の由来は江戸時代にこの地は代官が屋敷があり、家来なども居住したことから「代官」となったと云われます。
東西の町を竪(たて)代官町、南北の町を横町といったことから萱屋町の東の竪の道を横代官町と呼ばれていた。
やがて昭和に入り住居表示変更により東区の相生町、葵町、小川町、萱屋町、竪代官町、舎人町、平田町、横代官町の各一部を編入し代官町となったようです。

f:id:owari-nagoya55:20200709013937j:plain今回の目的地代官町の「屋根神さま」は代官町の竪代官公園の東に祀られています。
この公園自体は1983年に整備された比較的新しい公園で、街中にあって小休止するにはありがたい。
実は先に書いた「松山神社」へ向かう途中に偶然出会った社です。

公園の東に代官町会館がありますが、屋根神さまは会館の入口左に祀られています。
恰も会館を訪れる地元の方を見守るかの様に鎮座しています。
会館の右には大きな石標があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200709014004j:plain高く台座が組まれその上に銅葺き屋根で山形造りの社が南を向いて祀られています。
区画整理が行われ、軒から地上に降ろされた社、一時期は向かいの公園に鎮座していたとも云われ、その後この場所で安住の地を得たようです。

f:id:owari-nagoya55:20200709014028j:plain会館南角から見た社と石標の全景。
こうしてみると会館を訪れた方は真っ先にご挨拶したくなる場所です。
いい場所に祀られたものです。

f:id:owari-nagoya55:20200709014050j:plain社正面全景。
シックで小さい社ですが細部には彫が施され、シックな飾り金具も施されています。
扉が開いていないので祭神の詳細は分かりませんが熱田神宮秋葉社、津島社ではないかと思います。

f:id:owari-nagoya55:20200709014112j:plain丸織跡街園の石標。
街園とは「区画整理に伴い生まれた空間を一般交通の用に供しないで広場的、公園的機能を有し、地域にゆとりあるスペースを提供する施設または車両の安全円滑な通行及び歩行者の横断の安全を確保するために、交差点、車道の分岐点に設けられる島状の施設」と書かれています。

頭の丸織跡とは明治の終わりから昭和の中頃まで市内には大きな紡績工場が複数あり、ここ代官町にも丸織会社の織布工場があり、多くの女工さんがいた、それに伴い周辺の商店なども賑わったようですが、昭和に入り工場は移転し広大な空き地が生まれ、そこから区画整理を経て現在の姿になったようです。
それにより生まれた事を伝えたものなのかも知れません。
碑の裏にも刻まれていますが、写真に収める事も出来ず詳細までわかりません。

いつ頃、どこから地上に降ろされ、その始まりがいつなのか全く分かりませんが、現在の代官町を災いから守ってきた身近な神様なのは間違いない。
2020/06/19

代官町の屋根神さま
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市東区代官町25-18
公共交通機関アクセス /   市営地下鉄桜通線「車道」駅下車、​北へ10分程
筒井消防団から​徒歩10分
関連記事 / ​松山神社​車道町2「秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社」

「松山神社」住宅の密集地の一画に佇む姿は時の流れから取り残されたかのよう

名古屋市東区泉3
マンションや住宅の密集する一帯の小さな一画に社殿を構える「松山神社」。
名の由来はその昔この辺りは松の樹が生い茂る広大な山林だったことから「松山」神社と付いたらしい。
現況を見る限り、とてもそんなイメージが湧きたつことはない。

f:id:owari-nagoya55:20200707092336j:plain 松山神社社頭全景、後方のビルに対し、古風な建物に目が行く。
まるで旅館の様な佇まいの建物は松山神社の社務所
この一画だけが時間の流れに取り残されたかのようでもある。

f:id:owari-nagoya55:20200707092356j:plain 松山神社の参道は西側を向いて神明鳥居が建つこちらの参道と、南に鳥居を構えた脇参道の二カ所があり、どちらも鳥居と社号標が建っています。
どちらが表参道かと云えば、西側を向いて拝殿を正面に見るこちらが表という事でいいのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20200707092415j:plain 鳥居の右に掲げられた松山神社の略記。
それによれば
「当社は名古屋市東区泉3-2-29に在り。
此の地往古は松樹繁茂せる広大なる山林なり。
因って松山神社といい、近世天道宮、天道社又は松山天道とも呼べり。
創立年代不詳。大永年中羽前羽黒山の修験隆海之を再興し、守護すること30余年二代…海の後社殿大に荒廃す。
元和年中美濃久々利の修験秀恵重興し且つ寿命院を建立別当となる。
以来藩主の命に依り祈願所となり、崇敬篤く元文3年5月、御紋付の挑燈を寄付せらる。
明治の初年村社に列し、別当を廃して祠掌を置く。
祭神中央は天照皇大神、右は品陀別命、左は市杵島姫命なり。
社殿は神殿、拝殿、神饌所、神楽殿社務所あり、境内に加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社がある。
例大祭は10月14、15日、月次祭毎月1、15日
他に5月14日に大祭、7月1日赤丸神事、7月25日茅輪神事がある。
古来土地の氏神として一般の崇敬篤く家内安全、商売繁盛、学業成就、開運厄除の守護神として広く庶民に信仰されている。昭和54年10月吉辰」
と記されています。

このあたりで熊野、白山、秋葉、御嶽は馴染みのあるところですが、出羽三山の一つ羽黒山は馴染みがありません。大永年中(1521~ 1528年)に遥か遠く羽黒派修験者がこの地を訪れ再興したとあり、現在の松山神社の前進は更に以前からとなるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200707092441j:plain 間口は狭く境内は狭い印象を受けます、後方の大きな入母屋屋根の円明寺とは背中合わせとなり、奥がない分、境内は右に広がり、鍋谷町通り沿いの脇参道へと続き、意外に狭さは感じません。

f:id:owari-nagoya55:20200707092502j:plain 境内すぐ右側に鍋谷町の石標があり、その奥に手水舎、手水鉢があり「恵の水」と書かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200707092525j:plain 龍口から勢いよく清水が注がれています。
井戸水なのだろうか、松山神社創建以前からあり、枯れる事のない井戸として珍重されたらしい。
願い事が叶う不思議な水のようです。

f:id:owari-nagoya55:20200707092548j:plain 銅葺屋根で入母屋造の拝殿は神殿へとつながり、手前には狛犬が守護しています。
拝殿右手ら稲荷鳥居と右に境内社が纏められているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200707092607j:plain 拝殿前を守護する狛犬1871年(明治4)の建立。

f:id:owari-nagoya55:20200707092628j:plain 拝殿から本殿方向の眺め。よく見ると本殿前にも小さな狛犬がいるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200707092650j:plain 拝殿左に、秋葉社、津島社、加茂社、天神社、猿田彦社が纏められている。

f:id:owari-nagoya55:20200707092712j:plain 社殿全景、本殿全体は見通せません、7本の鰹木と外削ぎの千木が施された流造のように見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200707092737j:plain 社務所全景、レトロ感漂う佇まいはなかなかのもの。
境内はイチョウの樹が多いようで、秋には自然の恵みも得られるかも。

f:id:owari-nagoya55:20200707092805j:plainこの池は?
神仏分離に伴い近隣から八幡社と弁財天社を合祀したとある事から、これはひょっとすると弁天池?

f:id:owari-nagoya55:20200707092832j:plain拝殿右に神楽殿も建てられ、小さいながら伽藍は整っています、左には石灯籠(左は1908年)が並ぶ。

f:id:owari-nagoya55:20200707092859j:plain 拝殿右脇の長寿の大銀杏。
昭和初期までは御神木とした古樹があったそうです。
その御神木と共存するようにイチョウの樹があり、御神木が朽ち果てた後もこのイチョウは大樹へと成長、天災に遭いながらも成長を続ける生命力から、いつしか御神木の生まれ変わりとして信仰されるようになったそうです。
奥は福守稲荷社の社。

f:id:owari-nagoya55:20200707092926j:plain 長寿の大銀杏から右手に鍋谷町通りの続く参道と鳥居が伸びています。
通りから境内を見ると福守稲荷社の赤い鳥居と幟が一際目立ちます。

f:id:owari-nagoya55:20200707092948j:plain 福守稲荷社全景。
折しも見頃を迎えた紫陽花が境内に彩りを添えていました。
紫陽花にはしっとりと降る雨が似合うものですが、記録的な雨はこれ以上勘弁願いたいものです。

f:id:owari-nagoya55:20200707093014j:plain 社の前で程よい肉付きの二対の狛狐が守護しています。
福守稲荷社の由緒などの詳細は調べきれませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200707093037j:plain 鍋谷町通りから見た松山神社。円明寺とは壁一枚で区切られています。
近代的な作りの円明寺や周囲の景観と比較すると鳥居が無ければ神社の存在感は薄いかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200707093059j:plain 社務所北側の通りから本殿の眺め、本殿はここが一番見通せる場所かも知れません。
境内に聳える長寿の大銀杏とケヤキが住宅街にあって目立つ存在。
神社自体はこぢんまりとした目立つ存在ではないかも知れませんが、このあたりの氏神様として、家内安全、商売繁盛、学業成就、開運厄除の守護神として今も崇敬され続けています。
2020/06/19

松山神社
創建 / 不明
祭神 / 天照皇大神、品陀別命、市杵島姫命
境内社 / 加茂社、猿田彦社、天神社、秋葉社、津島社、福守稲荷社
住所 / 名古屋市東区泉3-2-29
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線高岳」下車、​北へ徒歩10分程

「芝東照宮」東京都港区

東京都港区芝公園4「芝東照宮

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 増上寺から日比谷通りを5分程南に歩く。
芝公園を右手に眺め旧台徳院霊廟惣門(右)と増上寺(中央)、後方に東京タワーも一望できる。

f:id:owari-nagoya55:20200705101949j:plain 芝公園の一画が目的地「芝東照宮」。
社号標の先の参道は駐車場になっているようで、参道を普通に車が出入りしています。

f:id:owari-nagoya55:20200705102012j:plain 参道に入ると1788年(天明8)に奉納された凛々しい容姿の一対の狛犬

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 参道の明神鳥居と扁額、「家達」(いえさと)の文字が入っています。
家達(1863~1940)は徳川家16代当主で、徳川幕府の終焉がもう少し遅ければ慶喜の次を担う将軍の座も現実のものだっただろう。この扁額は2000年(平成12)に改修されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20200705102104j:plain 鳥居から最初の石段を上る。
両脇の芝東照宮の提灯には当然ながら葵の紋が入ります。
正面にはいかにも東照宮らしい拝殿が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20200705102127j:plain 境内右に徳川家光が植樹したと伝えられる御神木のイチョウの大樹。
戦災を免れ今も境内右に聳えたっています、1956年(昭和31)に東京都の天然記念物に指定されているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200705102147j:plain 境内右に手水舎、手水鉢があり清水は常に注がれています。

f:id:owari-nagoya55:20200705102212j:plain 参道両脇に「徳川家康公(家光公お手植え公孫樹)」と書かれた青い幟。
公孫樹? イチョウの事ですね、黄金色に染まった境内はとても綺麗なもの。
杉などに比較すると非常に燃えにくい樹で、落ち葉の絨毯は防火シートの役割も果し、銀杏が実れば食料にもなる、そんなことから神社仏閣や広域避難場所などの周囲で見かけることが多い。

f:id:owari-nagoya55:20200705102233j:plain 権現造の拝殿全景。
芝東照宮日光東照宮久能山東照宮上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。
大きさは違えど煌びやかさは通じるものがあります。

芝公園は古くは増上寺境内でそこに勧請されたもので、境内の社殿の一つだった。
由来は家康が1601年(慶長6)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城に於いて祭祀していた。

1616年(元和2)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言したとされ、その年に着工、1617年(元和3)に竣工、完成した社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」から「安国殿」と呼ばれ、これが芝東照宮の起源とされる。
上野東照宮の創建が1627年(寛永4)とされるので、芝東照宮の方が創建は早かった事になる。

f:id:owari-nagoya55:20200705102254j:plain 拝殿左の由緒書きと境内の方位石。

f:id:owari-nagoya55:20200705102318j:plain 芝東照宮
創建 /   1617年(元和3)
祭神 /  徳川家康
御神体 /  徳川家康寿像

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 創建以来年月を重ね、明治の神仏分離令に伴い、増上寺から切り離されて芝東照宮となります。
そして1945年(昭和20)の東京大空襲により伽藍を焼失し、唯一焼け残ったのは御神体の「寿像」と神木のイチョウだけだったという。

今見る社殿が再建されたのは1969年(昭和44)の事だという。
鉄筋コンクリート東照宮として生まれ変わり、近年では2014年(平成26)に幣殿、拝殿、外部壁や、飾り金具等に補修の手が入っているようです。
斜めから見る姿は実に複雑な屋根構造をしている。

f:id:owari-nagoya55:20200705102359j:plain 南から見た芝東照宮社殿。
左の本殿から拝殿が繋がっているのが分かります。
ここ芝東照宮久能山東照宮上野東照宮の様に本殿域の拝観できないようです。
上野東照宮より創建が古いけれど、空襲で被災するかしないかで随分と佇まいに差を感じてしまう。
キンキラで近寄りがたい存在感の上野東照宮に対し、身近で親しみやすいのが芝東照宮かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200705102419j:plain 芝東照宮の境内から南に続く小道があり、そこを抜けると梅林が広がります。
「銀世界の梅」と呼ばれ、2/20の頃の梅林は赤・白の梅が咲き始め、満開にはまだ少し早かった。
色合いの乏しい街中にあって、四季を感じることができる貴重な場所かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200705102442j:plain 東京タワーが一望できる芝公園の中、芝東照宮の背後に小高い盛り上がりがあります。
芝公園ランプの北側の切通しになった部分で、通りには「丸山貝塚」の解説が掲げられています。
ここは5世紀後半につくられたと推定される前方後円墳の「丸山古墳」。
墳丘へは石段もあり自由に登ることができる。看板の辺りは円型に繋がる方型部分の裾にあたるようだ。

埋葬者など詳細は不明なようですが、長さは約112㍍にもなり、都内最大規模の古墳と云われる。
この古墳、円型の墳丘部分は江戸時代に既に広場となっていたと言われます。
古墳として認識されたのは意外に新しく1893年(明治26)の事で、発掘調査では埴輪や須恵器などが見つかったそうですが遺構らしいものは見つからなかったいう。
丸山古墳周辺には7世紀頃の小型の円墳が複数存在したようで、副葬品も出土されたようです。
ビルが立ち並ぶ環境にあって、現在では海岸のイメージすらできないけれど間近に海が迫っていたようです。
2020/02/20

芝東照宮
創建 / 1617年(元和3)
祭神 / 徳川家康
住所 / 東京都港区芝公園4-8-10
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄三田線 御成門駅下車 A1出口より徒歩2分
関連記事 / ​増上寺​、久能山東照宮上野東照宮
増上寺からアクセス / 徒歩で​南へ5分程

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車道町2 「秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社」

東区車道町2丁目

f:id:owari-nagoya55:20200703060932j:plain 建中寺東交差点を北に進むと右側の歩道に筒井消防団の赤い「火の用心」の幟に目が行きます。
黒門公園の西側にあたり、近隣に学校もあり登下校時には学生を多く見かける。
筒井町4「秋葉神社、熱田社、津島神社」から北に5分もあれば辿り着けるでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20200703061003j:plain 消防団の建屋の西隣、こちらにも地上に降りた屋根神様が祀られています。
歩道脇に樹が植えられ、笠木が赤く塗られた小さな神明鳥居がある事に気が付くはずです。

f:id:owari-nagoya55:20200703061032j:plain 手水鉢もありますが網が掛けられていました。
境内は落ち葉が積もっているようなこともなく手入れされていました。

f:id:owari-nagoya55:20200703061057j:plain 奥行のない狭小地、鳥居正面から眺めると、直ぐに石垣が高く積まれた台座が迫ります。
社の前には基礎が赤く塗られた木造りの常夜灯が一対建てられています。
よく見れば鳥居の台石も赤く塗られています、この色は守山などでよく見かける天王社のイメージカラー。

小さな境内ですが、手作り感満載の覆屋になんとなく気持ちが伝わってきます。
そんな覆屋の下に祀られる社は神明造で派手な飾り金具のない素朴なものです。

格式が高く、立派な神社は見応えがあるけれど、道筋で見かける小さな社。
時に見栄えはいまひとつでも、思いを込めて手が掛けられた姿を見ると、そこに住む人々と社のつながりを感じられます。

f:id:owari-nagoya55:20200703061125j:plainこの社が軒下にいつ頃まで祀られていたのかよく分かりませんが、東海地方の特徴的な祭祀形態で、住居が密集する下町などで出会う、堀川周辺には典型的な屋根神様を見ることができます。

人が集まり家が軒を連ね共に生活を営むとある意味運命共同体
様々な災いが起こります、今のタイミングだとCOVID-19?
それらの災い除けにこうした社が祀られていくのも自然な事で、お世話をする持ち回りの当番ができ、それにより町内の結束を高めていくのに屋根神様は一役買っていた。
それらも景観や人の移り変わりに伴い徐々に姿を消してきています。

一概には言えませんが津島神社熱田神宮秋葉神社が祀られるのが一般的で、熱田神宮に代わり地元の産土神が祀られる場合もあるようです。
社に社名札が掲げられていないと困ったもんだ。
運よく月次祭に訪れるとそれぞれの提灯が吊るされ一目瞭然ですが、偶然に遭遇するのはラッキーかもしれない。

消防団や集会所など人が集う場所の傍らにこうした社があったりします、「小さな杜に社あり」ばかりではなさそうです。
2020/6/30

車道町2 秋葉神社、高牟神社、熱田神宮津島神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市東区車道町2-30-1
アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車北へ
筒井町4「秋葉神社、熱田社、津島神社」からアクセス / ​北へ徒歩5分程

関連記事 / 筒井町4の「秋葉神社、熱田社、津島社

町名の由来ともなった地元の産土神「小木田神社」

春日井市小木田町「小木田神社」
小木田町の名由来はこの神社からついた町名だという。

f:id:owari-nagoya55:20200701181925j:plain小木田神社社頭全景。
境内を取り囲む様に杜があり、石の神明鳥居と左に社号標があります。

訪れた際は社頭の前の狭い通りは、以外に交通量が多い印象を受けました。
また参拝者駐車場は見かけませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200701181945j:plain社頭左に立派な花崗岩のプレートに小木田神社の由緒が刻まれていた。
「神社名 小木田神社
鎮座地 春日井市小木田町147番地。
祭神 大己貴尊、素戔鳴尊、少彦名尊。
合祀の御祭神 興津比古命、菅原道真
祭礼日 4月16日
沿革
当社の創建は定かではないが、古伝によれば養老3年(719)という。
明和5年(1768)に再建した棟札がある。
郷社であり、古く天王社と云われた。
小木田の名はかつては村名となったこともあるが、篠木荘中の古村であった。
天 ?2年に境外社であった林島の荒神社と? 大臣の天神様とが本社に合祀され、関田村の産土神として多く???から崇められてきた。
尚、県指定無形文化財の源氏天流棒の手が祭礼に奉納されている。
境内末社
神明社、天神社、熱田神宮金比羅社、荒神社、八幡社、秋葉社

読みにくい部分もあるけれど、しっかりと書かれていてわかりやすい。

f:id:owari-nagoya55:20200701182019j:plain鳥居の先の狛犬
狛犬も派手な彩色が施されたものを見かけるけれど、個人的に好きにはなれない。
僅かに彩色がされ、これくらいなら許容範囲の上品な化粧。

f:id:owari-nagoya55:20200701182039j:plain境内左に自然石の手水鉢、緑鮮やかな楓の木が手水舎だ。

f:id:owari-nagoya55:20200701182102j:plain手水鉢から拝殿方向の境内の眺め。
この時期の緑はしっとりとしながら鮮やかで、目には優しいものがある。

f:id:owari-nagoya55:20200701182124j:plain
境内右の覆屋、その下に正方形の石枡。

同じく境内右外れに義勇奉行公碑。

f:id:owari-nagoya55:20200701182148j:plain源氏天流棒の手碑
棒の手、主に棒を使った武術的な民俗芸能で、尾張三河に多くの流派が伝承されています。
源氏天流とは、清和天皇の子孫源義家を流祖とされ、戦国時代の実践的な古武道の型をそのまま伝えた豪快な点が特徴とされるそうです。

明治時代になって現在の名古屋市守山区から春日井市の旧関田村(現在の小木田町)に伝わったようだ。
小木田の棒の手は、源氏天流の棒の手復興に努力した河野萬三郎義次、加藤平輔義平などが明治21年(1888)に相伝目録3巻及び免状1巻を小木田神社に奉納したことにはじまるという。

現在「小木田町源氏天流関田棒の手保存会」が保存・伝承活動を行っているそうで、毎年、地域の氏神である小木田神社とここから少し西の貴船神社名古屋市熱田区熱田神宮の祭礼には棒の手を奉納しているという。

f:id:owari-nagoya55:20200701182211j:plain境内左に注連縄が吊られた小さな堂。
雨が降る中、地元の方が本殿とこちらで手を合わせていく姿を見かけました。
堂の左右に石塔と二体の石像が安置されています。
解説らしきものはなく、像はどちらも風化は激しく像容は分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20200701182233j:plain拝殿全景。
社殿はコンクリート工法で作られた新しいもの。
左に狛犬が見えますが、これは末社を守護するもので、拝殿前に狛犬は配されていません。

f:id:owari-nagoya55:20200701182254j:plain切妻平入拝殿に向拝が施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200701182318j:plain拝殿の扁額と拝殿、幣殿の眺め、桐が神紋のようです。

f:id:owari-nagoya55:20200701182341j:plain拝殿左に境内末社が纏められている。

末社の左に注連縄がかけられた石標があり、文字は刻まれているが全てが読み取れず不明。

f:id:owari-nagoya55:20200701182403j:plain末社を守護する狛犬

f:id:owari-nagoya55:20200701182423j:plain板宮造りの社が7社が並んで祀られています。
奥から順に神明社、天神社、熱田神宮金比羅社、荒神社、八幡社、秋葉社

f:id:owari-nagoya55:20200701182444j:plain末社から見た本殿、外削ぎの千木と鰹木が見られる。

f:id:owari-nagoya55:20200701182503j:plain
拝殿から鳥居方向の境内の眺め。雨の日の境内はこんな感じです。

拝殿の西側に脇参道があり、鳥居の先は小木田公園になります。

「小木田神社」創建は不明ながら、この辺りの産土神として今も崇敬され、源氏天流小木田棒の手と共に次の世代に受け継がれていきます。
2020/06/13

「小木田神社」
創建 / 不明、1768年(明和5)の棟札が残る
祭神  / 大己貴尊、素戔鳴尊、少彦名尊
境内末社 / 神明社、天神社、熱田神宮金比羅社、荒神社、八幡社、秋葉社
住所 / 春日井市小木田町147
公共交通機関アクセス / JR中央線春日井駅から​北に徒歩10分程

秋葉神社、熱田社、津島神社

東区筒井町4

f:id:owari-nagoya55:20200630215810j:plain東区筒井1丁目のもと屋根神様から東に5分程、幼稚園の東の通り沿いに湯取車納庫があります。
住宅街にあって二本の杉の木と幼稚園のクスノキの存在が目印になるか。

f:id:owari-nagoya55:20200630215830j:plainこちらの湯取車納庫の間口の左、玉垣で区切られた一画が目的地。
ここ筒井町から出来町周辺にかけて山車が多く保存されています。
筒井町には湯取車と神皇車の二台があり、筒井町天王まつり(毎年6月)ではそれらが町内を曳き回されます。そうした事もあり、この一帯には天王社、津島神社などを祀る小さな社が点在します。

f:id:owari-nagoya55:20200630215853j:plain 正面に回り込み社全景を眺める。
木の常夜灯の先に6本の鰹木と内削ぎの千木が施された神明造の社が鎮座しています。
通りからは目立たなかったが小さな狛犬もいるようです。

こちらの社も以前は屋根神として軒下に祀られていたものだという。
古い区割りが残る地域だけれど、時の流れとともに街並みも変わり屋根から地上に降りるしかないのだろう。

秋葉神社、熱田社、津島神社を祀るこの社、近年再建されたようで、名古屋開府400年記念として2010年に建て替えてもらったようです。
山車を受け継ぐ風土があったからこそ、環境が変わってもこうした屋根神さまが大切にしてもらえるのかもしれない。

月次祭(1・15日)には秋葉神社、熱田社、津島神社の提灯が吊るされ、幕も張られてドレスアップした姿を見られるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200630215915j:plain 社を守護する彼らの年代は不明ですが、随分と年月が経っているようです。
角の取れた丸い面々が社を守護しています。
社がいつ頃地上に降りたのか分からないけれど、その時からここで守護しているのだろう。
彼らの様に歳とともに丸くならないとね。
2020/06/30

東区筒井町4 「秋葉神社、熱田社、津島神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市東区筒井町4-20
アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車北に、​筒井1丁目の屋根神様経由で徒歩15分程
関連記事 / 小さな社は軒下から降ろされた屋根神様​

東京都港区 増上寺

東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。
それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。

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ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。
この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。
面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。
その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。

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f:id:owari-nagoya55:20200629205355j:plain 大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。
新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。

f:id:owari-nagoya55:20200629205420j:plain 三解脱門の右に大きな寺号標。

f:id:owari-nagoya55:20200629205440j:plain 「三解脱門」
増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。
重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。
重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像十六羅漢像が安置されています
赤門だね。

f:id:owari-nagoya55:20200629205500j:plain 境内マップ。
創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は
焼失し、その都度再建され現在に至っています。
なので古い建造物は少ない。

f:id:owari-nagoya55:20200629205522j:plain 三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。
もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。
空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。

f:id:owari-nagoya55:20200629205553j:plain 三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。
1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。
松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。
正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。

f:id:owari-nagoya55:20200629205614j:plain 聖鋏観音菩薩像。
1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200629205635j:plain 境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。
東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20200629205703j:plain 梵鐘は大きい。
1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。
再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。
300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。

f:id:owari-nagoya55:20200629205729j:plain 仏足石と聖観世音菩薩像。
仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。

f:id:owari-nagoya55:20200629205756j:plain 二月の空に聳える東京タワーと大殿。

f:id:owari-nagoya55:20200629205818j:plain 左手に増上寺会館と光摂殿。
光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200629205843j:plain 大殿

戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。
地下に宝物展示室(@700円)がある。

f:id:owari-nagoya55:20200629205907j:plain 増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。
三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。
家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。
そのこともあり、往事の増上寺日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。

f:id:owari-nagoya55:20200629205930j:plain 増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。

f:id:owari-nagoya55:20200629205957j:plain 大殿右の「安国殿」
空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。
1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。
2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。

f:id:owari-nagoya55:20200629210022j:plain 大殿から見た「安国殿」側面。

f:id:owari-nagoya55:20200629210047j:plain 安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。

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f:id:owari-nagoya55:20200629210128j:plain 鎌倉時代北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えられています。
1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。

f:id:owari-nagoya55:20200629210152j:plain 江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。

f:id:owari-nagoya55:20200629210215j:plain 「千躰子育地蔵尊」。
子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。
子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。
このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。

f:id:owari-nagoya55:20200629210243j:plain 安国殿後方にある徳川家霊廟。
二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所
以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。

f:id:owari-nagoya55:20200629210305j:plain 正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。
六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。

f:id:owari-nagoya55:20200629210329j:plain 青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。
緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。

f:id:owari-nagoya55:20200629210352j:plain 霊廟前に四体の菩薩像。
港区の文化財に指定されている。
右から普賢菩薩地蔵菩薩虚空蔵菩薩文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。

f:id:owari-nagoya55:20200629210415j:plain 熊野神社
境内に入り、右外れに鎮座する。

f:id:owari-nagoya55:20200629210437j:plain 八咫烏の彫られた手水鉢。
天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。

f:id:owari-nagoya55:20200629210502j:plain 熊野神社境内から鳥居方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200629210529j:plain 御神体
熊野本宮大社 / 家津御子大神
熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社
熊野速玉大社 / 伊弉諾尊

f:id:owari-nagoya55:20200629210553j:plain1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。
由来には
増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。

f:id:owari-nagoya55:20200629210619j:plain 『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20200629210643j:plainユヤ神社から見た三解脱門。
神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。

f:id:owari-nagoya55:20200629210708j:plain 黒門
三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。
以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。
細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。

f:id:owari-nagoya55:20200629210730j:plain 黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。
江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、
秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。
被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。
現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。
綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。
2020/02/20

大本山 増上寺
創建 / 1393年(明徳4)
山号 / 三縁山
宗派 / 浄土宗
本尊 / 阿弥陀如来南無阿弥陀仏
住所 / 東京都港区芝公園4-7-35
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他
関連記事 / 久能山東照宮、​大樹寺

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