紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮

紀伊國一之宮 日前神宮

紀の川が作った和歌山平野紀伊國一之宮は和歌山市の秋月に鎮座します。
和歌山電鉄貴志川線日前宮」駅から徒歩で2~3分あれば、県道138号線沿いに鎮座する紀伊國一之宮の社頭に辿り着けます。

f:id:owari-nagoya55:20200723151507j:plain県道の北側に社頭があり、道沿いに日前(ヒノクマ)神宮、國懸(クニカカス)神宮の社号標が建っています。
鳥居前に少ないながら駐車場もあり駐車が可能、境内西側に幼稚園がある事から時間帯によって送迎バスが駐車場を通るので通行の妨げにならない配慮が必要かも。

f:id:owari-nagoya55:20200723151531j:plain紀伊國一之宮 日前神宮國懸神宮社頭全景。
住宅や田畑が広がる和歌山平野にあって、緑豊かな社地はさながら緑の浮島の様にも見える。

f:id:owari-nagoya55:20200723151554j:plain神社の外周は小さな堀で囲われ、石橋を渡れば境内。
この橋と正面に見える大鳥居は白さが際立っています、建替えられて間もないようです。
参道は杜の中へ消えていきます。

f:id:owari-nagoya55:20200723151618j:plain鳥居右の由緒書き、鳥居をくぐり左が手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20200723151638j:plain日前神宮
祭神 日前大神 相殿 思兼命、石凝姥命
國懸神宮
祭神 玉祖命 相殿 明立天御影命、鈿女命

謹みて按ずるに日前國懸大神天照大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからざる太古天照大神天の岩窟に幽居まし、時群神憂ひ迷ひ手足措く所を知らず諸神思兼命の儀に従ひて種この幣帛を備へ大御心を慰め和め奉るに當り 石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る
是れ日前神宮奉祀の日像國懸神宮奉祀の日矛の鏡にして二鏡齊き祀る

例祭 九月二十六日  和歌山市秋月鎮座』

f:id:owari-nagoya55:20200723151700j:plain手水舎全景。

f:id:owari-nagoya55:20200723151722j:plain楽殿・絵馬殿

f:id:owari-nagoya55:20200723151745j:plain内部に掲げられた複数の奉納額。
上の左の額は1864年(元治元年)、右は 1696年(元禄9)と記されている、右の絵は七福神図のように見える。
下は1628年(寛永5)と記されているように見える。
どれも長い年月を経ていながら鮮やかな色彩が残り、躍動感のある描写が描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200723151810j:plain境内右手に授与所。

f:id:owari-nagoya55:20200723151830j:plain授与所から参道を進む、参道は杜の中で二手に別れ、右が國懸神宮
左に進むと日前神宮に繋がる。

f:id:owari-nagoya55:20200723151852j:plain上は日前神宮へ続く参道。
下が國懸神宮へ続く参道。
各々の参道脇に摂社が祀られています。
まずは國懸神宮のある右に進みます。

f:id:owari-nagoya55:20200723151914j:plain摂社
中言神社
祭神 / 名草姫命(ナグサヒメノミコト)、名草彦命(ナグサヒコノミコト)

由緒

『祭神である名草彦命は、天道根命を初代國造にして五代目にあたり、また夫婦神として名草姫命と御一緒に中言神社として奉祀されております。名草郡の地主の神として崇敬され、『紀伊風土記』には名草郡だけでも中言社と呼ばれた神社が十二社もあった程で、同郡では最も多い神社であったと伝えられております。明治十年三月二十六日官命を以て日前國懸両神宮の摂社に定められました。』

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摂社
松尾神社
祭神 / 大山咋神(オオヤマクイノカミ)、中津島姫命(ナカツシマヒメノミコト)

由緒

『京都洛西の総氏神である松尾大社から分社され、当宮の末社となりました。特に醸造の祖神として特別な崇敬を受けており、毎年十一月には「松尾祭」が厳かに斎行されております』

f:id:owari-nagoya55:20200723153142j:plain摂社
市戎神社
祭神 / 蛭子神(ヒルコノカミ)

由緒

『旧記』(くき)によると、市戎神社はかつて境内の外にお祀りされていた庭外社で、江戸時代の享保6年に境内に御遷座され日前宮末社となりました。もともとこの社の近くで「市」が立ち非常に賑わったことから、次第に市のえべっさん・市えびすと呼ばれるようになり、往時は新内(あろち)から芸者衆の「宝恵かご」が出て、たいそうな賑わいであったようです』

f:id:owari-nagoya55:20200723153207j:plain國懸神宮
祭神 / 國懸大神(クニカカスノオオカミ)
相殿 / 明立天御影命、鈿女命

f:id:owari-nagoya55:20200723153228j:plain切妻造の拝殿から本殿の眺め、向拝付き平入の入母屋造、7本の鰹木と千木は外剥の様です。

f:id:owari-nagoya55:20200723153254j:plain摂社
天道根神社
祭神 / 天道根命(アメノミチネノミコト)

由緒

天孫降臨の時、天道根命は二種の神鏡とともに従臣として仕え、神武天皇二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命されました。

紀氏は天道根命の末裔にあたり、歴代に渉り國造職を受け継ぎ明治十年三月二十一日には官命を以て日前國懸両神宮の摂社として定められました。』

f:id:owari-nagoya55:20200723153319j:plain摂社
邦安神社 (左)
祭神 / 松平頼雄命

由緒

『御祭神の松平頼雄公は紀州藩支藩伊予西条藩の世継ぎでありましたが、お家騒動で廃嫡の憂き目にあうと不遇の生活を強いられていました。そこで、紀州藩々主で従弟であった徳川吉宗公は頼雄公を紀州へと移され、ここに紀州徳川家と頼雄公の御縁が始まります。

その後、吉宗公が将軍となり紀州を去ると再びその地位を追われることになった頼雄公は、51歳で非業の最後を遂げられました。

やがて和歌山城内に頼雄公を祀る神社が創建され、代々徳川氏によってお祀りされていましたが、幕末の混乱期に日前宮へ御遷座されました。(現社殿は平成25年正月再興)』

深草神社(右)

祭神 /   野槌神

由緒

『祭神の野槌神はイザナキ・イザナミ二柱の大神の御子にして、草や野に関するすべてを司り、守護する神であります。

古来より神の使いとしての「牛」と信仰を結び、野草を食むことからくさ(人体の腫物)を食むという「病気平癒」の高い御神徳があります』

f:id:owari-nagoya55:20200723153342j:plain紀伊國一之宮 日前神宮
祭神 / 日前大神(ヒノクマノオオカミ)
相殿 / 思兼命(オモイカネノミコト)、石凝姥命(イシコリドメノミコト)
御神体 / 日像鏡

f:id:owari-nagoya55:20200723153404j:plain日前神宮
鳥居から拝殿方向の眺め、日前神宮國懸神宮共に社殿配置、造は瓜二つ。
現在の社殿は1926年(大正15)に建て替えられたもの。

f:id:owari-nagoya55:20200723153426j:plain日前神宮の左に社務所へ続く参道が続きます。
写真は参道右側。
参道の左右に切妻造の社が祀られていますが、社名の表記がなく何れも不明。

f:id:owari-nagoya55:20200723153447j:plain写真は参道左側にも二社。
全ては参拝した気になっていたが、略記によれば境内末社は20社とあった。

f:id:owari-nagoya55:20200723153509j:plain杜を抜けると右手に社務所が見えてきます。
境内には紫陽花が植えられ、この頃に見頃を迎えていました。

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紀伊國一之宮 日前神宮國懸神宮
住所 / 和歌山市秋月365
公共交通機関福セス / 和歌山電鉄貴志川線「日前宮」駅から徒歩で2~3分
関連記事 /  紀伊國一之宮と大和國一之宮巡り、紀三井寺の秘仏特別御開帳

屋根神さま

2020/07/10
この日は珍しく梅雨らしく穏やかな雨が降っていました。
ここは東区橦木町、お城と共に発展してきた街で、当時の香りを漂わせる武家屋敷の名残や日本で最初の女優と云われる川上貞奴邸(東二葉町より移築復元)がある地域でもあります。

f:id:owari-nagoya55:20200720214504j:plain県道215号線の出来通りにある「中産連ビル前」交差点から南に入った筋が上の写真です。
周囲の景色を写し込む道の光景は情緒さえ感じる。
江戸時代の町割りが残り白壁筋、主税町筋、橦木筋が東西に延びて筋沿いは、趣のある門や塀が残ります。

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交差点から5分程南に向かって歩くと右手に日蓮宗の遠霑山妙道寺の山門が見えてきます。
山門右手の石標に「尾張藩士 禄5百石 高梨五左衛門邸跡」とある。

高梨五左衛門は高梨家八代にあたり1816年~1869まで尾張藩に仕え、日蓮正宗の信者でもあったことから、九代政道により妙道寺へ土地を寄進したという。
1881年(明治14)、その跡地に建てられたのが妙道寺。
名古屋城の東にあたるこの周辺にはこうした中級武士の屋敷が立ち並んでいた。

f:id:owari-nagoya55:20200720214610j:plain妙道寺から南の眺め、先に見える木々は山吹谷公園で公園の前を左右に伸びる筋が橦木筋。

f:id:owari-nagoya55:20200720214635j:plain閑静な住宅地が立ち並ぶ一帯には棟続きの懐かしい住宅も留められています。
ひと昔前はこうした住宅が連なっていたのだろう、その多くは建替え、或いはぽっかり空いた空間は月極駐車場に姿を変えました。
人が集まればその地域ごとに屋根神さまも祀られていきます。
ここの軒下にも嘗て屋根さまが祀られた名残を見ることができます。

f:id:owari-nagoya55:20200720214711j:plain通りからしばらく眺めていましたが社の姿はみられません、ひょっとすると既に廃社となり外観だけで社はないのかもしれません。
情緒のある棟続の住宅の軒下、ここに町の移り変わりを見続けて来た屋根神さまがいたことを教えてくれています。

そぼ降る雨の中に佇む棟続の住宅と屋根神様の光景、情緒があっていいものです。
いつまでも残っていけるといいのでしょうが、そうはいかないんだよね。

屋根神さま 
住所 / 名古屋市東区橦木町2-22
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「高岳」下車、北に10分程

繁華街に溶け込むように鎮座する「烏森神社」

東京都港区新橋2
烏森神社を訪れたのは現在の様なコロナ禍に陥る前の2月20日の事、当時でもアルコールスプレーとマスクは用意していった。

おやじにとって新橋と云えば賑やかで居酒屋などが密集する聖地。
その聖地のビル街に鎮座する烏森神社は都会の様式に適応した神社だ。
ここでは鎮守の杜はビルだ、ひっそりと佇む神社のイメージとは若干かけ離れている。

f:id:owari-nagoya55:20200720041352j:plain 神社に向かう路地裏は洗練された都会の姿とは別の表情を持つ、大好きな雰囲気です。
かみさんの舵取りがなければ、親父の進路は神社からそれていくのは間違いない。

f:id:owari-nagoya55:20200720041424j:plain 烏森神社は芸能の神として崇められる天鈿女命を祭神とする神社。
見慣れない形の一ノ鳥居、なんと呼べばいいのだろう

平安時代の940年(天慶3)、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で知られる藤原秀郷が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐が現れ白羽の矢を与えたという。
その矢を持って東夷を鎮めることができた事から、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れ、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。
そこで桜田村の森まできたところ、お告げ通りの烏が群がる場所に出逢い、そこに社頭を造営した。
それが、烏森稲荷の起こりとされる。

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 『江戸名所図会』の烏森稲荷社に当時の様子が描かれています。
石畳の参道と鳥居、その先に社殿を構え周囲は杜に囲まれていた様子が描かれていました。
当時から参詣者で賑わい日本橋椙森神社、神田の柳森神社と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されてきた神社。
参道脇の光景は変れど、当時の面影は今も漂っている。

明暦の大火が起こった際、江戸の町は焼け野原となり、烏森稲荷社の周辺は焼けてしまった。
しかし不思議な事に烏森稲荷社だけが延焼を免れたそうです。
これは神威の致すところと考えられ、人々の信仰は厚くなっていったようです。

f:id:owari-nagoya55:20200720041512j:plain 延焼しなかった烏森稲荷社ですが秀吉の小田原征伐の際に、稲荷社は焼失してしまいます。
その後、家康が跡地に大名屋敷を建てたそうですが、屋敷に入った大名家は相次いで断絶に至るという不吉な結果が起こったことから、社殿を再興したそうです。

1873年(明治6)にそれまでの烏森稲荷社の社名から「烏森神社」へ改め現在に至るようです。
今日まで新橋烏森の守護神として人々から崇敬され続けている。

f:id:owari-nagoya55:20200720041534j:plain 烏森神社ニノ鳥居と拝殿全景。
一ノ鳥居同様に不思議な形をした鳥居です、現在の鳥居は1993年(平成5)に建てられたコンクリート製の鳥居。
石段の先の社殿も鳥居同様に伝統的な様式に固執しない独特の造りで1971年(昭和46)に造営されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20200720041558j:plainニノ鳥居の先で拝殿を守護する狛犬
狛犬は鳥居や社殿の様に弾けられなかったと見え、見慣れた面々です。

f:id:owari-nagoya55:20200720041620j:plain 手水鉢は個性的で、類を見ないおしゃれな外観です。
烏森神社では、心願色みくじと呼ばれる、おみくじと一緒に願掛けができるくじがあります。

赤が(恋愛、良縁)、黄は(金運、幸運、商売)、青が(厄祓、仕事学業、芸)、緑は(健康、家庭)に色分けされ、おみくじと同じ色の「願い玉」と呼ばれるお守りと願掛けの「願い札」が授与され、書かれた願い札は後日神職により心願成就祈願が行われるそうです。
参拝者に訪れる方の年齢層や性別の傾向を見ていると恋愛・良縁を求める若い女性が多いようです。
カラフルな御朱印も女心をくすぐる一つなのかも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20200720041646j:plain 吽形の狛犬の先に「きやり塚」と記された石標があります。
 江戸時代の町火消し「め組」一番組が奉納したと伝わり、明暦の大火を免れた事もあり火伏せの神として、町火消しから崇敬が篤かったとされる。

地名の由来(神社HPより)
『 烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。
その為、当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。
しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。
それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。』

例大祭 (神社HPより)
『5月4.5.6日 江戸時代までは稲荷信仰にしたがって、2月初午の日が例祭日とされていた。『祠曹雑識』によれば、百余りの稲荷番付の中で烏森稲荷は東の関脇に位置付けられている。氏子町は神輿・山車踊りや練り物等を出すのが習わしで、稲荷祭の賑わいとしては江戸で1・2を争うものであった。明治以降は例祭日を端午の節句5月4.5.6日に改め、夏祭りのはしり烏森祭として全国的に有名である。』

f:id:owari-nagoya55:20200720041710j:plain 幕には烏・森・稲をあしらった紋と三つ巴の紋。
ご利益を求め訪れる参拝客は途切れることはなかった。

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 質感のないビルが密集する中にコンクリートの社殿、木の質感を強調したシンブルな額や拝殿内の木の色が唯一温もりが感じられる部分。

f:id:owari-nagoya55:20200720041906j:plain 烏森神社(烏森稲荷)

創建 / 940年(天慶3)
祭神 / 倉稲魂命、 天鈿女命、 瓊々杵尊
住所 / 東京都港区新橋2-15-5 
公共交通機関アクセス / 地下鉄(銀座線・都営浅草線)新橋駅 徒歩数分

f:id:owari-nagoya55:20200720041928j:plain 細い路地に赤ちょうちん・・・・・おやじ心をくすぐる光景だ。
親方様は宣言解除したものの…解除はすれども具体的な施策は示されない。
日々発表される数値だけを捉えると2月はいいタイミングだったのかもしれない。
親方様、お忍びで自分の目と足で町に出て見たらどうだろう、舵を切る方向が見えてくるのでは

苔寺 『平泉寺白山神社』

梅雨の晴れ間の7/16、福井方向に車を走らせてきました。
目的地は九頭竜経由で勝山市平泉寺。
雨後の晴れ間で陽が昇る頃には生き生きした苔の緑が見られるだろう、そんな目論見です。

名古屋発は6:00、守山SIから名神高速に乗り一路、東海北陸自動車道「油坂IC」を目指す。
そこから国道158号線を経由し平泉寺に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20200718122514j:plain上は国道158号線(恐竜街道、美濃街道)の九頭竜川右岸にある道の駅「九頭竜」。
大雨による道路への影響もなく8時過ぎに到着。
ここのコンビニでゆっくりと朝食をとる事にした。
息子達が恐竜に興味を持った頃、ここの対岸にあるキャンプ場で宿泊し、福井県立恐竜博物館の化石発掘体験に行った時以来久し振りに立ち寄った、今も2頭の恐竜のモニュメントが置かれ、時が来ると雄たけびを上げる、子供だましにはいい場所だった。

f:id:owari-nagoya55:20200718122533j:plainここは福井市越前花堂駅から伸びる越美北線の最終駅でもあり、駅の先には線路はない。
ここから目的地までは九頭竜川を下る事。約一時間も走れば到着だ。
ここまでの登りでは悲鳴を上げていた軽のエンジンも幾分静かになってきた。

f:id:owari-nagoya55:20200718122557j:plain目的地の平泉寺白山神社へは9時30頃到着、無人の有料駐車場に300円投入し、一旦駐車場から参道を下る事とした。
鬱蒼とした杉の巨木が立ち並ぶ中宮平泉寺参道を下り切り、勝山城博物館、下馬大橋まで下る。
ここから再び参道を登り始める。

f:id:owari-nagoya55:20200718122618j:plain中宮平泉寺参道 日本の道100選に選ばれている、約1.2kmの旧参道である。
菩提林とよばれる樹齢1000年とも云われるスギや広葉樹の老木の並木に覆われ旧参道の石畳。
室町時代九頭竜川の河原の石を、修行僧が手送りで運びつくりあげたもので、長い年月により石畳は自然の苔で覆われ、目にも鮮やかで趣のある光景が残っている。
左に道路もあるけれど、これとて馬を通すための道を自動車用に作り替えたものだ。
空を覆う参道の樹々と苔の緑のトンネル、静まり返った空間は特別な感じを嫌が上にも感じられる。
フィルターでろ過された空気とでもいえばいいかな。
吸い込む空気もひんやりとして、心なしか美味しく感じる。

f:id:owari-nagoya55:20200718122645j:plain

平泉寺白山神社
717年(養老元年)、泰澄によって開かれ、霊峰白山に続くの3つ(加賀、越前、美濃)の越前禅定道にあたり、白山の美濃入口は長瀧白山神社白山長瀧寺、加賀は白山比咩神社、越前はここ平泉寺白山神社で三馬場と呼ばれ、山頂を極楽浄土と見立てた白山信仰の登拝拠点として栄えたそうです。
ここ平泉寺白山神社も盛期には48社、36堂、6000坊院を誇ったそうだです。

写真は精進坂
ここから先は身を清め心を慎む修行の場、この坂より上には魚の持ち込みは禁止されていた、それゆえ精進坂と呼ばれるそうです。
中央の石段、昔は52段だったそうで、1段の高さが高くのぼるのが大変だったようです。
現在は84段となりのぼりやすくなったと云われます。
下からの参道もそうですが、雨後などは丸い石が滑りやすくなるので足元と、周囲を見ながらの歩行は要注意。
それさえ気を付ければ豊かな自然と緑の苔の世界を楽しめます。

f:id:owari-nagoya55:20200718122713j:plain精進坂の中ほどからニノ鳥居。
参道脇は御覧の様に一面鮮やかな緑の苔の絨毯です。
久しぶりに目も覚めるような緑を見たような気がします。

境内全域は白山国立公園特別指定区域内に位置し、その広さは15万平方メートルあるといいます。
梅雨時から夏にかけ一面に生える見事な苔が平泉寺の見どころ、京都の西芳寺と共に苔寺として知られる。
苔の種類も豊富で素人目に見てもその違いが分かるほど、苔マニアにはたまらない場所かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200718122737j:plainニノ鳥居。
山王鳥居に似たこの鳥居は中央に屋根がついた神仏習合の時代の独特な様式だといわれ、おそらく日本にはここにしかないと云われ、当時の鳥居は一向一揆で消滅しましたが、こうして見る鳥居は1778年(安永6年)に再建されたものだそうだ。
控え柱が付いて、周囲の景観に溶け込むような佇まいだ、一目見てこの鳥居の虜になりました。
鳥居に掲げられた大額の白山三所大権現は中御門天皇の皇子天台座主公遵法親王が書かれたものという。

鳥居の先に見える拝殿は江戸時代に再建された寄棟檜皮葺のもので、1574年(天正2)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、46間(83㍍)あったと言われ、京都の三十三間堂より大きな建物だったそうです。
それを裏付けるように礎石が点在し、当時の大きさを物語っています。

f:id:owari-nagoya55:20200718122842j:plain本殿は1795年(寛政7)に福井藩主松平重富により再建された、総欅造で外観は白木造ですが、内部は美しく彩られているといいます。向拝など見事な龍の彫刻が施され見事となものです。
この本殿の扉は33年に一度しかあけられないそうで、次に扉があけられ見事に彩られた内部が見られるのは2025年だそうです。
祭神は伊奘冊尊をお祭りする。

f:id:owari-nagoya55:20200718122916j:plain本殿の左の大汝社、祭神は大己貴尊をお祀りしています。
本殿右にも同様の社があり別山社といい、天忍穂耳尊をお祭りします。
本殿と左右の社は白山を構成する三つの山を表しているそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20200718122940j:plain拝殿から本殿にかけては苔の宮ともいわれるだけに、静寂な境内一面が緑の絨毯を敷き詰めたように緑の苔が広がります。
平泉寺白山神社、霧雨の様な雨がしっとり降る早朝に訪れると更に別の表情を見せてくれそうだ。


平泉寺白山神社
住所 /    福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
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平泉寺白山神社で十分に目の保養を行い、次は越前蕎麦を食べに大野市に向かいます。
その前に、白山神社に向かう道すがら見かけた神社に「ちゃちゃと見てくるから寄らせてくれる?」とお願いし立ち寄る事にしました。

f:id:owari-nagoya55:20200718123001j:plain白山神社から車で10分程下った県道169号線脇の草むらの中に鎮座する神社。
妙に伽藍に魅かれた、入母屋の本堂と床の高い渡廊、本殿は流れ造の鞘堂で覆われ、いかにも雪深い土地柄を感じさせるもの。
コンパクトに纏められています。

f:id:owari-nagoya55:20200718123021j:plain社頭からの全景。
社号標は白山神社とある。
由緒書きなく詳細は不明ですが、石鳥居は昭和22年、社号標は大正14年と彫られています。
境内は広くあちらこちらに切株が点在しています、つい最近まで境内は杜で包まれていたようです。
伐採され陽当たりも風の通りもいい境内、緑の草むらに佇む「大渡地区の白山神社

大渡地区の白山神社
住所 / 福井県勝山市平泉寺町大渡28小沢4
平泉寺白山神社からのアクセス ​国道169号線経由で10分程

さて気になった神社にも寄り道することも出来たので蕎麦〃。

f:id:owari-nagoya55:20200718123042j:plain大渡地区の白山神社から恐竜街道を南下、県道240号線を経由し15分程で越前おおの結ステーション多目的広場兼駐車場に到着。随分と遅い昼ご飯になってしまった。
広場に建ち「時鐘」、高さ約8㍍の木造で四方に時計を備える。
明治の頃までは上に吊るされた半鐘を打ち鳴らして時を知らせたそうだ、この時鐘はそれを懐かしんで復元されたようです。モデルになったのは長良川のほとりに立つ「川湊灯台」だと云われます。
時鐘の左の山の頂に見えるお城は越前大野城。

この駐車場は廊下式の和風建物やステージが併設され、嬉しい事に駐車場は無料。
ここに車を停め七間朝市通りの「十割そば処 七間本陣」へ。

f:id:owari-nagoya55:20200718123103j:plain町屋風の外観で、以前は棟続きの長屋が続いていた名残を留め、気が付いたら両隣は無くなってました的な外観。
普段ならざる蕎麦となるけれど、ここに来たらおろし蕎麦でしょう。

f:id:owari-nagoya55:20200718123123j:plain蕎麦の香りは控えめですが、ほどよい弾力と喉越しのよさ、そばつゆに大根おろしが入った「おろしそばつゆ」で頂く蕎麦、大根の刺激が涼を感じさせるものです。
後味はとてもさっぱりして夏に向く蕎麦だと思う。
結構蕎麦の量は多く3玉の三間盛が1.5人前相当、かみさんから一玉プレゼントされたが4玉はお腹一杯。
さっぱりした越前蕎麦に大満足です。

「十割そば処 七間本陣」
住所 / 大野市元町3-20
越前おおの​結ステーションから北に徒歩5分程

お腹を満たし、周辺の酒屋さんで地酒を買い求め、ここからは羽島のコストコ経由で帰途に着く。

その途中の九頭竜湖でもう一社寄らせてもらった。

f:id:owari-nagoya55:20200718123145j:plain総社穴馬神社
九頭竜湖畔の国道158号線沿いに大きな石鳥居と穴馬総社の社号標は運転していても視界に入ってきます。
湖畔を見下ろす高台に鎮座する穴馬神社。
周辺に集落はないながら何故ここにと感じるけれど、目の前の九頭竜湖の下に集落はあった。
九頭竜ダムの建設で水没した氏神様をまとめて祀るために昭和39年に建てられたもの。
シャープな切妻造の拝殿とその後方に神明造の社殿がある。
境内には水没した集落にあった春日神社、立今神社の社号標も残る。

f:id:owari-nagoya55:20200718123204j:plain御祭神  天照皇太神他、17カ村の氏神を合祀
立合神社・春日神
氏神は立合神社、元は神明神社であったとされ、明治44年野尻・大谷入会地にあった八幡神社を合祀し、立合神社と改称された。
故郷は湖底に沈み、そこに住まっていた住民は離れ離れとなるも、人の去ったこの高台に氏神が纏められている。故郷を思う時ここを訪れることで当時の記憶が蘇ってくるだろう。

総社穴馬神社
住所 / 福井県大野市野尻54-1-2
大野市から車で45分程
さて晩御飯の時間には戻りたい、コストコに寄って帰る事にします。


今回各地にとんでもない降雨量をもたらし、各地に深い傷跡を残しました、被災された方々には心からお見舞い申し上げます。
自然の驚異を実感させられ事が多くなり、それは他人事では済まされないほど地球規模で歯車が狂ってきているようです。
個人でも支援の手を差し伸べる手段はある、明日は我が身、困ったときはお互い様だ。
明日は今日よりいい日が来る。

和爾良神社と大光寺

春日井市上条町8
先に掲載した和爾良神社の飛地末社「大日社」から南に歩いて10分程で「和爾良神社」です。

f:id:owari-nagoya55:20200715130337j:plain 社頭の全景は、郊外の古い神社らしく、比較的長い参道がまっ直ぐに続きます。
右は住宅、左は今も住宅が建とうとしています。

f:id:owari-nagoya55:20200715130358j:plain 西に県道25号線と東に県道30号線が伸びていますが、神社はその間に鎮座しているせいでしょう、至って静かで車の往来も少ない。
右に「和爾良神社」社号標と常夜灯、その先に石鳥居を構えています。
参道の先に蕃塀もあるようで、ここからでは蕃塀の存在から拝殿全景は窺えません。

f:id:owari-nagoya55:20200715130419j:plain 鳥居から境内に続く参道、参道脇は桜並木の様で桜の咲く時期はきっと華やかな表情を見せてくれるだろう。

f:id:owari-nagoya55:20200715130437j:plain 鳥居左に板宮造の赤い社。詳細は分かりませんがこの外観は・・・・・

f:id:owari-nagoya55:20200715130456j:plain社の左に植木の陰に隠れ、存在が目立ちにくいけれど庚申塔があります。

f:id:owari-nagoya55:20200715130515j:plain 「延喜式神名帳」に「尾張国山田郡和爾良神社」の記載と式内社と記されているようですが比定には諸説があるようで、大日社でも記載したけれど和爾良神社だとする神社は他にもあり、どれも決定的なエビデンスがないのが実情でこの神社を探し求める方も多く存在するようです。

f:id:owari-nagoya55:20200715130535j:plain 上は1891年の当地で現在の上条町以前は庄内川と内津川が交わる辺り一帯は和爾良村とあり、素直に「ここね?」としたい。

由緒書きによれば
和爾良神社は和爾氏由来の神社で1218年(建保6年)に小坂孫九朗光善が上条城築城に際し、荒廃した神社を嘆き再興し、光善の祖神磯城津彦命菊理姫命を合祀、和爾良白山宮と称した頃もあったようだ。
1993年(平成5)に創建時の呼称「和爾良神社」に戻したと記されている。

先に記載した大日社はこの際に造営されたとある。
再興後800年を記念してこれら手が掛けられているが、1218年以前には既に存在していたので、創建は更に遡っていき、地名や社名に和爾が残った様に和爾氏の頃まで遡るのかもしれません。

街が整備されお洒落になり、地名も古い地名からお洒落になったりすると、その地の謂れも消えていきます。 
地名は意外とその地を知るのに便利なもので、昨今の異常気象による禍は地名を辿っていくと先人達が地名で警鐘を鳴らしていたりします。

f:id:owari-nagoya55:20200715130556j:plain 参道を進むと正面に蕃堀、その先の境内は一段高くなり拝殿が建てられ、拝殿の右は公園になっているようでカラフルな遊具も見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200715130617j:plain 境内右の夜泣き石、春日井市の史跡に指定されているようです。
和爾良神社の右に大光寺がありますが、春日井市の昔話によるとこの石は大光寺にあったそうです。

昔、この地に住む松右衛門が庭石にしようとこの石を寺から家に持ち帰ったそうです。
持ち出されたこの石は夜になると鳴き声とともに「大光寺に戻りたい」と涙を流し訴えたと言う伝説が残る。

f:id:owari-nagoya55:20200715130717j:plain参道から西側の眺め
左から手水舎、脇参道、集会所手前に蕃塀がある。

f:id:owari-nagoya55:20200715130637j:plain 控え柱を持つ木造蕃塀と拝殿、手前に狛犬が守護しています。
背後には楠木の巨木が大きな杜を形作っている。

f:id:owari-nagoya55:20200715130744j:plain 和爾良神社の瓦葺切妻拝殿と右は瓦葺入母屋造の大光寺本堂、寺と神社が綺麗に並ぶ。
狛犬の阿形の右に「小野道風公発祥地」と記された石標。

f:id:owari-nagoya55:20200715130803j:plain 拝殿に繋がる石段前の狛犬。(2枚貼り合わせ)

f:id:owari-nagoya55:20200715130821j:plain和爾氏宗家が絶えたその後、和爾氏を祖とする小野葛絃が上条に赴任、894年(寛永6)に小野道風が誕生したという、その生誕地は道風記念館のある松河戸だったり、ここ上条付近だとか諸説あるようです。
こちらでは生誕の地に道風が祀られていないのは寂しいとのことから、平成30年に滋賀県の大津に鎮座する小野道風神社から道風の分霊を勧請したらしい。

f:id:owari-nagoya55:20200715130841j:plain 拝殿正面、白壁の白と木の色合いがシンプルで美しい。

f:id:owari-nagoya55:20200715130901j:plain 派手な飾りのない落ち着いた佇まいの拝殿。

f:id:owari-nagoya55:20200715130921j:plain 「延喜式内社 和爾良神社」の額と拝殿内。

f:id:owari-nagoya55:20200715130942j:plain 拝殿西から幣殿、本殿方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200715131003j:plain 拝殿左、東向きに板宮造の三社が祀られています。
左から市杵島神社(市杵島姫命)、御嶽社(少彦名命)、稚児社(天照皇大神)

f:id:owari-nagoya55:20200715131022j:plain御神木の楠は社殿の上空を覆うように枝を張り、境内に大きな木陰を提供してくれている。
木陰を求め本殿方向へ。

f:id:owari-nagoya55:20200715131045j:plain 右の幣殿と本殿。
千木は内削で鰹木は6本の様に見られます。
作りは神明造の様です。

f:id:owari-nagoya55:20200715131105j:plain 本殿後方は一周でき、公園に繋がります。
道路から隔てられ、緑も多いこの境内、神さまの傍で安全に遊ばせるにはいい場所かもしれない。
稀に「子供の遊び場ではない」と張り紙のある神社も見かける、子供を遠ざける神域故に当然理由があるけれど、子供の頃こうして遊んできたおやじから見ると受け入れてくれるようなこうした光景が見られる神社に妙に魅かれるものがある。

和爾良神社
創建 / 不明
祭神 / 阿太賀田須命、建手和爾命、磯城津彦命菊理姫
境内社 / 市杵島神社(市杵島姫命)、御嶽社(少彦名命)、稚児社(天照皇大神)
住所 / ​春日井市上条町8
公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、​南に徒歩20分
関連記事 / 大日社

f:id:owari-nagoya55:20200715131127j:plain拝殿右の切妻瓦葺で向拝が付いた小さな堂は「上条元三大師堂」
和爾良神社を参拝した後はここにもお参りすると御利益を得られる。
「南無元三大師」と唱えることで交通安全、家内安全、合格祈願、無病息災などあらゆる悩みにご利益が得られそうだ。
角大師とも呼ばれ、宗派に拘ることなく、戸口に御札を貼る事で災いから守っていただけると云う。

f:id:owari-nagoya55:20200715131146j:plain 拝殿の右に並ぶ入母屋瓦葺のシックな建物は大光寺本堂。
軒下で涼を取り、左の公園で遊ぶ子を見守る親の姿もある。

f:id:owari-nagoya55:20200715131206j:plain 代々の西国三十三ヶ所遥拝の記念奉納額が掲げられ、中には色褪せたものもあり、信仰心の厚さが伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20200715131227j:plain 切妻瓦葺で向拝が付いた小さな堂は「上条元三大師堂」
和爾良神社を参拝した後はここにもお参りすると御利益を得られる。
「南無元三大師」と唱えることで交通安全、家内安全、合格祈願、無病息災などあらゆる悩みにご利益が得られそうだ。角大師とも呼ばれ、宗派に拘ることなく、戸口に御札を貼る事で災いから守っていただけると云う、広い心をお持ちの仏様。
ここは寺、なので参拝作法の切替が必要。

f:id:owari-nagoya55:20200715131248j:plain 僅かな賽銭多くの願い、何卒流行病を…

堂内の厨子天台宗の中興開山の元三大師という僧の石仏が祀られているらしい。
この厨子の棟木に1510年(永生7)と銘があるといい、もとは鳳来寺にあったとされます。
小さな厨子ながらその作りは凝ったものがあり、室町時代から守り継がれてきた春日井市の指定文化財

f:id:owari-nagoya55:20200715131315j:plain 大光寺門前から元三大師堂全景。
西国三十三ヶ所本尊の石仏が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20200715131334j:plain 千手観音や馬頭観音、十一面観音など像容のはっきりした大小様々な像が見られる。

f:id:owari-nagoya55:20200715131355j:plain 山門から境内
左が本堂、中央が庫裏になるのだろうか。

大光寺の創建は不明ですが和爾良神社の別当寺であったとされ、1218年(建保6)上条城主の小坂光善により和爾良白山宮と共に現在地に移されたという。

どこから移されたか? 
それは、ここから北西の朝宮町に朝宮公園があるけれど、その南に鎮座する朝宮神社あたりだという。
この大光寺は山号を朝宮山といい、朝宮町とは所縁がありそうです。
だとすると和爾良神社の旧社地はこの辺りという事か?
「和爾良神社はここね?」とはいかなくなってきた。

大光寺
創建 / 不明
宗派 / 天台宗
山号 / 朝宮山
本尊 / 十一面観世音菩薩像
住所 / 春日井市上条町8

「総門脇の屋根神さま」

名古屋市東区筒井1、尾張徳川藩菩提寺「徳興山 建中寺」がある。
普通にナビに導かれると恐らく三門に導いてくれるのではないかと思います。

三門の前の道路を隔て、南側に広がる公園は建中寺公園、桜の時期にはのんびりと花見ができる場所です。
その公園の南にポツンと総門が建っています。
もとはここを含めて建中寺の寺領。

f:id:owari-nagoya55:20200713170737j:plain尾張名所図会で描かれた建中寺伽藍、赤丸が鳥居のある位置になり、左にかけてが現在の建中寺公園。
入口となる総門の前は、周辺の道幅に比べ妙に広い。
その理由は後述するとして、この広い通りから総門を眺めると門の先に公園、更に先には三門を望める。

f:id:owari-nagoya55:20200713170759j:plainこの総門の右手に明神鳥居が目に留まると思います、今回の目的地はこの小さな社。
唐破風造りの社が南を向いて祀られています。
以前からあるのは知っていましたが、筒井天王祭を調べていて、この社が実は以前は屋根神さまだったと知り、おまけ的な取り上げ方から一つにしておくべき存在だなと感じ再訪しました。

f:id:owari-nagoya55:20200713170821j:plain1652年(慶安5)に建立された総門、その築地塀の右手に緑青に包まれ、注連縄の張られた銅葺の明神鳥居は目立つ存在です。
額束に社名は記されていないけれど、この社が屋根神さま。
幕も張られ、後は提灯が吊るされていればほぼ正装の装いに近い。

f:id:owari-nagoya55:20200713170846j:plain 笠木の両端の緩やかな反り上りは、小さな鳥居ですが存在感のあるものです。

この社がいつからここに祀られているのか、以前はどこに祀られていたのか?
具体的には定かになりませんが、web情報では1954年(昭和29)頃の道路拡張に伴いこちらに祀られることになったようです。

f:id:owari-nagoya55:20200713170909j:plain 総門南側の異様に広い道路を見据えるかのように高い台座の上に祀られてる社、唐破風造といえばいいのだろう、妻入の切妻屋根の全体が唐破風構造になったもので、正面から見ると中央が盛り上がり軒にかけて緩やかな曲線を描き下っていき、その先で跳ね上がり重厚感のある外観です。

屋根神さまと云えば、熱田社、津島神社秋葉社等が祀られているのを見かけますが、以前訪れた際は社の扉が開いており、津島神社の神札は見ましたがその他は目に留まらなかった。
今回は残念ながら扉が閉じられ神札は見られませんでした、筒井町天王祭の際には提灯が吊るされ、扉は開けられると思います、それを見てから祭神は書き加えよう。

この屋根神さまの祭礼が「筒井天王祭」であり、ここ建中寺門前を本陣とする神皇車と情妙寺前を本陣とする湯取車の二台の山車が無病息災・家内安全を祈り曳き回されます。
湯取車の納庫は情妙寺の西にあり、その脇にも屋根神様は祀られています。

筒井町天王祭、その日に車でたまたま遭遇すると、通行規制が入り「運悪る」とか思っていたが、山車のからくりも披露され、宵の奉曳では山車の提燈に火が入り幻想的でもあるようだ、何よりも総門の前には屋台が連なるそうです。(イカ焼き片手にビールしかないな、好きなやつだ)

普段は人通りの少ないこの通りもこの日ばかりは大賑わい、屋根神さまもその様子を眺めて微笑んでいるのではないだろうか。そして次の世代にもこの繋がりを受け継いでくれることを願っているやも。
由緒はきっと良く分からないかも知れないけれど、神社当番があり今も大切に受け継がれている。
繋いで行けるものがあるという事は素晴らしい事だといつも思う。

筒井町天王祭、2020年は6月6・7日の予定だったそうですが、このコロナ禍のご時世、中止になったようです。この禍の出口はいつ見えてくるのだろう。

「総門脇の屋根神さま」
創建・祭神 / 不明
住所 / ​名古屋市東区筒井1-11
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車、北に徒歩10分程
関連記事 / ​建中寺​秋葉神社、熱田神宮、津島神社​、小さな社は軒下から降ろされた屋根神様​、車道町2「秋葉神社、高牟神社、熱田神宮、津島神社」​

『大日社』諸説ある幻の和爾良神社の飛地末社

春日井市上条町4
左手に製紙工場があり、子供の頃は「香しいにおいの漂う場所」の印象が強かった。
その後技術も進歩し今やそんなことは全くない。
過去の事かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200711082502j:plain 県道25号線(称春日井一宮線)で写真の前方、春日井市役所方向に向かうと県道508号線下街道に交わります。
大日社は大手製紙会社春日井工場の東にあたります。目印は歩道橋と右手の森かも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20200711082559j:plain 大日社正面全景、緑の中に鳥居の白さが際立ちます。
県道沿いの小さな杜に南を向いて明神鳥居が見られます。
所謂参道はなく、杜を取り囲む様に玉垣で囲われていて、鳥居の前の月極駐車場を通りそこから鳥居へ向かう事になります。見た所参拝者駐車場もないので車で訪れると困るかもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20200711082639j:plain
大日社境内全景。
広い境内の中央に社殿があり、間引かれて大きく枝を張って育った木々が境内に程よい木陰を作っています。
風通しも良く、木々が鬱蒼としているわけでもないので、この時期悩ませられる蚊や、じめじめした環境ではありません。陰か陽かで表現すれば陽の神社。

f:id:owari-nagoya55:20200711082709j:plain 大日社鳥居と境内に木陰を提供してくれる樹々。
大日社が単独で社殿を構える姿はあまり記憶がありません。

f:id:owari-nagoya55:20200711082730j:plain 鳥居右のトウカエデの巨木とその手前に道風橋の石標。
このあたりは小野道風生誕地として、ここから庄内川方向の松河戸付近に道風記念館が建てられています。
道風の生誕地は諸説あるようで、記念館のある松河戸説とここ上条町の上条城付近の二つの説があるようです。何れも決定的な根拠を見出せないようです。

今ほど河川整備されていない昔、暴れ川で流れを幾度か変えてきた庄内川の付近で生活するとしたら?
個人的に住むのであればこの辺りだろう。

サボテンや葡萄、桃などで馴染みのある春日井ですが道風以外にも謎があります、それは和爾良(カニラ)神社。大日社は和爾良神社の飛地末社として記されていますが、東に少し歩けば事実、和爾良神社が鎮座しています。
我こそは幻の和爾良神社と伝えられていたり、ここがそうだと推定される神社は複数存在し、考察されていますが決定打は出ないようです。
和示良神社 / 名古屋市名東区猪高町猪子石
両社宮神社 / 春日井市宮町

f:id:owari-nagoya55:20200711082758j:plain 綺麗な透塀に囲われた社殿全景。
柿渋が塗られているのかな? 木漏れ陽を受け、落ち着いた色合いで佇む姿は個人的に好きな光景です。
祭神は大日霎命で創建などの詳細は分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20200711082820j:plain4本の鰹木と内削ぎの千木を持つ神明造の社、こちらも経年劣化を感じさせない綺麗なものです。
後方は県道25号線、交通量は多い方ですが境内では意外に苦にならない。
歩道を行き来する歩行者も少ないようで、ベンチでもあれば涼んでいきたくなる。

f:id:owari-nagoya55:20200711082841j:plain 大日社由緒
祭神 大日霎命(日の神)
住所 春日井市上条町4丁目2181番地
由緒
鎌倉時代の健保6年(1218年)
木曽義仲の四天王の一人である今井四郎兼平の孫の小坂(男坂)孫九朗光善が上条城を築城した折、衰微していた和爾良神社を再興し、また、三の丸の外に外廊の土塁をめぐらせ、その西南の隅(本丸中心から150間)に御旅所を造営し、大日霎命をお祀りした。
大日の森(道風の森)として親しまれている。」

御旅所とはよく耳にするけれど
神社の祭礼など神さまが神幸の途中で休憩やお泊りになる場所の事、なので普段は御旅所には神さまはお見えになりません。
そうした事から由緒に祭神を記さない場合もあります。
時に摂末社や配偶神を祀って社殿を構えるものもあったり、諸事情により元の鎮座地から一時的にお祀りされたりする場合もあるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200711082905j:plain 参拝させてもらい、社の全容を収めさせて頂きました。
シックな社だけに僅かに施された金色の飾り金具は存在を主張してきます。

こちらの由緒書きに大日霎命(オオヒルメノミコト)と記されているので、普段からこちらにお見えの様です。(大日霎命は天照大御神の別名)

f:id:owari-nagoya55:20200711082928j:plain西側から見た境内の眺め、社殿の左に注連縄が吊るされた石があるようです。

由緒によれば上条城を築城した折、衰微していた和爾良神社を再興し、本丸から150間に御旅所・・・・・とあります。上条城は写真右手方向になります。
この御旅所が本丸から150間となると少し距離間が違うような気もしないでもないが、大した問題ではないだろう。
何よりもここを知る方がそうらしいといい、後世に語り継ぐ目的で記された由緒は率直に受け入れ尊重するものです。
個人的にこの差は長いスパンで見れば「それがどうした?」と思ったりする話です、古老の伝承は時にウイットに富んだジョークの様な事を語ってくれたりもする、悪意でも、利権に絡むものでもない彼らにすれば真実そのもので聞くのが楽しかったりする。

昨今世の中で起きている???と比べれば、取るに足らないし、歴史の謎は専門家が出してくれるのだろう。昨今起きている???は謎ではなく、その気になれば結論が出せるものばかり。

f:id:owari-nagoya55:20200711082952j:plain 境内の左わきの石標。
相変わらず学びがない、写真で読めばいいとする悪い習慣から、今回も刻まれている中身は読み取れない。指でなぞるか?

f:id:owari-nagoya55:20200711083014j:plain境内から鳥居方向の眺め。
鳥居や玉垣は2018年(平成30)と刻まれています、和爾良神社・合祀再興800年を記念し建之されたもののようです。

梅雨の晴れ間、汗だくの体に心地よい日陰と風を提供してくれた大日社、歴史も分からないし謎の多い地域ですがとても快適な環境を提供してくれました。

和爾良神社の飛地末社 大日社
創建 / 不明
祭神 / 大日霎命
住所 / 春日井市上条町4-2181
公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、​
徒歩で南へ15分程
関連記事 / 上野天満宮御旅所​、​上条城址