「外山神社」袈裟襷文(ケサダスギモン)銅鐸発掘地

小牧市北外山1494 『外山神社』
南外山『天神社』の東側の通りから北に徒歩5分程の犬山街道(稲置街道)沿いに鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210114201540j:plain延喜式神名帳春日部郡12座の一つに数えられる神社で「外山」は「トヤマノ」と読むようです。

f:id:owari-nagoya55:20210114201613j:plain社頭は県道102号線から一本東に入った住宅地にあり、南北に長い境内。
神門左側に若干数の参拝者駐車場があります。

f:id:owari-nagoya55:20210114201639j:plain以前は田畑が広がっていた一帯も宅地化により緑も少なくなりましたが、境内の杜には樹齢を重ねた巨木が聳えています。
参道は玉砂利が敷き詰められ、鳥居の先の拝殿に真っすぐに続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210114201705j:plain鳥居の左に手水舎、手水鉢。
手水舎の先の建物が社務所ですが無人のようです。

f:id:owari-nagoya55:20210114201729j:plain神明造平入の四方吹き抜けの拝殿。8本の鰹木に内削ぎの千木。
あと数時間で新年を迎える準備は万端。

f:id:owari-nagoya55:20210114201754j:plain拝殿前の狛犬は1923年(大正10)。
100年の時を経て風格も増してきているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210114201814j:plain現地では気付かなかったけれど、今こうして吽形の前脚の出っ張り部分を見ていると、筋肉の盛り上がりかと思っていましたが、どうも子供の狛犬の顔が彫られているような気がしてならない。
一般的に狛犬は向かって右側が阿形(アッ!)、左側が吽形(ン?)とされ、吽形が雌だとかあるようですが、
左右が逆だったり、共にン?だったり、育メンもいたりと一概に形に決めきれないものがある。
機会があれば再び確かめに行ってきます。

f:id:owari-nagoya55:20210114201839j:plain外山神社の創建や創祀についての詳細はよく分からないけれど、延喜式神名帳に名が記されているので見た目以上の歴史があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210114201902j:plain拝殿から幣殿、本殿方向は四方が吹き抜けという事もあり明るく、拝殿に掲げられた祭神も良く読み取れる。これは有難いもの。
老いに至っていない世代にはきっと分からないだろう(突然訪れますから)。
 
祭神は天照大神天児屋根命誉田別命を合祀するようです。

f:id:owari-nagoya55:20210114201925j:plain社殿全景。
拝殿左から奥に続く参道、神明造の本殿の左に二社祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210114201949j:plain小高く盛られた頂に板宮造りの社が二つ。
尾張国府宮と御嶽山のようですが、どちらがどちらなのか。
手前には霊神碑が立ち並んでいます、この辺りは御嶽開祖の一人、覚明行者の生誕地が近いこともあり御嶽神社が良く祀られています。

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幣殿から拝殿方向

本殿から幣殿方向の眺め、本殿は鰹木は5本、周囲は塀で囲われ本殿域の様子は見て取れません。

こうして見る社殿ですが、1959年(昭和34)の伊勢湾台風では甚大な被害を受けたそうです。
現在の姿はその後に復興されたものです。
自然に対する畏敬の念を忘れ、驕り高ぶる人を戒める様に、自然は一瞬で想定外のパワーを見せつけてきます。
身近で長い歴史を持つ神社の復興を願う気持ちが形になるには時間はかかる、けれどこうして地道に復興する事が出来るものです。
自然には勝てないけれど負けない意志がある限り人は捨てたもんじゃない。
今のコロナ禍も同じかもしれない、個が出来る事を考え、実践する意志と行動が伴えば克服できる。
受け身であったり、変わらない事を許容してはいけないのかも知れないね。

f:id:owari-nagoya55:20210114202041j:plain拝殿右に脇参道があり鳥居もあるようです、この他に社務所の脇にも脇参道があります。
社殿右の杜の中に複数の石碑が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20210114202105j:plainその内の一つ「袈裟襷文(ケサダスギモン)銅鐸発掘地」の碑。
1915年(大正4)境内地の確定作業中に東側の畑から銅鐸が発見されたという。
銅鐸が作られていた弥生時代は、豊作を祈り、収穫に感謝する祭礼に銅鐸は欠かせない役割を持ってたようです。
青銅器の銅鐸は当時の社会的なステータスの一つであったとも云われ、元々は吊り下げて鳴らして使う祭器としての用途だったのではないかと云われる。
やがて大型化、装飾化が進み置いてみる祭器に変遷していったと云います。
用途の変貌に伴い吊り手の形も年代より形状が変わっていったようで、ここで見つかった高さ36㌢、底の直軽18㌢の銅鐸は吊り下げて鳴らす本来の機能を持つ古い形態とされ「外山の銅鐸」として知られていたようです。
かなり使用され、全体は摩耗していますが、袈裟襷文という縦横に交差する帯を用いて身の部分を区画している文様が見られるそうです。
愛知で出土した銅鐸の中では、最古のものとされ、小牧市内から出土した銅鐸はこの1点だけといいます。(市指定有形文化財)

気紛れに訪れた無人の神社でありながら、氏子の方々の手入れも行き届き、とても気持ちよく参拝できました。
「ン?」だけはとっても気になる、結果が分かればここに追記しよう。
2020/12/31

外山神社
創建 / 不明
祭神 / 天照大神
合祀 / 天児屋根命誉田別命
境内社 / 尾張国府宮、御嶽山
住所 /  ​小牧市北外山1494
関連記事 / ​ 南外山天神社

「渋川神社」

昨年掲載した「直會神社」、その時に澁川神社の末社と書きましたが、その本社である『澁川神社』を今だ掲載していなかったので前後してしまうけれど掲載します。
名鉄瀬戸線「印場」駅で下車、5分程東に歩くと澁川神社です。

f:id:owari-nagoya55:20210113150251j:plain社頭南側の眺め。
神社南側の通りに社頭が接していますが、澁川神社の社地は意外なほど広い。
西側に冠木門があり、その東に素木の明神鳥居が建ち、社殿はこの鳥居の先に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210113150314j:plain素木の鳥居の左にもう一つ石の神明鳥居と、この通りに3つの鳥居がある。
玉垣は更に東へ続いています。

f:id:owari-nagoya55:20210113150337j:plain社地東角からの眺め、こちら側にも複数の社殿が見て取れます。
通り沿いに掲げられていた旧瀬戸街道の解説板、瀬戸街道から1本南に社頭があります。

f:id:owari-nagoya55:20210113150400j:plain澁川神社由緒書と境内案内板、予想より規模の大きい神社。

f:id:owari-nagoya55:20210113150423j:plainますば素木の鳥居まで戻り参道を進みます。
正面の社殿が異様に綺麗なのに驚きます、末社の「直會神社」の創建は676年(白鳳5)とされます。
当然それと同等かそれ以前の古い歴史があり、重厚な社殿を想像していましたがこうして見る限り、近年建立されたか、建て替えられて間もないものかと思えてしまう。

f:id:owari-nagoya55:20210113150444j:plain社務所から入母屋の拝殿と本殿方向の眺め。伽藍全体が新しい印象を受けます。
拝殿前の狛犬は胸板が厚く、勇猛な趣なんですが、色白なとこに若干ひ弱さを感じさせる。
足元の台座は雲をデザインしたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210113150507j:plain澁川神社
創始は景行天皇の御代と伝わる。醍醐天皇延喜式制定(905年)に伴い、​取り纏め・完成(927年)した延喜式神名帳式内社として記される(929年)神社。

澁川神社は旧山田郡の総社で、古事記日本書紀に登場する「高皇産霊神」を御祭神とする由緒ある神社で高皇産霊神」は高御産巣日神高皇産霊神高皇産霊尊、神魂命とも呼ばれるようですがどちらも同一神。​

戦国時代の織田信長により社殿改修、1688年(貞享5)には尾張藩藩主の徳川光友による社殿の再建など有力武将から厚く崇敬されていた。
その後も100年ごとに社殿の修復や1791年(寛政3)と1898年(明治31)に大修理が行われてきた。
しかし、1959年(昭和34)の伊勢湾台風では、樹齢300年以上のヒノキの大樹が数十本もなぎ倒されるなど甚大な被害を受けたようで、社殿が尾張旭市最古の建造物だったことから、文化財指定に向けて2002年(平成14)に調査予定だったが、調査の8日前に不審火により社殿を焼失。
2009年(平成21)に現社殿が再建されるまで仮社殿での運営だったといいます。

f:id:owari-nagoya55:20210113150528j:plain平成に入り再建された社殿は木造、なので職人の拘りが形になって現れるものですが、二段垂木や木鼻、懸魚にしても意匠をこらした飾りは少なく優等生の見本の様。拝殿を斜めから眺めた時の微妙な屋根の反り具合は美しいものがある。

f:id:owari-nagoya55:20210113150550j:plain拝殿から祭文殿、本殿方向の眺め。
澁川神社の創建はよく分かりません。
1900年前、現在の鎮座地から500㍍ほど南の蘇父河(そぶかわ後に澁川)の地で、地元民の勧進により高皇産霊大神が創祀された事に由来すると云われ、665年(白鳳5)に現地に遷座したとされるようです。 

f:id:owari-nagoya55:20210113150613j:plain本殿後方からの眺め。
本殿は流造で祭神の高皇産霊神の他、大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮売大神、八重事代主大神の七柱が合祀。

透き塀の菱格子の先に本殿脇の「西五社の宮」も「東五社の宮」は見えてはいますが写真に収めるのは難しいようです。
「西五社の宮」は菊理姫命、天津彦根命、豊受毘売命、火之軻具土命、建御名方命、「東五社の宮」は伊邪那美大御神、建甕槌命、日本武尊野見宿禰菅原道真の二社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210113150640j:plain本殿から拝殿方向の眺め、ぐるりとひと回りできます。
下の写真は祭文殿、焼失から再建されたばかりの綺麗な社殿はこれから風格を増していく事でしょう。

f:id:owari-nagoya55:20210113150703j:plain祭文殿左に東を向き鎮座する境内社は熊野社(手前)、八幡社。
境内社も火災により焼失したのでしょう、台座を見て行くと大半の台座が真新しい。

f:id:owari-nagoya55:20210113150724j:plain社務所の前に竣工記念碑と「忌明社」。
祓戸の神(神直日神、大直日神)を祀り、参拝の順路は手水で清め、こちらの忌明社で祓いをして拝殿に詣でるのが本来の順路。
​​
​下は「歯固め石」
赤ちゃんに石のように丈夫な歯が生えることを願い、 お食い初めの儀式でお借りするもの、使用後は再びこの場所に戻さないとね。

f:id:owari-nagoya55:20210113150749j:plainさて石の神明鳥居に向かいます、鳥居の先に社殿はありません。

f:id:owari-nagoya55:20210113150811j:plain鳥居をくぐった右に手水舎があります。
下は「黒石」と呼ばれ、名古屋城築城の際に天神川へ落としてしまった石だとされる。
大正時代に境内に移されたもので「川底の暗い世界から境内の明るい世界に移され、人々から開運の石として崇められている」
確かに上部が黒い石だけれど、これは火災の際の名残なんだろうか?

f:id:owari-nagoya55:20210113150840j:plain鳥居の先の玉垣で囲われた一角には狛犬がいる。
その傍らの解説によればここが火災で焼失した渋川神社の旧本殿跡。
江戸時代に再建された本殿は三間流造だったようです。以前の写真なども残るので現社殿もその造りを踏襲していると思います。
蘇父河から遷座した背景は天武天皇即位に伴う大嘗祭で、この地域に悠紀斎田が定められたのを機に、現在地に遷座したようです。
以前掲載した「斎穂社」も斎田の新穀を精選し献上するための神社でした。

f:id:owari-nagoya55:20210113150904j:plain旧本殿跡を守護する狛犬玉垣で囲われた中は玉砂利が敷き詰められ、礎石らしき石が残されています。

f:id:owari-nagoya55:20210113150928j:plain天武天皇悠紀斎田碑の後方の二社は「神明社」(左)、「八剣社」。
斎田碑の後方には1㍍四方の小さな田と解説碑があります。
そこにはこの斎田碑はそもそもここから南にあった鳥居塚と呼ばれる場所にたっていたそうだ、それも区画整理で居場所がなくなりここに移されたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210113150955j:plain悠紀斎田碑から東に「津島社」。
元々は西中町、渋川町、天神町、新東・白鳳町の各町で祀られていたものが、区画整理などで行き場がなくなりここに遷座されたようですが、今も各町内で世話をされているそうです。

津島社の右に鎮座する「渋川稲荷社」と「山神社」。
山神社は「春に山から里へ降りて田の神となり、収穫を終えた秋には山に帰って山の神となる、各家々の先祖の神様でもあり、女神であることから出産時に母と子を守る産の神、良縁・夫婦和合・子宝・子育てなど家庭の幸にご利益がある」

f:id:owari-nagoya55:20210113151019j:plain1878年(明治11)に伏見稲荷大社より分霊し、庄中南島(現渋川町)の地に渋川稲荷社として祀られていたが後に澁川神社境内に遷座されたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210113151041j:plain清流苑入口
小規模な庭園の中から湧き出る水は「清流苑井水」と呼び、大祓神事で使われる清水のようです。

高龗社。
以前掲載した桜が丘町の高龗社から分祀されたもの。
清流苑を守護する水神さま。

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連理木
境内の東に聳える樫の枝と楠の木が結びついた神木。
違う者同士一つになって大きく育つ姿から夫婦円満、離れていたものが一つに繋がる事に肖って遠距離恋愛やこの地を離れて暮らす家族を思う時にこの樹に願をかけると御利益があるという。

こうした樹はいろんなところで見られます。
接ぎ木は人の都合で作られたもので樹の意思は介在しない、こうした樹は自然の意思だけで形になっていきます、この姿を見て自然の不思議な力とそこに神を感じ崇めるのかも知れない。
こうした樹々を見て思うのは、周りと同じことをすることで拠り所を求めようとする心理に対し、自分の信念に基づいて「ひとつになりたかったんだよ」と個の意志のようなものを感じます。

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境内の南の東角に石標が複数建っています。
御嶽社かと思いきや、これらは直師夢想東軍流の棒の手が無形文化財に指定された記念の様です。

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社地東側の石垣、これも自然の力。
長い歴史を持つ渋川神社、火災による焼失、その後の氏子の力添えによる再建、連理木など様々な力がみなぎっている。

「渋川神社」
創建 / 676年(白鳳5)
主祭神 / 高皇産霊神
合祀 / 大年神、御食津大神、庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神、大宮売大神、八重事代主大神
境内社 / 東五社ノ宮、西五社ノ宮、神明社、熊野社、八幡社、忌明社、山神社、八劔社、稲荷社  津島社、高龗社

住所 / 尾張旭市印場元町5-3-1
公共交通機関アクセス / ​名鉄瀬戸線印場駅から徒歩5分
関連記事 / 高龗社​、​直會神社​、​斎穂社

出世神社 『元城 東照宮』

静岡県浜松市中区元城町 『元城 東照宮
静岡の東照宮と云うと久能山東照宮がすぐに思い浮かびますが、浜松市中心街に聳える浜松城を西に望む元城町の高台にも『元城 東照宮』が鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210111005538j:plain 無料の浜松城公園から国道を越え、目の前に聳える高台に「元城 東照宮」が鎮座しています。
高台全体がこんもりとした杜に包まれているため、社殿は見えにくいかもしれません。

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 西側から高台に続く坂を登ると左側に石の鳥居とその先に拝殿が見えます。
東照宮と聞くと日光東照宮であったり久能山東照宮のような広大な境内をイメージしますが、全国各地に建立された中にはこうした規模のものは普通に存在するもの。

f:id:owari-nagoya55:20210111005631j:plain 鳥居の扁額は「元城 東照宮」とある。
元城とあるように、この辺りはかっての曳馬城の跡地に建っているという。
駐車場から望むこの高台はそうした城の名残が感じられます。

f:id:owari-nagoya55:20210111005652j:plain 今は社頭右の曳馬城址の石標が建つのみ、曳馬城の築城年や城主など不詳の様です。

f:id:owari-nagoya55:20210111005717j:plain 鎌倉時代の浜松の町は「ひきま(ひくま)」と呼ばれていたそうですが武士にとって曳馬は縁起が宜しくないものです。
1570年(元亀元年)に徳川家康が引間(曳馬)城に入城、城域を西に広げ浜松城とし形作られていき、引間城は主役の座を明け渡しその後は米蔵として利用されていたそうです。 
東照宮が鎮座する場所は引間城本丸にあたるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210111005741j:plain 鳥居をくぐり境内に入って左に手水舎、手水鉢。

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ここに元城東照宮の由緒が掲げられています。
祭神は徳川家康事代主命大国主命
明治維新浜松藩代井上延陵により1884年(明治17)に創建。
その管理を大日本報徳社に委ねていたが、1936年(昭和11)大石力氏がその所有権を井上家より、大日本報徳社からは管理権を引き継ぎ元城町の氏神として奉斎。
1945年(昭和20)戦災により焼失、1959年(昭和34)に社殿、手水舎、社務所等再建現在に至る。

井上延陵は家康が城主を務めた引間城のあるこの地に、神となった家康を祀る東照宮を建立したかったのだろう。東照宮創建の立役者井上延陵、彼の大きな碑が手水舎の右に建てられている。

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ネッシー?
1959年に再建されたとは思えない龍口は貫禄十分。
龍にばかり視線は行きますが、手水舎も見てやってください、気持ちよさげに転寝する猫などもいます。

f:id:owari-nagoya55:20210111005849j:plain 右に社務所、訪れた時は無人でした。

f:id:owari-nagoya55:20210111005911j:plain 一段高く積まれた境内に社殿が鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210111005932j:plain 権現造りのコンクリート造りという事もあり、絢爛豪華な東照宮のイメージとは少し違い、飾りは控えめ、木鼻の龍は力強い。

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 拝殿前狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210111010019j:plain 社殿をひと回り。

f:id:owari-nagoya55:20210111010041j:plain 本殿横から拝殿方向の眺め、高欄の赤が無ければ地味な社殿かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210111010109j:plain 本殿の千木は外削ぎ。

f:id:owari-nagoya55:20210111010131j:plain5本の鰹木が施されています。
戦災で焼失後、昭和に入って再建された事もあり、火に強いコンクリート構造を選択したのもそうしたことがあるのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210111010152j:plain 拝殿西側からの眺め。
訪れたのが、あと数日で新たな年を迎えようとする時期、境内の紅葉が東照宮に彩を添えていました。

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 脇扉には滝に打たれる獅子の姿が飾られています。

f:id:owari-nagoya55:20210111010236j:plain 拝殿左に権現道の石標がある、上部の欠損は空襲の爪痕なのかな。
空襲により神社は焼失しましたが、入口の石鳥居が唯一被災を免れたものといわれています。
写真の石標が空襲を耐えたものであるとすると、ある意味「何かを持っている」。

f:id:owari-nagoya55:20210111010257j:plain 拝殿右に引間城と所縁のある家康と秀吉の銅像が並んでいます。
農民だった秀吉はここから武家奉公の機会を掴み、若き家康は居城として共に天下人となりました。
引間城はそうした二人の天下人を誕生させた舞台となった事から、出世神社として運気を授かりに訪れるそうです。
2015年、拝殿右に彼らの銅像が建てられ、二人の天下人の間に立って写真を撮り、それをSNSに上げるとその人の運気があがるパワースポットとして整備したようです。

f:id:owari-nagoya55:20210111010320j:plain 引間城址に建つ二人の像と社殿。
秀吉、家康の二人を天下人に導いた引間城、井上延陵の家康への思い。
一見普通の神社に見えてしまう元城の東照宮ですが、焼け残った鳥居など、ここには何か持っているものがあるのかも知れない。
2020/12/24

『元城 東照宮
創建 / 1884年(明治17)
祭神 / 徳川家康
住所 / ​静岡県浜松市中区元城町111-2
車でのアクセス / 東名浜松ICより約20分

大隅國一之宮  鹿児島神宮

鹿児島空港からほど近く、日豊本線隼人駅から北に約1㌔に鎮座する大隅國一之宮 鹿児島神宮
この地に来て最初に訪れた神社。

f:id:owari-nagoya55:20210108175011j:plainニノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め。
付近には駐車余地もなく、この絵では分かりにくいけれど、笠木の上に瓦が葺かれた朱塗りの両部鳥居。
境内までは長い参道が続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210108175033j:plainニノ鳥居手前の「三之杜」
以前は豊姫命 / 磯良命、武甕槌命 / 經津主命、火闌降命 / 大隅命を祀る三社があったようですが、訪れた時には手前の二社のみ、右奥には基礎だけが残った「ニノ社」となっていました。

f:id:owari-nagoya55:20210108175052j:plain

 神明鳥居のニノ鳥居。
参道の左右が駐車場、社殿から遠くなりますがこちらに駐車し参道を進みます。

f:id:owari-nagoya55:20210108175125j:plain 奉納木馬
参道右側に昭和18年に奉納されたもので、先に掲載した照島神社の鈴掛馬に通じるもの。
旧正月18日、神馬を先頭に複数の鈴掛馬が人馬一体となり踊りながら参拝する初午祭が奉納される。

f:id:owari-nagoya55:20210108175144j:plain 大隅國一之宮 鹿児島神宮案内
鎮座地 / 鹿児島県霧島市隼人町
御祭神 / 天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦)、豊玉比売命
相殿神 / 帯中比子尊(仲哀天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、品陀和気尊(応神天皇)、中比売尊(仲姫命)

f:id:owari-nagoya55:20210108175205j:plain宮内原用水路に架かる神橋
緩やかに続く石段の手前に御門神社が祀られている。

f:id:owari-nagoya55:20210108175225j:plain 左か櫛磐窓命、右に豊磐窓命を祀る。
この左に馬名「清嵐」と呼ばれる白馬がいる神馬舎があるが、生憎姿を見る事は出来なかった。

f:id:owari-nagoya55:20210108175244j:plainこの石段から楠木の巨木などが聳える杜が迫る。

f:id:owari-nagoya55:20210108175305j:plain 一つ目の石段を登ると右に一際大きな楠木の御神木が聳え、手前に社がある。

f:id:owari-nagoya55:20210108175326j:plain 朱塗りで流造の「雨の杜」
祭神は豊玉比古命を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210108175351j:plainこの楠木の御神木は建久年間に植樹されたもので樹齢は800年以上という。

f:id:owari-nagoya55:20210108175415j:plain 二つ目の石段の先に社殿が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20210108175436j:plain 境内の眺め。
参道左が手水舎で右手に社殿が広がります。

f:id:owari-nagoya55:20210108175457j:plain 手水舎全景。
朱が塗られた切妻の手水舎で、柱は黒漆で縁取られ欄間や蟇股にも彩色が施され手が込んだ造り。

手水鉢の龍口も特徴があるもの。
covid19対策でしょう、現在はセンサーが人を感知すると複数のノズルから清水が自動で流れるものになっています。これが定番の世になるのか、龍本来の仕事ができる日が訪れるのか、しばらくはお休みです。

f:id:owari-nagoya55:20210108175518j:plain 大隅国一之宮 国分正八幡 鹿児島神宮由緒概要
以下は一部抜粋
由緒概要 / 創祀は皇孫神武天皇の御代なりと伝えらる。農耕畜産漁猟のみちを指導し民生安定の基礎を創り給うた。
俗に大隅正八幡とも称し全国正八幡の本宮でもある。
延喜の制(901年)には大社に列し、大隅一ノ宮として朝野の祟敬篤く建久年間(1198年)には社領2500余町歩に及べり。明治4年国幣中社、同7年神宮号宣下官幣中社、同28年官幣大社に夫々列格す。
昭和天皇陛下の行幸勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。
現社殿は宝暦六年(1756年)島津重幸公(24代)の造営なり。
御陵 / 高屋山稜と称し当宮より西北へ約十三粁 空港に近い

本殿域以外にも稲荷社、卑弥子神社など鎮座し懐が広く、すべて参拝したいところですが時間に余裕がないと回り切れないのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210108175538j:plain 手前の勅使殿、拝殿、本殿が南向きに一列に連なる伽藍。
勅使殿右の石段から拝殿に出ることが出来ます。

f:id:owari-nagoya55:20210108175559j:plain 「龍宮の亀石」
勅使殿の右にあり、亀の甲羅に似た自然石。参拝前にこの石を撫でると願いも叶いやすいという。

f:id:owari-nagoya55:20210108175627j:plain 勅使殿右の県指定有形文化財の解説
鹿児島神宮本殿・拝殿・勅使殿
鹿児島神宮本殿は、宝暦六年(西暦一七五六年)島津重豪によって再建されたとされ、県内最大の木造建造物として文化財的価値が高いため、鹿児島県より有形文化財(建造物)として指定される。
・本殿の構造は柱間が正面七間、側面四間の入母屋造りで、正面に前室を設けてあります。本殿の壁画は薩摩藩の画家、木村探元の筆になると伝えられています。
・本殿につながる拝殿は縦長で、天井の格子には、花や野菜等が色彩豊かに描かれています。
勅使殿は神殿社殿の入口に位置し、天皇から幣帛を託された勅使をお迎えする所として作られています。

f:id:owari-nagoya55:20210108175657j:plain 唐破風向拝の施された勅使殿全景。

f:id:owari-nagoya55:20210108175719j:plain 勅使殿扁額。
社殿は朱塗りで柱には手水舎同様に黒漆で縁取られ、蟇股も彩色が施されるなど、落ち着いた外見に対し華やかな一面もあります。

f:id:owari-nagoya55:20210108175740j:plain 拝殿の格子天井には緻密に描かれた植物が描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20210108175759j:plain 拝殿両脇の柱には龍の彫りが施され、こちらも鮮やかに彩色されています。

f:id:owari-nagoya55:20210108175822j:plain 千鳥破風の付く拝殿から本殿の眺め、本殿は檜皮葺の入母屋造。
拝殿内部から想像できない程外観は落ち着いた佇まいをしている。

f:id:owari-nagoya55:20210108175845j:plain 拝殿右に銅板葺で朱塗りの流造の社が「四所神社」、屋根には外削ぎの千木と3本の鰹木が施されている。
祭神は大雀命、石姫命、荒田郎女、根鳥命。

f:id:owari-nagoya55:20210108175909j:plain 木鼻、斗栱などこちらも手間をかけた彫や彩色が施されています。

f:id:owari-nagoya55:20210108175931j:plain 「四所神社」の斜め向かいに拝殿方向を向いて二社が鎮座しています。
左が「式内神社」で祭神は武内宿禰を祀ります。

f:id:owari-nagoya55:20210108175952j:plainその右が「隼風神社」
一連の社と同様の作りでひと回り小ぶりな一間流造の社。
御祭神は日本武尊

f:id:owari-nagoya55:20210108180018j:plain 左は四所神社後方から本殿後方の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210108180038j:plain 本殿後方に末社の稲荷神社に続く参道が杜の奥へ続いているようで、神社案内ではここからでも結構あるようなので参拝は見送りました。

f:id:owari-nagoya55:20210108180059j:plain 振り返って四所神社と式内神社方向を眺める。
この下側にも駐車場があり、石段を避け一気にここまで来れるようです。
楽ちんではあるけれど、それもどんなもんだかね。
一ノ宮を参拝し御朱印を頂くことに注力するかみさんからすれば、本音はここまで車で来たかったのではないだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210108180122j:plain 鹿児島初日、最初の神社から既に計画から遅れを生じさせてしまったようです。
このうえ一ノ鳥居まで行ってくるとはなかなか言えまい。

f:id:owari-nagoya55:20210108180143j:plain

 大隅國一之宮  鹿児島神宮 
創建 / 不明
祭神 / 彦火火出見尊、豊玉比売命
相殿神 / 仲哀天皇仲哀天皇応神天皇応神天皇皇后
住所 / ​鹿児島県霧島市隼人町見次内 24961

秋葉神社 / 吹越御嶽山

知多郡南知多町
夏には海水浴で賑わう内海海水浴場、その西外れの辺りの砂浜を西浜ビーチと呼ぶそうだ。
かれこれ40年ほど前、この辺りに泳ぎに行こうと向かったけれど、交通事情が悪かった事もあり、えらい渋滞につかまって以来夏にこちらを訪れる事はなかった。
久し振りに訪れて見ると、当時にはなかったお洒落な店や旅館などあり随分変わっていることに驚きました。
今回の目的地は、この西浜ビーチの高台にある『秋葉神社
訪れたのが2020/10/26、この時季にしては暑いと感じるほどの陽気。

f:id:owari-nagoya55:20210107091056j:plain 西浜ビーチから今まさに出航する舟、ではなくてこれ浜辺に設けられたWC。

f:id:owari-nagoya55:20210107091117j:plain南国情緒が漂うビーチ沿いに一方通行で駐車禁止の道路が伸びる。
写真は内海新港のある西方向の眺め。
そんな光景の中に社号標が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20210107091152j:plainビーチから見る秋葉神社社頭。
ここから参道が後方の山の頂に向け続いているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210107091211j:plain 右に社号標、その先に常夜灯と石の鳥居、狛犬も見えています。

f:id:owari-nagoya55:20210107091231j:plain 参道脇の手水鉢。
これ程ビーチに近いとあらぬ使い方をされるのでは?そう感じてしまうのはおやじだけか。

f:id:owari-nagoya55:20210107091252j:plain 鳥居の先を守護する狛犬
胸板が厚く凛々しい姿をしています。

f:id:owari-nagoya55:20210107091312j:plainコンクリートの参道脇は玉砂利ではなく、ビーチの砂そのものです。
昼も過ぎていただろうか、参道に大注連縄が影を落としていました。

f:id:owari-nagoya55:20210107091331j:plain 参道は鳥居から二手に別れます。
真っすぐ進むと秋葉神社に続く石段、右に行くと吹越御嶽山に続く石段、どっちにしても石段を登る事になります。
まずは正面の石段を登り秋葉神社に向かいます。

石段中ほどから鳥居方向の眺め、この先には海が望めます。

f:id:owari-nagoya55:20210107091351j:plain 石段は左に折れるとその先が頂。
境内はその頂にあり、ニノ鳥居の先に社殿が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20210107091411j:plain 社殿全景。
左の建物が社務所なのか、拝殿なのか、それとも幣殿にあたるのかよく分かりません。
本殿の左右に境内社が複数祀られているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210107091431j:plain 本殿右に二社。
左が津島社、右の社は社名札の文字が飛んでしまい思い出せません。
木花咲耶姫命が祀られていたような。

f:id:owari-nagoya55:20210107091452j:plain 本殿右の覆屋には御嶽社。

f:id:owari-nagoya55:20210107091513j:plainその左が秋葉社
この秋葉社の創建に繋がる由緒書きは整備されていないようで、知多郡史下巻に以下の記録が記されていました。
そこには「秋葉社 東座頭畑 火加具津知命 元禄2年創立」とある。
東座頭畑の住所から見ると、記されているのはここを指していると思われます。
正にここ秋葉神社がそれだとするならば、1689年創建と意外に長い歴史を持つ神社。

内海にはもう少し北側の山中に秋葉社があるけれど、現在の住所から見るとそちらではないと思われます。

f:id:owari-nagoya55:20210107091536j:plain 本殿左の社は金刀比羅社。
参道は更に左の奥に伸び、丘の西側に続いています。

f:id:owari-nagoya55:20210107091601j:plainこの参道は狛犬がいた分岐の吹越御嶽山への参道に続くようです。
樹々の隙間から海を眺め、細い下りの石段を下りていきます、その脇に摩利支天(左)、日本武大神が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210107091621j:plain 細くて急な石段を下り切ると視界が広がり、左に社とその先に瓦葺の建物が現れます。
写真の社は九頭龍社。

f:id:owari-nagoya55:20210107091644j:plainお穴屋と呼ばれ。
ここから少し下ったところに鎮座する御嶽神社創建と同時期、御嶽山を更に広める目的で山の岩盤に金槌とのみで掘られた小さな洞窟。

f:id:owari-nagoya55:20210107091703j:plain 解説によれば内部にはここを掘った行者の納骨塔や、覚明霊神碑、不動明王などが安置されていると云う。お穴は代々行者の修行場とされたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210107091728j:plainお穴屋から少し下ると御嶽神社

f:id:owari-nagoya55:20210107091749j:plain 吹越御嶽山
「創始は明治3年清海行者(林善四郎)により創建。
妹の病を治さんとして御嶽山ニノ池で行を行い、明治23年礼拝所お穴屋を建築。
吹越、岡部村初め須佐方面からも多くの信者が訪れたようです。
頂上に摩利支天を祀り、八海山、日本武大神、猿田彦大神、戸隠九頭社が祀られている。」
随分と見落としてものがありそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210107091814j:plain 更に下っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210107091835j:plain 振り返って下ってきた石段を眺める。
登る事を思えば秋葉神社から下ってきて正解かな。

f:id:owari-nagoya55:20210107091900j:plainこの石段脇にも御嶽神社らしく多くの霊神碑が建っています。
この山自体が小さな御嶽そのものです。ここまで来ると社頭も目の前。

f:id:owari-nagoya55:20210107091923j:plain 小さな神社かと思っていましたが、この山全体が神域のようです。

f:id:owari-nagoya55:20210107091951j:plain 鬱蒼とした杜の中から視界は広がり、青い海と明るい空が広がります。

秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 火加具津知命

吹越御嶽山
創建 / 1870年(明治3)

住所 / ​知多郡南知多町内海東座頭畑10
公共交通機関アクセス / 名鉄知多新線「内海」駅から徒歩25分程

「平手政秀墓標」

以前掲載した「綿神社」
神社を再建した平手政秀。
天文22年(1553)信長の奇行に対し自らの死をもって諫めようとした政秀。
政秀の戒名は政秀寺殿功菴宗忠大居士政秀。
政秀の領地だった小木山に信長は彼を弔うため寺を創建したという。

f:id:owari-nagoya55:20210104204052j:plain瑞雲山・政秀寺と称した寺はその後の1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで焼き払われ、その翌年に信長は政秀寺を清須に再興させますが、後の清須越しに伴い寺と政秀の墓所は現在の名古屋市中区に移設される事になります。現在、政秀の墓標は平和公園西側の政秀寺墓地の高みに移されています。

f:id:owari-nagoya55:20210104204114j:plain平和公園西側の案内図、政秀寺墓苑は赤丸部分。

f:id:owari-nagoya55:20210104204134j:plain平和公園の西にあたり、高みからは政秀が再建した「綿神社」や「末森城」のある西方向が見渡すことが出来ます。

f:id:owari-nagoya55:20210104204154j:plain高みにはピラミッドの如く墓標が建てられ、極楽地蔵尊が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20210104204217j:plain極楽地蔵尊の後方に六地蔵尊が西を向いて安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20210104204244j:plain極楽地蔵尊のある高みの一番東側、樹の右が政秀の墓標。

f:id:owari-nagoya55:20210104204311j:plain

f:id:owari-nagoya55:20210104204330j:plain
平手政秀墓標。
当時の墓標とするならば既に5世紀を経ようとしている、墓標の中ほどのひびが時代の流れを感じさせる。

f:id:owari-nagoya55:20210104204358j:plain墓標後方には政秀が自刀した天文22年(1553)が刻まれています。
2021/1/4

平手政秀墓標
住所 / ​名古屋市千種区平和公園2丁目
関連記事 / 綿神社

八白龍神社

金山総合駅の南口を東へ向かい、大津通を右に進むと沢上の交差点に出会います。
交差点を左に進むと東海道本線名鉄名古屋本線の線路をパスする高架僑があり、橋沿いに道路が続いています。八白龍神社はその道の左側に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210104080147j:plain 駐車場の先に左右を民家、後方に♡ホテルが聳える環境に神社はある。
写真の通りは神社巡りとしては抵抗なく歩ける、道路一本中に入ると煩悩が目覚める妙な空間になる。

f:id:owari-nagoya55:20210104080157j:plain 駐車場から見る八白龍神社全景。
右に社号標があり木の鳥居の先に社殿が見えている。

f:id:owari-nagoya55:20210104080209j:plain 鰻の寝床の様に細長い境内、その先にニノ鳥居を構えている。
社号標は1923年(大正12)と刻まれているように見える。

f:id:owari-nagoya55:20210104080136j:plain 社号標に刻まれた年代に近い地図を遡っても神社の形跡は記されていない。
創建が社号標の年号あたりだとすると、住居の集まりは熱田台地を中心に広がりを見せ、低地にはまだ田畑が見て取れます。龍神を祀る動機は十分にあったのかもしれない。
八白龍なのか八つの白龍なのか、この神社の詳細は掴めませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210104080224j:plain 境内のニノ鳥居前の建物は倉庫なのか、社務所なのかよく分からなかった、住所はとても分かりやすい。

f:id:owari-nagoya55:20210104080400j:plain 境内の手水鉢。

f:id:owari-nagoya55:20210104080411j:plainニノ鳥居から拝所、社殿方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210104080421j:plain 神殿域は中央に神明造りの社が二社と左に八白龍神と刻まれた石標。

f:id:owari-nagoya55:20210104080510j:plain 拝所脇には狛犬もしっかりと守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20210104080536j:plain 神殿域。
左右に民家が迫り後方にはホテルの壁が聳える、なんとなく薄暗く、風が通り抜ける感覚があまりないようです。

f:id:owari-nagoya55:20210104080558j:plain 中央の小ぶりな社と右の大きな社に社名札はなく社名は分かりませんが、小ぶりの社に龍神が祀られていると思われます。
八白龍か八つの白龍かそれすら分からないけれど、鬼門として八白(北東)のこの地に神社を造ったとすると、南西のなにを守ろうとしてのだろう。
神社仏閣、それとも城か?、八つの白龍も聞いたことがない、五龍なら悩みもしないが、地元の方に教えを乞うのが一番早いのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210104080619j:plain 左に八白龍神の紀年碑、この碑の裏側に創建に繋がるヒントが刻まれているのかもしれない。
謎だらけの八白龍神社です。
2020/12/22

八白龍神
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市熱田区金山町2丁目6
公共交通機関アクセス / ​金山総合駅南口から徒歩約10分