和歌山県新宮市神倉「神倉神社」降臨の地は過酷な石段の先に

​​和歌山県新宮市神倉「神倉神社」

f:id:owari-nagoya55:20210402103627j:plain熊野速玉大社から10分程に位置し、狭い道路脇に間口の狭い駐車場があります。
駐車場自体それほど広くなく、大きなSUVや四駆には過酷な場所、生活道路でもあり路上で空きを待つのは避けたいところ。
しかしそれさえ我慢すれば、熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社「神倉神社」はとても近い。
僅か120㍍程の神倉山の中腹に鎮座する社までは、熊野古道の一部の500段ほどの石段を上るだけ・・・・嘘ばっかりです。
降臨の地へ訪れるには過酷な道を覚悟しておくべきです。
写真は神橋から神社入口の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210402103648j:plain神橋の先に赤い鳥居、これは猿田彦神社、神倉三宝荒神社の鳥居です。
最初に参拝すべき神社。

f:id:owari-nagoya55:20210402103707j:plain神倉山の山肌を背にして鎮座する猿田彦神社、神倉三宝荒神社の全景。

f:id:owari-nagoya55:20210402103729j:plain右手が社務所

f:id:owari-nagoya55:20210402103751j:plain猿田彦神社、神倉三宝荒神社右手に神倉山から湧き出た清水が滝となり流れ落ち、周囲に比べ空気がひんやりとして、身は引き締まり、流れる水が心を洗い清めてくれる、そんな気になる空間です。

湿気があるので看板にあるよな彼らがいてもおかしくない。

f:id:owari-nagoya55:20210402103816j:plain猿田彦神社
祭神の猿田彦は、高天原から地上に降りる天孫瓊々杵尊を高千穂に導いた神で「道開き」の神。
御神体のゴトビキ岩に向かう前に参拝。
三宝荒神
祭神は火産霊神誉田別命で、願望成就、商売繁盛の御神徳が高い。
高野山の奥社と立里(たてり)の三宝荒神を勧請したもの。

f:id:owari-nagoya55:20210402103842j:plain上「熊野三山(権現山)」解説
「市内西方にそびえる権現山(神倉山)、神が降臨する神体山として崇められて来た。
主峰は千穂ヶ峰(253㍍)で鎮護ヶ峰とも記され、神仏が鎮まり守護してくれる山。
古くから熊野速玉大社の神降臨の神域として重要でした。
権現山の南、高さ100㍍近い断崖絶壁に神倉神社があり「天磐盾」とみなされてきた。
ここには神が鎮座する磐座があり「ゴトビキ岩」と呼ばれる。
古来から霊域として、修験者の行場として栄えてきた」
下「神倉神社由緒」
「御祭神 高倉下命、天照大神
例祭2月6日 夜
御灯祭りという古儀の特殊神事として名高い、白装束に身を固めた祈願者が神火を松明に受け急坂(源頼朝公寄進の鎌倉式石段)を駆け下る壮観な火祭りである。
御由緒
熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社。
熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神降臨の霊地、熊野信仰の根本ともいうべき霊所。
御祭神の高倉下命は建国の功臣、熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の祖として知られ、農業、漁業の守護神として御神徳が高い」

f:id:owari-nagoya55:20210402103906j:plain「天磐盾」
天磐盾とは、神武天皇紀(日本書紀)に、紀元前3年に神武天皇東征の際に佐野を越えて「熊野神邑(新宮の古称)に至り天磐盾に登りて」と記されている。
左の碑は紀元2650年を記念し平成2年に建てられたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210402103928j:plainさあ、降臨の地に向け参道を進みます。

f:id:owari-nagoya55:20210402103948j:plain朱の両部鳥居。
鳥居から先は石段が壁のように上に伸びています。
降臨の地までは源頼朝寄進の鎌倉式石段538段を登りきらなければ辿り着けません、段数は大した事はないが目の前の勾配は参道ではなく、修験道そのもの。
安易なつもりで登れば後悔する事になるでしょう、一番怖いのが踏み外しによる怪我です。
この写真の箇所から途中の火神社あたりまでが特に急で、自分も含め周囲では四つん這いで昇り降りする光景も見受けられます。
人目を気にすることなく手は使う事をお勧めします、無事に戻って参拝終了です。

f:id:owari-nagoya55:20210402104011j:plainなんていうのか、これが登りにくく、ただの直登ではなく、くねくねした直登と云えばいいのか。
踏み石も大きさはバラバラ、でもって角が取れ斜度は急。
毎年2月6日の夜に御燈祭りがおこなわれ、この急こう配を松明を手にした信者が駆け下りるのだそうだ。
熊野に春を呼ぶ男の火まつりとして知られるようですが、命がけの度胸試しだ。
くれぐれも下は見ない。
鳥居からしばらくの間の200段?が最大の難関なので、ここだけは人目は気にせず空いた手を使おう。

f:id:owari-nagoya55:20210402104042j:plain最初の難関を乗り越えれば概ね心配はいらない、といってもその先はこんな感じで続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210402104106j:plain中間地点の火神社、中ノ地蔵堂が見えるとそこは平坦な境内。
ここで小休止、水分補給を行い参拝。

f:id:owari-nagoya55:20210402104132j:plain世界遺産熊野古道の趣が漂う参道、ここから先は比較的勾配は緩く歩きやすくなります。
左側は杜があるものの手摺はなく、踏み外し注意に変わりはない。

f:id:owari-nagoya55:20210402104409j:plain山肌に沿って平坦な参道に変り、前方に朱塗りの鳥居と玉垣が見えてくればゴトビキ岩もあと僅か。
右の斜面につけられた石段の先に社が鎮座する、参拝していきます。

f:id:owari-nagoya55:20210402104227j:plain満山社
熊野本宮大社でも見かけたが、縁結び八百万の神々を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210402104157j:plainニノ鳥居
ここから先の右斜面全体が突起が少ない巨大な岩盤が露出しています。
濡れたところは滑りやすい。

f:id:owari-nagoya55:20210402104445j:plain神倉神社の手水鉢
鳥居から先の右にあり解説は以下。
「新宮城主第2代の水野重良(1596~1668)が下野國(栃木県)那須城主の大関高増の母の延命と繁栄を祈願し寄進したもの。
黒雲母花崗斑岩の巨大な石を加工して作られ、正面には寛永8年(1631)に重良が寄進したと刻まれている。阿須賀神社にも同様の物が奉納されている」

f:id:owari-nagoya55:20210402104514j:plain手水場を過ぎればゴトビキ岩。
山肌に露出した岩盤の上に注連縄が巻かれたゴトビキ岩と呼ばれる巨岩と複数の岩が寄り添うような形で組まれ、それら絶妙のバランスで安定している。
これが御神体の「ゴトビキ岩」、自然が作り出した不思議な造形だ。
一見すると一つの岩に見えるゴトビキ岩、よく見るとその上部にもう一つ岩が乗っており、少し離れて眺めるとカエルが佇む姿にも似ている、この地方ではガマガエルを「ゴトビキ」と呼ぶようで名の由来はそこからきているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210402104540j:plainその巨岩の下に人が築いた赤い社殿が建つ。
劣化も少なく近年補修の手が入っているようで朱も鮮やかです、造がどうこう以前に良くぞ建てたものだ、そちらの方が驚きに値する。
御祭神は高倉下命と天照大神をお祀りする。熊野信仰の始まりともいうべき霊所。

f:id:owari-nagoya55:20210402104608j:plainゴトビキ岩は神倉山中腹の岸壁にあり、そこからの眺望は絶景。
下に新宮市の街並みが広がり、その先に熊野灘を臨む。
写真左中ほどのこんもりとした山が蓬莱山、水野重良が寄進したもうひとつ手水鉢がある阿須賀神社が鎮座する。
壁の様な石段を折れそうな気持を押さえ登り詰めた御褒美だ。

f:id:owari-nagoya55:20210402104637j:plain振り返ると社殿とゴトビキ岩。
樹々の隙間からさす陽射しは神々しく、神の降臨を疑う者はいないだろう。

f:id:owari-nagoya55:20210402104700j:plain石垣が高く積まれその上に鎮座する社、参拝に向かおう。

f:id:owari-nagoya55:20210402104723j:plain神倉山の天ノ磐盾(あまのいわたて)という険しい崖の上に鎮座する姿は新宮市を見守るようでもあり、その姿は麓の町からも良く見える。

f:id:owari-nagoya55:20210402104744j:plain御神体のゴトビキ岩を支える袈裟岩を右手方向に登っていく。
ゴトビキ岩に寄り添うように巨岩が組まれ、その隙間に丸い玉砂利が敷き詰められ榊が供えられたスピリチュアルな空間があります。
巨石を中心とした古代信仰が行われていたようで、ここから弥生時代の遺物や平安時代の経筒など見つかっているという。

f:id:owari-nagoya55:20210402104814j:plainこの不思議な空間と空気感は、自然の奇跡では語れない特別なものを感じる。
さあ、麓に戻ろう。
誰も助けてはくれない、自分の足で戻るしかありません。 

f:id:owari-nagoya55:20210402104843j:plain下に一ノ鳥居が見えて来た、ゴールを前に気を緩めると一番危ない場所。
行きは下を見ないようにしていたが、こうして下を見ると相当怖いものがある。

今回参拝し次に訪れる際の覚えとして以下を書き留めておこう。
参拝時にヒールは絶対に無理です、滑り止め加工されたソールの靴がいいでしょう。
飲み物もあるといいでしょう。
入口に杖があります、その心遣いには甘えて下さい。手摺はありません。
調子こいて直登すると膝に来る、途中休憩を入れゆっくり登ってください。
人の目は気にすることなく手も使いましょう。
登ったら最後、エスカレーターはないので必ず自分で降りるしかありません。
山と一緒です、登りの方や足場の悪い方には道を譲りましょう。

御燈祭りでここを駆け下る? 信じられないものがある。
修業がたらん自分は踏み外して転がり落ちるのが見えている、恐怖の石段だ。

f:id:owari-nagoya55:20210402104907j:plain夫婦共々無事に下に戻って岩に腰掛け一息つく。
こんな辛い思いをしながら、心の中では「また訪れたい」気持ちが生まれてくる。
神倉神社はそんな不思議な魅力を持っている。
2021/02/21

f:id:owari-nagoya55:20210402104943j:plain神倉神社(熊野元宮)
創建 / 128年(景行天皇58)
祭神 / 高倉下命、天照大神
境内社 / 猿田彦神社、神倉三宝荒神社、火神社、中ノ地蔵堂、満山社
住所 / 和歌山県新宮市神倉1-13-8
熊野速玉大社からアクセス / ​車で10分程
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桜を求め牧野ヶ池緑地へ

牧野ヶ池緑地
名古屋市名東区にあり灌漑用の牧野池を中心に公園と森が残されている。
前日の雨も上がり緑と桜を見ながら歩くには絶好かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210330103251j:plain駐車場西側の案内図

f:id:owari-nagoya55:20210330103314j:plain竹の小径方向に向け南へ
子供達が休みに入っているのをすっかり忘れていた
ここなら親も安心して子供を自由に飛び跳ねさせられる
雨後の公園は帰ってから洗濯が大変かもしれないが、洗濯は洗濯機がやってくれる、好きにさせてやればいい。

f:id:owari-nagoya55:20210330103340j:plain竹の小径
筍採取禁止の看板の多い事
そうだよなぁ、そんな時期だ
ここは真昼間より、少し陽射しが弱い時間帯の方が緑も鮮やかで趣が増すかも知れない

f:id:owari-nagoya55:20210330103400j:plainひと回りして西側の芝生広場へ

f:id:owari-nagoya55:20210330103420j:plainこれは山桜か? 鮮やかな緑の若葉が目に優しい

f:id:owari-nagoya55:20210330103445j:plain芝生広場
緑も勢いづいてきた、この時期の緑は鮮やかなものです
森は一雨ごとに芽吹いている

f:id:owari-nagoya55:20210330103504j:plain道端で見つけたスミレ
既に終盤のようで、鮮やかな紫ではなく色は褪せてきている

f:id:owari-nagoya55:20210330103529j:plain何かが出そうな鬱蒼とした山道に入る。
粘土質の地面は昨日の雨で滑りやすい。
10分かからないくらい歩いた頃、森は開け視界が広がる。
白美龍神
ゴルフコース建設のためこの森を拓いていた際、森の中にある池の水面を泳ぐ大きな白蛇を多くの方が目撃した、人々は恐怖に慄き白蛇を鎮めるために祀ったのがこの神社。

f:id:owari-nagoya55:20210330103552j:plain神社から人気のない尾根沿いを北に向かい牧野ヶ池西側の「わいわい広場」方向に出る。
こちら側は桜を楽しむ家族連れで賑わっている。

f:id:owari-nagoya55:20210330103617j:plain駐車場に向かう途中で見かけた桜。

f:id:owari-nagoya55:20210330103639j:plain高針JC東のループは無機質な美しさを持っているけど、それを背景に自然の美しさの対比が面白い。

f:id:owari-nagoya55:20210330103659j:plain案内図に駐車場歩いたコースを落としてみました。歩くだけなら30分程か
牧野ヶ池緑地
所在地 / ​名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中

古木の桜 今年も満開を迎えた

我家の前の桜の古木が今年も見事に満開を迎えた
 この時期は家族揃ってこの桜を眺めながらバーベキューをやったものだ
息子達もそれぞれの道を進む様になりそれなりに独り立ち?
 こうして桜が咲くと家族揃って花見を楽しんだのが懐かしく感じる

f:id:owari-nagoya55:20210329082644j:plain

子育て中は子供中心となり自由の効かない時期がえらく長く感じたもの
 今思えばそれも早いもので、子の成長は意外に早い
その分自分は老い、視力から始まり衰えは否応なしに実感する
 せっかく咲いた桜も、今日の風を伴う雨と明日吹くであろう風
今年の見頃は短いような気がする、ひっそりと咲く桜を撮りに郊外に出かけたいものだ
 さてどこにしようかな  
2021/03/28

稲置街道羽黒新田の「観音堂」

追分から稲置街道を進み御日塚神社、三十三観音堂を経て10分程の場所に小さな観音堂を見かけ足を止める。

f:id:owari-nagoya55:20210328172019j:plain写真は街道から東の入鹿池方向の眺め。
田園の中を名鉄小牧線の車両が走り去る長閑な光景が見られる。
この辺りの住所は犬山市羽黒新田起シ 、名が示す様に江戸時代の新田開発によりできた集落。
この新田の灌漑用溜池として1633年(寛永10)に入鹿池が作られ、その水は麓の田畑を潤してきた。
この一帯は過去に洪水が多くの人命を奪っていきました。
洪水と聞くと木曽川と思うけれど、洪水の要因は入鹿池の堤が決壊した「入鹿切れ」によります。
満々と湛えていた入鹿池の水は破堤により一気に流れ下り、麓の犬山市江南市扶桑町大口町、一宮など広範囲に大きな被害をもたらした。

f:id:owari-nagoya55:20210328172036j:plain上は「なごやコレクション」「入鹿池決壊図」より画像を引用させて頂いた入鹿池決壊時の周辺の被害を記録絵図。
破堤は1868年(明治元年)に起ります。
この年の長雨により破堤を回避する必死の応急対策も空しく破堤に至りました。
青い線は灌漑用の水路で黄色の線は街道で中央で二手に別れている場所が先に歩いて来た「追分」。
絵図には青く塗られた浸水域と各村毎の浸水水位、被害状況が記されています。
この被災地には災害で犠牲となられた方々の慰霊を弔う慰霊碑が各地に残り、過去の災害を風化させないモニュメントととして存在しています。
ここから近くの羽黒城屋敷にある「興禅寺」の境内には入鹿切れで流されてきた15tの巨岩が残され、碑とともに語り継がれています。

古い地名はこじゃれた地名に変り、こうした先人の教えともいえる碑は忘れ去られがち。
我家のある場所も古い地名から、ここがその昔とんでもない場所だったのか想像できる。
地名は変り、景観は変っても危害は今も変わらない。 

f:id:owari-nagoya55:20210328172052j:plain

街道沿いに佇む小さな堂、その中には一体の如意輪観音像が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210328172111j:plain頬杖をつき人々を救う術を考えている、そんな姿だ。
台座に明治、西國の文字が刻まれているが、そこから下は手前の板で遮られ読み取れない。
西國は恐らく西国三十三と彫られていると思います、入鹿切れ以降に安置されたもののようです。
街道沿いのこの場所から100年近くは行き交う人々を見守り続けています。
自分の中の煩悩を打ち消してもらいたいもの、手を合わせて観音堂を後にする。

f:id:owari-nagoya55:20210328172130j:plain観音堂から10分程北上すると五条川に架かる小さな橋に到着。
次の目的地は五条川の左岸の「尾北自然歩道」を遡る。
訪れたのは3月9日、桜は蕾も堅かった、今頃は桜も満開となり川沿いの光景もきっと華やいでいることでしょう。

「羽黒新田の観音堂
徒歩ルート / 追分から​稲置街道を約10分
住所 / 犬山市羽黒新田起シ 
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知多郡美浜町古布九条 『津島神社』

かみさんの新知多四国八十八箇所霊場巡りの送迎でこちらを訪れ、地元の神社を徘徊。
知多郡美浜町北方『十二神社・山之神社・北方稲荷社』から県道279号線を利用し南に15分程走り、待ち合わせ場所の二十七番札所 天竜山誓海寺に向かう。
その手前の知多半島道路沿いに「津島社」を見かけ、こちらも参拝することにした。
因みに待ち合わせ場所の誓海寺は知多半島道路をくぐればすぐだ。

f:id:owari-nagoya55:20210327222804j:plain 右手が知多半島道路、一ノ鳥居は側道入口に立ち、左に社号標とその後方に袴付きの常夜灯。
参道には石の灯篭が続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210327222823j:plain 入口の灯篭は1920年(大正9)のもの。

f:id:owari-nagoya55:20210327222842j:plain 知多半島道路の側道が参道、緩い上り坂の左が境内の様です。

f:id:owari-nagoya55:20210327222902j:plain 境内全景。
左に手水舎、右の入母屋の建物はよくわからない。
正面にニノ鳥居と拝殿と伽藍。

f:id:owari-nagoya55:20210327222921j:plain 龍は水が枯れてしまったようだ。
社頭から西は南知多道路沿いで、通過する車が良く見渡せる小高い丘の上に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210327222941j:plainこれは何だろうね、神楽殿なのかな。
その先に妙に広い空間がある、公園か?
後で寄ってみよう。

f:id:owari-nagoya55:20210327223004j:plain 参道(側道)から左に進むとニノ鳥居。
その先が拝殿で本殿は見えないが左右に末社が祀られているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210327223024j:plain 鳥居左に由緒碑がある。

愛知県知多郡美浜町大字古布字九条一三番地ノ二十
祭神 大国主命櫛稲田姫命
正殿 須佐之男命、足名椎命、手名椎命
由緒
創立は不詳なるも、大治2年(1127年)以前の創立という記録がある。
張州府志に天王祠、尾張志に牛頭天王社の記載あり、明治以前は牛頭天王社と称していましたが、王政維新(明治維新)の際に津島神社と社号を訂正、同17年現社名訂正が許可された。
元は河和町大字古布字北平井百番地に鎮座。
昭和十九年十二月二十八日河和海軍航空隊設置によりこの地に遷座

神社は現在鎮座する場所から東方の小学校がある辺りから遷座されたようです。
ここに航空隊、つまりは飛行場があったとは知らなかった。
どんな規模だったか調べて見るも古い地図では地図として出てこなかった。
伊勢湾、知多湾に突き出た知多半島、その丘に作られた航空隊はさながら航空母艦の飛行甲板。
こうした施設は当然標的にされる、ある意味この神社は戦災から逃れる機会を得たのかもしれない。

この碑は昭和63年健之、津島神社修復とある事から、この年に遷座後初の修復を受けたのだろう。
大治2年(1127年)以前に先人達は牛頭天王社を祀る動機があったのだろう、何がそうさせたのか知りたいところ。
創建時の先人の思いは今も大切に引き継がれているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210327223048j:plain 入母屋妻入りの拝殿、正面には狛犬もいる。

f:id:owari-nagoya55:20210327223106j:plain 拝殿前の狛犬1920年(大正9)。
遷座と共に来たんだね。

f:id:owari-nagoya55:20210327223124j:plainそれでは参拝。

f:id:owari-nagoya55:20210327223143j:plain 拝殿右の境内社、六社あり手前から御霞社(須佐之男神)、社宮司社(社宮司神)、山神社(大県神)。
正面の三社は右から金刀比羅社(大物主神)、大國主神、神明社(天照皇神)。

f:id:owari-nagoya55:20210327223201j:plain 本殿は柱が・・・4本、間が三つある、なので三間流造、流造。
祭神は須佐之男命、大国主命櫛稲田姫命、足名椎命、手足名椎命。
高欄に何かいるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210327223219j:plainそれは陶器で作られた小さな狛犬
やや姿勢が悪く背中が丸い、見方を変えれば前傾姿勢でいつでも飛び掛かれる態勢の精悍な顔つきをして本殿を守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20210327223239j:plain拝殿左の境内社は七社。
左手前から護国社(語国神)、御鍬社(御嶽大神)、井口社(弥都波能売神)、愛宕社(火産霊神)
正面三社は左から稲荷社(稲倉魂神)、御鍬社(保食神)、山神社(大山祇神)

f:id:owari-nagoya55:20210327223309j:plain参拝を終えて拝殿から境内を眺める。

f:id:owari-nagoya55:20210327223328j:plain 境内東側に妙な空間、白い標識が建っている。
こうして書いている今、遷宮地と書いてあったような気がするが思い出せない。
なんだったかなぁ・・・・・気持ち悪いなァ

f:id:owari-nagoya55:20210327223347j:plain気を取り直して、参拝を終え参道を下り待ち合わせの誓海寺に向かう。
反対側からやたら犬の吠える声が聞こえてくる、後で聞くと彼女はこの時点で既に誓海寺にいたそうだ。
待っている間ずっと吠えられていたらしい、この時の鳴き声がそれだったのね。
想定よりゴールは早かったようだ、すまん。

f:id:owari-nagoya55:20210327223410j:plain漸く一ノ鳥居に戻る、そろそろ隣の誓海寺に行くか、久し振りの霊場巡り、ペースは遅いだろうから到着するまで寺を見るか。(既に到着し犬に吠えられてるちゅうの)。

津島神社
創建 / (伝)1127年(大治2)以前
祭神 / 須佐之男命、大国主命櫛稲田姫命、足名椎命、手足名椎命
境内社 / 御霞社、社宮司社、山神社、金刀比羅社、大國主神、神明社、護国社、御鍬社、井口社、愛宕
住所 / 知多郡美浜町古布九条13-20
『十二神社・山之神社・北方稲荷社』から車アクセス / ​県道279号線経由10分程
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越中、能登、加賀の一之宮を巡ってきました

何も変わらない宣言解除を受け3/23~24先送りしてきた、越中能登、加賀の一之宮を巡ってきました。
名古屋発6:00高速に乗り東海北陸自動車道で一気に北上、南砺市を目指します。
今回も一泊二日の車中泊、装備もあれから追加、ナビ付TVが加わり、電気ケトル・電気敷布団、それと相変わらず敷布団は外せない。・・・・・避難民か?
そうだ、人の密集する街から避難と捉えてもいいのかも知れない。

f:id:owari-nagoya55:20210326174552j:plainひるがの高原SAのコンビニで調達した朝食、大日ヶ岳を眺めながら屋外で食べる。
周囲はまだまたフキノトウの時期だ、日陰には大量雪が残る。
朝食を済ませ再び高速を福光ICに向けひた走る。

f:id:owari-nagoya55:20210326174615j:plain名古屋から約4時間で最初の目的地「越中國一宮 高瀬神社」到着。
ここまで山ばかりだった景観が開け、広大な田畑が海のように広がる砺波平野が現れる。
その海の中に小島のように見える杜が高瀬神社
雪が残る山々を背景に鎮座する。
創建の年代は不明で、北陸平定を終えた大己貴命が出雲へ戻る時に、国魂神として自身の御魂をここに鎮めたのが始まりと伝えられ。
越中國一宮の一つ・・・・・ひとつ?
何と云うのかこの國には一之宮が複数ある、射水神社気多神社高瀬神社雄山神社と一之宮の御朱印を集めるかみさんには納得できないものがあるようです。二宮・三宮ではいかんのかい。
雄山はともかく残りの三つの越中國一之宮は巡る予定。
越中國一宮 高瀬神社
創建 / 不明(伝)景行天皇年間 
主祭神 / 大己貴命  
住所 / 富山県南砺市高瀬291
これから桜も咲き、田植えも終わるとまた表情も変わる、今回巡った中では周囲の景観に佇む姿が一番印象に残る神社。

f:id:owari-nagoya55:20210326174642j:plainさてお腹も空いた、車にはコストコ射水倉庫店でガソリン補給、身近な店の混雑状況と比較するとなんとも長閑だ、殺気立ったものはない。大食いの愛車にはコストコのガソリン価格が安いのは有難い。
車は燃料腹一杯、次は人の番、かみさん希望の「麺屋いろは」で富山ブラックラーメンを食す。
さぞかし醤油辛いと思いきや、意外にそれほどでもない魚介系の出汁、チャーシューもトロトロで麺は多少太くスープがよく絡む。おいしいですが最後の方は多少魚醤の辛さが気になる。
写真はランチセット、ひたすら炭水化物だ。

f:id:owari-nagoya55:20210326174709j:plain次の一之宮は高岡古城公園に鎮座する「越中國一之宮射水神社」を目指す。
高岡古城公園加賀藩初代藩主の前田利長公が築いた高岡城城址を明治時代より公園として開放したもので、富山県指定史跡、国指定史跡に指定されています。
その中心の本丸広場に鎮座する射水神社は四季を通じて地元にのみならず多くの方が参拝に訪れる。
射水神社は、霊山である二上山そのものを祀る社であったと云われ、古記録に当社のご祭神は「二上神」と記されているそうだ。
神仏混淆が主流だった江戸時代までは、「二上山大権現」として崇敬され、その後、明治の神仏分離令を受け、二上神は瓊瓊杵尊として祀られるようになりました。
公園には護国神社や築城時の石垣も一部残り、今は膨らむ程度の桜の蕾も一斉に開いた時には見応えがある。
越中國一之宮射水神社
創建 / 不明
主祭神 / 瓊瓊杵尊
住所 / 富山県高岡市古城1番1号

公園内の護国神社を左に見て南の城下街を5分程歩いていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210326174733j:plainやがて左手に大きな大仏が現れます。
高岡大仏
高さ約16メートルの阿弥陀如来坐像で、日本三大佛に数えられ幾度も造立され、現在の物は1933年(昭和8)の造立されたもの。
1221年源義勝によって約4.8mの木造大仏が二上山の麓に建立され事から始まり、与謝野晶子が高岡を訪れた際に、「鎌倉大仏より一段と美男」と評したとも伝わり、端正な顔立ちの大仏さまです。
「高岡大仏」
住所 / 富山県高岡市大手町11-29

f:id:owari-nagoya55:20210326174802j:plain曹洞宗高岡山瑞龍寺
加賀藩2代藩主前田利長公の菩提をとむらうため三代藩主利常によって建立された寺。
伽藍の多くが国宝に指定され、手前の山門もその一つ。
こちらへは麒麟茶屋の「麒麟焼き」が目的で寺は拝観せず、山門から境内を眺めてきました。

曹洞宗高岡山瑞龍寺
創建 / 1614年(慶長19) 
本尊 / 釈迦如来 
住所 / 富山県高岡市関本町35

まだ二社参拝する予定なので時間の都合で見送りましたが、余裕があれば見ておきたい寺です。

f:id:owari-nagoya55:20210326174828j:plain越中國一之宮 氣多神社
地名に「一宮」と言う銘号が入るように、伏木はその昔国府国分寺が存在した越中国の中心だった。
神社境内にも越中国総社跡の伝承地とする解説板が建つ。
一宮を称する4社の一つ。
気田神社一ノ鳥居付近の「気田神社の清泉」は地元の方が汲みに来るほどのもののようです。
龍口の右の看板がとても気になる、コロナ禍で参拝客は減り境内は彼らの生活圏になったか。

越中國一之宮 氣多神社」
創建 / 757年(天平宝字元年)
祭神 / 大己貴命奴奈加波比売命
住所 / 富山県高岡市伏木一宮1-10

f:id:owari-nagoya55:20210326174853j:plain義経
道の駅「雨晴」の前の海岸線の岩山に鎮座する神社。
源義経が奥州へ落ち延びる際、にわか雨に見舞われ、この岩の下で待ったという。
地名「雨晴」の由来となっています。
岩の下は波で侵食された岩が柱のように残り、それ以外は広間のようになっいて、雨をやり過ごし晴れを待つにはいい空間が出来ている。この岩の頂に鎮座するのが義経社。
鳥居を構え岩の頂に続く急な石段が付いている。
この一帯の海岸は雨晴海岸と呼ばれ、岩礁が多く白砂青松の景勝の地で、万葉集に「渋谿(しぶたに)」と詠まれ、日本の渚百選の一つでもある。「おくのほそ道の風景地」「有磯海」として名勝に挙げられている。
沖の小島は「女岩」と呼ばれ、周囲の小さな岩は母に連れそう子供のように見えることからこのように呼ばれるようです。天候が良ければ女岩と富山湾の先に立山連峰を望むことができる。
手前の線路はJR氷見線で、国道415号線脇の道の駅からだと海岸線を走る電車に踏み切りと義経岩、女岩の先に夕陽に赤く染まる立山連峰の絶景が見られるチャンスもある。

ここは人の出入りや行き交う車も多く車中泊には適さないかもしれない。
「道の駅雨春」
住所 /    富山県高岡市太田24番地74

f:id:owari-nagoya55:20210326174919j:plain道の駅 氷見
今夜の宿泊地到着、この道の駅はすぐ近くにスーパー銭湯「総湯」や老舗の酒蔵「高澤酒造場」もあり、何より日立山連峰から上る朝陽が美しく見える場所。
しかも無料の足湯もあるので云うことなし。
ビール片手に車中を宴会兼宿泊モードに切り替え、散策がてら酒蔵に出向き土産用の酒を買い求める。
コロナの影響から試飲は当然なく、満を持して歩いてきても寂しい限り。

f:id:owari-nagoya55:20210326174944j:plain二日目も快晴、いつものように日の出前から目が覚める。
富山湾の先の立山連峰が赤く染まり、ご来光を眺める、早起きのご褒美です。
手前の小島は氷見港に浮かぶ唐島。

f:id:owari-nagoya55:20210326175009j:plain朝食は魚市場食堂
氷見魚市場の2階にある食堂で入口は分かりにくく、朝6:30から営業のはずなのだが「やってるよ」の看板も出ていない。扉を開け二階に通じる階段を上ると食堂。
鮮度が売りの店として評判の店。
朝っぱら海鮮丼、かみさんはやわゃわ盛、おやじはイワシ定食が朝食。氷見と云えばブリでしょうが時期は過ぎているのでブリ押しのメニューは避けてみた。
これにもれなく漁師汁が付いてくるのでボリューム満点、食べきれない。
イワシは鮮度も良く、久しぶりにおいしいイワシの刺身を食べた気がする。
漁師汁はとてもおいしかったが、身は食べる気がしなかった、ブリの骨は避けて通れないにしても、鱗が皮に着いた状態というのはいただけない。せっかくの味も鱗が口に入る食感で一気に食べる気を失う。
これは「つくねと汁」を味わうものと割り切った方がいい。
決して安くはないけれど、下手な観光客目当ての店よりは鮮度もよく、漁港独特の香りと商売気のない入口さえ受け入れればお勧めできる。
「魚市場食堂」
住所 /   富山県氷見市比美町435
さあここから二日目が始まる、今日は能登國一宮と加賀國一之宮を参拝します。

f:id:owari-nagoya55:20210326175036j:plain能登國一之宮氣多大社
石川県羽咋市寺家町にある神社で日本海の海岸に一ノ鳥居を構え、そこから陸に向かい真っすぐに参道が続く。
上の写真はニノ鳥居横の駐車場から海岸方向の眺め、遥か先に一ノ鳥居が見える、あそこまでは行ってられない。中段がニノ鳥居から境内の眺め。
下段、手水鉢に生けられた花々、遠くから訪れ、清めが出来ないご時世にこうした心遣いはありがたい。

社伝によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から多くの神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという。
創建 /     (伝)第8代孝元天皇の御代、または第10代崇神天皇年間とも
主祭神 / 大己貴命
住所 / 石川県羽咋市寺家町ク1
ここから次は千里浜なぎさドライブウェイ沿いに加賀國一之宮に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210326175104j:plain道の駅「のと千里浜」
海岸沿いの綺麗な施設、足湯やEVパークなどあり、毘沙門天の砂像が出迎えてくれる。
この辺りはイノシシ推しなのか。
道の駅「のと千里浜」
住所 / 石川県羽咋市千里浜町タ1番地62

次は加賀國一之宮、加賀・越前・美濃3国それぞれから霊峰白山の山頂に至る登山道、三馬場のひとつ加賀馬場のある白山比咩神社に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210326175129j:plain加賀國一之宮白山比咩神社
石川、福井、岐阜の3県にわたりそびえる白山、古くから霊山信仰の聖地として仰がれてきました。
山は麓に暮らす人々や平野に住む人々にとって、白山は命の水を供給してくれる神々の鎮まる聖なる山として崇められてきました。
主祭神 / 白山比咩大神、伊邪那岐尊伊弉冉尊
創建 / (伝)第10代崇神天皇年間
住所 / 石川県白山市三宮町ニ105-1

さてこれで今回の越中國、能登國、加賀國一之宮巡りはコンプリート。
後は蕎麦を食べて名古屋を目指す事にします。

f:id:owari-nagoya55:20210326175200j:plain白山比咩神社から車で、ものの2~3分のところにある「草庵」へ。
営業時間が11:30という事で開店まで10分程周辺を散策し開店を待つ。
粗挽きそばと十割蕎麦で腹ごしらえ、古民家を改装した店内はジャズが流れ、インテリアも落ち着いたもので、そんな雰囲気で味わう蕎麦は、歯応えもあり、汁も出汁の風味が利いたものでおいしい蕎麦。
薬味はワサビよりおろしの方がベストマッチ。
ただ、そば本来の香りについては今一つだった。 蕎麦湯はなかなかおいしいものでした。
数量に限りがあるようですが、白山比咩神社参拝の折には寄ってみるのもいいかもしれない。
「草庵」
住所 / 石川県白山市鶴来日吉町ロ32

お腹も満たされ一路九頭竜川を遡り、白鳥方向を目指し、途中で山菜とけいちゃんを買い求め名古屋に向かう。
2021/3/23~24

今回の走行ルート


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「熊野速玉大社」  和歌山県新宮市

熊野本宮大社を後に熊野川右岸を50分程河口に向かい、熊野速玉大社に向かいます。
熊野本宮大社から国道168号➡国道311号線➡168号線➡国道42号線経由「速玉大社前」交差点で左折。  

f:id:owari-nagoya55:20210324205137j:plain目の前に朱の大鳥居が見えてきたら右折、東門駐車場に向かいます、ここまでの移動時間約50minです。
駐車場はそれほど広くはなく、到着した時には空きを待つ車で列が出来ていました。
こちらの駐車場、神門前に直接入れるため混むようです、しかし駐車場入口から右方向に未舗装の細い道がありそちらへ進む。
本殿後方にあたり、熊野川の堤防が目の前に迫る未舗装の駐車場ですが難なく駐車できました。

f:id:owari-nagoya55:20210324205157j:plain熊野本宮大社辺りの熊野川の川幅は結構広かったけれど、河口に近いこの辺りに来ると更に川幅は広がります。
写真は駐車場前の堤防道路から河口方向の眺め、手前に架かる橋は新熊野大橋。

f:id:owari-nagoya55:20210324205232j:plain駐車場から正面の太鼓橋のある大鳥居に向かいます。
写真はその途中にある川原屋横丁、参拝客向けの飲食店が連なります。

f:id:owari-nagoya55:20210324205318j:plain朱の太鼓橋と大鳥居。
左に「熊野大権現」、右に「熊野速玉大社」社号標。

f:id:owari-nagoya55:20210324205336j:plain参道付近の世界遺産「熊野速玉大社」解説
「熊野速玉大社は神倉山の霊石「ゴトビキ岩」を御神体とする自然崇拝を源として、「ゴトビキ岩」に降臨された熊野三神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子)を西暦128年に神殿を建て祭祀した事から始まる。「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、全国の熊野神社総本宮として崇敬される。
境内には椥の大樹や国宝古神宝類も奉納されている。」
下は「熊野古道案内板」
熊野本宮大社は地図の上端、熊野速玉大社は下端の位置関係。
流長180㌔を超える熊野川も少し行けば熊野灘は近い。

f:id:owari-nagoya55:20210324205620j:plain大鳥居
コンクリート製の朱も鮮やかな両部鳥居。

f:id:owari-nagoya55:20210324205639j:plain熊野権現」の扁額。

f:id:owari-nagoya55:20210324205701j:plain2004年にUNESCOから「紀伊山地霊場と参道」として世界遺産に登録された。
それを構成する一つが熊野速玉大社。
「速玉」?、しぶきを表すとか諸説あるようですが、何れも生命の根源である水の動きを神格化したものの様です。

f:id:owari-nagoya55:20210324205721j:plain鳥居から参道を進んだ右に赤い鳥居と春日造りの社が2社。

f:id:owari-nagoya55:20210324205737j:plain

f:id:owari-nagoya55:20210324205755j:plain
右が八咫烏神社
祭神は建角見命
熊野速玉大社末社で丹鶴山麗に古くから奉祀されていた、神武帝の道案内をしたと古典に記され、熊野神の使者とも云われ、交通安全、招福の御神徳が高い。
左が鑰宮 手力男神
祭神は天之手力男命
延喜式神名帳紀伊牟婁群手力神社とある古い社、元は神門内に祀られていたが813年(弘仁4)に現在の社地近くへ遷り明治40年に新宮神社に合祀、武道、健康、開運の御神徳が高い。

f:id:owari-nagoya55:20210324205819j:plain参道と奉八度の記念碑
「日本第一大霊験所として古来各地からの参拝が多い、石碑は表に「奉八度参詣 奥州南部八戸領久茲八日町 吉田金右衛門」、右側面に「宝永5年(1507年)子7月日」と刻まれている。
熊野信仰を物語る貴重な遺物である。」
この時代に八回参拝とは、それ程に人を引き付けるものがあるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210324205839j:plain樹齢1000年を超えると云われる御神木の椥(ナギ)の木。
古来から熊野は祈りの聖地として憧れの異界。
椥の葉は霊威ある御守りとして大切にされてきた。
平重盛お手植えと云われ、左右対称の葉の形から夫婦円満のご利益があるとか。

f:id:owari-nagoya55:20210324205858j:plain参詣曼荼羅
世界遺産登録を記念し作られたもの。
熊野速玉大社を中心に、右に本宮から熊野川を下る川船や熊野灘から船で訪れる人々、左上には神倉山のゴトビキ岩が描かれ甦りの熊野詣の様子が描かれています。
自然信仰から神道へ移り変わっていく熊野信仰。
六世紀に仏教が伝わると神仏習合が進み「熊野権現信仰」として全国に広まっていきました。
「権現」とは、神が仏に姿を変え、人々を救うため現れるという意味で、過去・現在・未来を救済する霊場として熊野は広く人々に受け入れられ、強者弱者、地位や善悪、信不信にかかわらず、別け隔てなく救ってくれる神仏として民衆に崇敬されます。
それ故に人々は難行を承知の上で滅罪と救いを求め熊野をめざし旅に出ます。
「次左です、間もなく目的地周辺です」なんていう今の時代とは違い、命を懸けた旅立ちだったと思います。
煩悩にまみれた自分を見つめ、清めるために訪れ、初期化してもらう、「甦りの地」と云われる由縁なのかもしれない。熊野古道はそうした人々により付けられた道。
訪れた当時は改修中で全容は見れませんでしたか、神宝館では貴重な所蔵品が公開されています。

f:id:owari-nagoya55:20210324205919j:plain参道は右に折れその先に神門が現れます。
手前には高く積まれた台座の上に狛犬と右に手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20210324205940j:plain狛犬
阿形の後方が東門駐車場、ここから参拝に訪れる方が大半を占めます。

f:id:owari-nagoya55:20210324210003j:plain見あげる高さから遥か先を見据える狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210324210024j:plain神門と手水舎
龍口が個性的、象の鼻のように突き出た先端から清水が注がれ柄杓で受け清めるのでしょう。
コロナ禍、柄杓もなく、清めも出来ないので龍も抜け殻となりお休みだ。

f:id:owari-nagoya55:20210324210050j:plain手水舎の右奥に鳥居がある。
熊野稲荷神社、こちらも春日造り。

f:id:owari-nagoya55:20210324210111j:plain神門左の大禮殿
コンクリートの入母屋造で綺麗なもの。

f:id:owari-nagoya55:20210324210133j:plain神門
長い歴史を持つ熊野速玉大社ですが現在見る伽藍は比較的新しいもの、1883年(明治16)に火災で社殿を焼失します。
それが再建されたのは1967年(昭和42年)という、なので伽藍は全て新しく中にはコンクリート造りのものも多く、古い社殿をイメージして訪れると随分ギャップを感じる。

f:id:owari-nagoya55:20210324210151j:plainとはいえ、朱で彩られた社殿は周囲の杜の中にあって荘厳な印象を与えてくれます。
神門の大きな注連縄と「全国熊野神社 総本宮」の額。
細かな装飾はないけれど優美な姿の門。

f:id:owari-nagoya55:20210324210209j:plain神門内に飾られている素木の彫飾りも古さを感じない、過去の災いから蘇り、現在、未来に向かい味が深まっていく過程の姿でしょう。

f:id:owari-nagoya55:20210324210227j:plain菊紋が輝く神門の先に社殿が広がります。
正面に見えているのが上三殿。

f:id:owari-nagoya55:20210324210245j:plain境内右からの朱に彩られた社殿全景。
社殿は大きく七つに分かれ、手前から下四社、中四社、上三殿、速玉宮、結宮と連なっています。
下四社は国狭槌尊豊斟渟尊、泥土煮尊、大戸道尊、面足尊。
中四社は天忍穂耳尊瓊々杵尊彦火火出見尊鵜葺草葺不合命
上三殿は家都美御子命、国常立命を祀る「証誠殿」、第四殿は天照大神を祀る「若宮」と高倉下命を祀る「神倉宮」の3社相殿。
玉宮は熊野速玉大神 。
結宮は熊野夫須実大神が祀られる。

f:id:owari-nagoya55:20210324210305j:plain玉宮拝殿、コンクリート造り建物。
参拝の順番を待つ人の距離感に意識の高さを感じます。
さて私達もここに加わり参拝。

f:id:owari-nagoya55:20210324210327j:plain玉宮、祭神は熊野速玉大神。
蘇りの力を垂れ給う熊野の父神、病気、苦しみ、業を祓う過去世の守護神。
左が結霊宮(結宮)、祭神は熊野夫須実大神。
万物を生み成し給う熊野の母神、万物を生み成し給う熊野の母神。
願望成就、現世の守護神。
そして中央に「日本第一大霊験所、根本熊野権現拝殿」の額。

f:id:owari-nagoya55:20210324210401j:plain下四社から上三殿社殿。
朱塗の流れ造りの社殿は目にも鮮やかです。

f:id:owari-nagoya55:20210324210425j:plain拝殿から下四社方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210324210447j:plain境内左の参集殿。
後方の山並みは神倉山に続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210324210508j:plain熊野速玉大社由緒と熊野御幸解説。
907年から1303年にかけ上皇女院親王を含め140回の皇室の参詣があり、これを熊野御幸というそうです。
御幸の道順は京都、住吉、和泉、紀伊半島海岸線沿いに南下し田部、中辺路、本宮を経て熊野速玉大社に参拝、那智山、雲取、本宮の往路を逆行して帰京される、およそ二十数日に及ぶ旅だった。
熊野御幸により公卿武士、庶民の間に流布し、熊野水軍を持つ熊野三山の忠誠心の助長につながり京と熊野の交流に大きな影響を与えた。

f:id:owari-nagoya55:20210324210535j:plain境内右手の東門の脇に二つの鳥居。

f:id:owari-nagoya55:20210324210558j:plain左の石の鳥居のある社は新宮神社。
白と朱のコントラストが綺麗な社殿。
詳細は不明、境内にあった金刀比羅宮に新宮町内の末社を合祀したものだという。

f:id:owari-nagoya55:20210324210622j:plain右の赤い鳥居は熊野恵比寿神社。詳細は不明。

f:id:owari-nagoya55:20210324210643j:plain御朱印を手に満面の笑顔のかみさんと合流、さて次に向かいますか。
目指すはこの先の神倉山です。

f:id:owari-nagoya55:20210324210701j:plain

熊野速玉大社
主祭神/熊野速玉大神/熊野夫須美大
創建 / 伝 景行天皇58年
住所 /    和歌山県新宮市新宮1番地
熊野本宮大社から車アクセス / 国道168号➡国道311号線➡168号線➡国道42号線経由「速玉大社前」交差点で左折 ​約50分程
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