ボランティア事前説明会に行って来た

会社をリタイヤした今年、年初目標でもある「スポーツボランティア挑戦」
昨年末にかみさんと共に応募。
年明けの1/9ボランティア説明会に参加してきました。

場所は伏見ライフプラザ、科学館の西側。
地下鉄矢場町から地上に上がり、久し振りに人混みの中に出て見た。
三連休中日で人が溢れているかと思いきや意外にスイスイと歩け拍子抜けだ。

説明会が午後2時、早めに家を出て栄で昼ごはんを食べてから参加とした。
何を食べるかかはかみさん任せ。

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名古屋市中区栄3-25-3 「麺屋 聖」
昨年12月にオープンした京都の麺屋さん。
込んで入たらやめる予定でいたが意外に列は短く、並んで食べて見た。
貝出汁のラーメンと醤油ベースのラーメンが売りのようで、貝出汁は個人的には好みのジャンル。
対してかみさんは貝系は好みじゃないはずなのに以外にも貝出汁を選択、同じではつまらないので自分は醤油を食べる。結論は貝出汁の方はとてもいい出汁で美味しい、醤油ベースも見た目ほど辛くなく所謂醤油ラーメン、価格850円と栄で食べている事を思えば安い。並んでいなければリピートしてみようと思う。その時は貝出汁を食べて見よう。

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少し早いが会場に向け、科学館方向へ。
時間つぶしに白川公園のベンチに腰掛け時間調整。
ここの野鳥人慣れしている。
ベンチに腰掛けたかみさんの隣に一羽の雀がやってきて離れようとしない。
気が付けば周辺は雀の集会場になっていた。
家の周りじゃこんな距離感で雀の団体さんは見なくなった、いたとしても直ぐに飛び去るのだが。
餌がもらえるのね、悪いけど何も持ってはいない。
こうも期待されると次からは何かバックに忍ばせておく必要がありそうだ。
さてそろそろ時間だ、会場に向かい2時間ほどの説明会を受けるとするか。

説明会はボランティアの心得や当日の役割分担の概要説明。
今の状況下で「マラソンフェスティバル・ナゴヤ」が確実に開催されるか不安は残るが、日々この日を目指して走り込んで来た多くのランナー達の晴の舞台がなんとか開催される事を期待したい。
この大会には数千人のボランティアが関わり晴れの舞台を成功に導くために集まってくる。
思いは同じだ。
当日までにもう一度説明会があり、そこで役割の詳細が分かるようですが、リタイヤ組なりにお手伝いさせてもらいます。
ウィメンズマラソン、チェアマラソンは3/13、シティーラソンは3/14。
ランナーの皆さん、自分の目標に向け、最高のコンディションで三月の当日を迎えて下さいネ。

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説明会も終え外に出れは日暮れ間近、ほんとにこの時期は嫌だ。
折角来たので帰りに一杯ひっかける為大須方向へ歩く。
中区大須2-3-17「日出神社」
若宮大通沿いに鎮座する街中の神社で、日頃から車て通りがかると神社がある事は知ってはいた。
中々車では訪れにくい場所だ。
手早く写真だけ撮り後にする。 

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中区大須4丁目1 立ち呑み 寛 ami
一杯ひっかけるため、かみさんが目指したお店に到着、日出神社から東に10分程行った場所。
大津通沿いに細い路地があり、そこは清浄寺の参道でもある、その昔小林城のあった場所。

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人の多い大須商店街の店舗とは多少違い、それほど人は訪れないようだ。
もっとも若者向きではないかもしれないが、店内には陽水のLP等、青春時代を思い出させる懐かしいアイテムが飾られていて妙におやじには居心地がいい。

ここで冷たいビールと利き酒セットを頼みスモークを摘みに軽く一杯。
利き酒セット、いつ飲んでも最後にはどれがどうだったか分からなくなる。
左から長珍、はるか、奥の三種を比べて見た。
色合いは長珍以外は綺麗に澄み、香りや味はそれぞれ個性的で美味しい。
後味スッキリなのが左の長珍、次に爽やかですっきりした飲み心地がはるか、少し癖を感じたのが奥。

ここからは我が家の評価と覚え。
おやじ 長珍(やや甘口、ある意味味醂に通じ、時々飲みたくなる味)、はるか(癖がなく毎日飲むならこれ)、奥は(後味が悪い)
かみさん 奥、はるか、長珍だった。
それぞれ開封された時期や残量も違うので開封直後の印象はまた違うだろう。

一日の終わりを良い時間を過ごせた。

名古屋市緑区大高「山神社」

圓通寺から県道23号線沿いを北に向かい20分程歩く。

f:id:owari-nagoya55:20220110101348j:plain目の前に名古屋高速が見えるこの辺りまで来れば、それまでの大府市から名古屋市に入る。
ここから更に知多四国八十七番札所長寿寺に向け真っ直ぐ歩いていきます。

f:id:owari-nagoya55:20220110101405j:plainやがて道は県道50号線に出会うので左に進み、県道沿いにJR大高駅方向へ。
丸根砦跡付近の道路左側に真新しい「山神社」の社標が見えてきます。
県道から少し中に入れば鳥居を構えた小さな山神社の社地が見えてきます。

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社頭全景。

左側は東海道線の高架が延々と伸び、鳥居は誰も来ることのできない高架に向かって建っています。
鳥居から奥は社を覆う様に小さな杜に包まれ、二本柱で控え柱のない簡素な手水舎があるだけのこぢんまりとした小さな神社です。

f:id:owari-nagoya55:20220110101448j:plain鳥居からみた境内。
正面の覆屋に本殿が祀られ、本殿域はブロックで囲まれています。
手水舎左に由緒書きもあるようです。

f:id:owari-nagoya55:20220110101507j:plain手水鉢は1960年(昭和35)と刻まれている。
通り沿いの社標も新しかった、意外に新しく造営されたものか。
その考えは傍らにある由緒書きを見て改める事になる。

f:id:owari-nagoya55:20220110101523j:plain「山神社
一般には「山の神さん」と親しみを込めて呼ばれています。
祭神は大山祇命

この地方では冬は山にいて、春になると里へ降りて田畑を支配する神、ひいては生活全般の神とも云われています。

緑区の山神社では唯一独立した社叢を有し、更に祠は鞘堂に覆われた珍しいものです。
当社の創建は不明ですが、江戸時代初めの1660年代の記録に記載があるので、それ以前から存在していたと思われます。
祭事は12月に例祭、その前夜には提灯祭りが行われています。

なお、東海道線が高架になる前にはこの社の前の道は「山神踏切り」を通って大高のまちに通じていました。大高歴史の会」

小さな神社でありながら、地元の方により立派な由緒が残され語り繋がれている。
分からないものはどこまでいっても分からない、知り得た事を記すだけでも語り部となって行く。
山や森が消え、田畑は消えて家が建ち並ぶ、便利で綺麗な街になって行く。
そんな世界に鬱蒼とした小さな藪や朽ちかけた社があれば、それは奇異な視線を浴び、肝試しの舞台になりやがては消えていく。
小さな神社が消えていく背景に、先人の思いを語り継ぐ語り部を失ってしまうのがひとつの要因かもしれない。
意味もなく祀られたものはないだけに、手書きでもなんでも伝承していく事が、その地に住む者へのメッセージになる事もある。

f:id:owari-nagoya55:20220110101543j:plain石垣で高く盛られた神域、覆屋の中に萱葺屋根の社が祀られていました。

f:id:owari-nagoya55:20220110101604j:plain鰹木は6本、千木は内削ぎの神明造のようです。
祭神の大山祇命男神とされます、鰹木の数や削ぎの向きから男神か女神を識別するのはやはり無理があるようです。

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社頭の前に万里の長城の様に伸びる高架が立ちはだかり、昔は参道が続いていたのだろう。
今は神社までの道筋は寸断され、忘れ去られた様にポツンと鎮座しています。
何度か歩いていながら見逃してきた山の神様、やっと出会うことが出来たそんな気がした。

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こんな住宅街に山の神様があるの? いつかはそんな事になってしまうのかもしれない。

2021/12/02

山神社
創建 / 不明
祭神 / 大山祇命
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但馬國一宮 出石神社

岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」も最終日
昨日は鳥取砂丘から県境を越え兵庫県城崎温泉に宿を取る。
降りしきる雨の中、外湯めぐりと美味しい晩御飯で一夜を過ごす。
止む気配がなかった雨も明け方には上がったが、今一つ回復していない。
早朝にホテルを発ち、城崎温泉から10分程の「玄武洞」を訪れました。

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自然が作り出したダイナミックな柱状節理の露頭とそれを生活に取り込んだ結果造られた洞窟を見てから最終日最初の神社「但馬國一宮出石神社」に向かいました。
玄武洞」からは円山川を遡り(南下)ながら、但馬の小京都と呼ばれる出石市に鎮座する「出石神社」までは小一時間程の移動時間。

f:id:owari-nagoya55:20220108105541j:plain豊岡盆地東の山裾に位置し、周囲はコウノトリを育む田畑が広がる。
その中に島の様に出石神社の社叢はが見えてくる。
一ノ鳥居前の参拝者駐車場に車を停め社頭を眺める。

当日はウオーキングイベントでもあったのか、境内は人で賑わっていた。
しばらく待って静かさを取り戻した参道を歩き出す。

f:id:owari-nagoya55:20220108105607j:plain一ノ鳥居から真っすぐ続く参道の先に狛犬が守護するニノ鳥居とその先の神門がはっきり見えてくる。

参道脇は杉の巨木が立ち並び、境内は緑の絨毯を敷いたかのように苔が自生している。

とても趣のある神社だ、周辺では但馬の国の一宮として親しみを込め一宮(いっきゅうさん)と呼ばれている神社。

f:id:owari-nagoya55:20220108105630j:plainニノ鳥居前の狛犬

参道を横切る車道沿いに建ち年代は分からない。
どちらも口を閉じでいるように見えるが向かって右が恐らく阿形、開いた下顎が欠落しているのか?
なんだか左の吽形にくらべ不自然な頭の形に思える。

f:id:owari-nagoya55:20220108105647j:plain鳥居前に由緒があったが脱色が進み残念ながら読み取れなかった。

f:id:owari-nagoya55:20220108105705j:plain石の明神鳥居だった一ノ鳥居に対し、ニノ鳥居は木造の両部鳥居、重厚で姿のいい鳥居だ。
その先には朱で塗られた神門と外玉垣が続く。

f:id:owari-nagoya55:20220108105722j:plain大きな注連縄が吊るされ、その上の額はシンプルに「一宮」

f:id:owari-nagoya55:20220108105741j:plain神門右に手水舎、龍口から注がれる清水はセンサー付きの自動制御。

「近づいて御覧、清水注いでやっから」龍の仕事は開店休業ではない。

f:id:owari-nagoya55:20220108105757j:plain境内から神門の全景、苔が綺麗な神社の印象を持ちました。

緑の苔と神門の白、朱色のコントラストが鮮やか。
訪れたのが10月26日、この時期だと境内のもみじは一部が色づき始めたくらい。

f:id:owari-nagoya55:20220108105816j:plain神門、切妻銅板葺の八脚門。


f:id:owari-nagoya55:20220108105833j:plain柱や梁、垂木など朱が塗られ、彫が施された蟇股にも彩色が施されている。

外観の印象に華美さは感じられない。

f:id:owari-nagoya55:20220108105851j:plain神門左に柱が二つ。

奈良・平安時代の伽藍は現在より遥かに大きな規模を誇ったようで、一ノ鳥居は狭間坂(出石町片間)に、ニノ鳥居は西方向に流れる出石川付近に建っていたと云う。
出石川改修工事で古い鳥居の遺物や古銭が掘り出され、この柱はその一部、地表に露出していなかった事もあり遥か昔のものとは思えないもの。
往古は東西に長い社地を誇っていたようで、国司や都の人たちが国府に着くとこの鳥居をくぐり出石神社に参向したという。
因みに発見された場所の地名は出石町鳥居として今も残っている。

f:id:owari-nagoya55:20220108105908j:plainその後方に由緒。

「但馬は古代日本において他に類を見ない祭祀伝承を有している。
御祭神は新羅の国の王子天日槍命と伊豆志八前大神(八種の神宝)。
命は日本に渡来後、泥水が充満する但馬の有様を見て、円山川河口を切り開き泥水を日本海に流し肥沃な平野をもたらした。
鉄の文化を大陸から伝え国土開発の祖神として関係業界から崇敬されている。
神社西方700㍍に鳥居という地名が残る、昭和八年河川工事で鳥居両柱の木口とその下から開元通宝等の古銭が出土。
平安時代すでに国内第一の霊社と云われた。
尚、天日槍命の子孫として多遅間守命(たじまもりのみこと)や神功皇后がある」

f:id:owari-nagoya55:20220108105925j:plain神社の創立年代はあきらかではないようで、社伝の一宮縁起に谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、

天日槍命を祀ったとされ、およそ千三百年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたとされる。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)は古事記日本書紀ともに新羅(朝鮮半島南東部)国王の王子とされ、日本に渡来されたとし、その痕跡は上記の播磨国風土記等からもうかがうことができる。
新羅(しらぎ)の国より持参したとされる八種の神宝は、古事記に珠二貫・振浪比礼・切浪比礼・振風比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記され、出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)として、また天日槍命を祭神として斎祀している。

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現在の社殿は1914年(大正三)に再建されたものとされ、神門と入母屋造りの拝殿、切妻造りの幣殿と祝詞殿、その先は透塀に囲まれた流造の本殿が主な伽藍で拝殿軒下に狛犬が見える。

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軒下の狛犬は年代が不明ですが、木造で以前は鮮やかに彩色されていた様子が窺われます。

大きな鈴が付けられ、角を持つ狛犬は色褪せたお互いの姿を見たくないのか下を向き、なぜか表情は冴えないようだ。「なにか思う事でもあるのか?元気出せ!」

f:id:owari-nagoya55:20220108110019j:plain拝殿左から本殿方向の眺め。
入母屋造りの拝殿、切妻造りの幣殿、左に祝詞殿があり後方に流造の本殿の伽藍。

f:id:owari-nagoya55:20220108110036j:plain本殿右からの眺め。
透かし塀に囲われた神域と鰹木が5本で外削ぎの千木が付く本殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20220108110054j:plain本殿右側に朱色と素木の覆屋がある。
境内にはこのほか市杵島比売神社、菅原神社などが祀られている。

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右側の赤い覆屋が天日槍の妃神を祀る夢見稲荷社、左が比売社で宇賀能魂を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20220108110147j:plain覆屋の後方の社叢の中に玉垣で囲われ、こんもりと盛られた一画がある。

禁足地。
その昔は天日槍廟所と称されていたようで、玉垣を越え禁足地に立ち入ると良くない事が起こるとか。

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神門をくぐった境内右手方向に絵馬堂があり休憩所としても利用されている。
その隣には手押しポンプが展示されている、大正の頃から神美村(かみよしむら)宮内地区で消火活動の前線で活躍してきた物らしく、平成に入り修理・復元されたものらしい。

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神門左の社務所、当日は御祈祷も重なりお忙しい中で御朱印を書いて頂いた。

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拝殿前から神門方向の眺め。

神門の棟の直線に対し、門の先に見えるニノ鳥居の島木と笠木の緩やかな曲線が強調される。
イベントであれほどいた参拝客も立ち去り、境内を静寂が包み込む。
しっとりとして落ち着いた佇まいで苔の緑が印象に残る出石神社、そんな印象を受けた。
2021/10/26

f:id:owari-nagoya55:20220108110306j:plain「但馬國一宮出石神社」

建立 /   不明(現社殿1914年の造営)
主祭神 /   伊豆志八前大神、出石八前大神、天日槍命
境内社 / 夢見稲荷社、比売社、市杵島比売神社、菅原神社、
所在地 /  ​​兵庫県豊岡市出石町宮内99
城崎温泉から玄武洞経由出石神社 / 車で​40分程
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歩き初め

正月は久し振りに家族全員勢揃い
オミクロンなる新参者も巷に流行り出し、自ら密集する場所に行こうと云う気にもなれない
取り溜めていた映画も見尽くし、初詣以外はほぼゝ家で喰っちゃ飲みの生活。
万歩計もさっぱり伸びない、これではいくら何でも体力がなくなるばかり。

息子達もそれぞれの街に戻り、世の中少し動き出した。

敬老パスを活用して2022年初歩きをしてきました。
これまで行きにくかった街中も今ならいいだろうと市内の神社を参拝してきました。


テーマは「地下鉄黒川駅から北に歩いて戻ってくる」
黒川駅から北に進み、国道41号線を挟んで時計回りで黒川駅に戻る。
距離は5.6㌔、普通に歩けば1時間20分程の行程。
国道41号線周辺は車で廻るには駐車場に苦労するので、これまでずっと敬遠してきた場所。

平日の午後であれば人混みもないだろう、という事で昼食を済ませて家を出る。
チェックポイントは初めて参拝する六所社、神明社、中切天神社、六所神社、お福稲荷の5社と既に訪れた事のある児子八幡社を含め6社を参拝するもの。

13時30分に黒川駅を出て以降国道沿いは一切歩かない。
車なら大好きな裏道を歩く、道行く車は多いものの歩行者は皆無と云ってもいい。
神社も幟や提灯など吊るされていたが正月の賑わいは既にない。
幟や提灯も徐々に片付けられ、いつもの姿に戻っていくのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20220106174417j:plain暮れからず~っと歩いていなかっただけに、中切天神社辺りで多少足が重く感じる。
行程はほぼ平坦な道のりなのに「なんだこりゃ」完全に体が鈍っているようです。
少しペースを落としながら参拝を続け児子八幡社の参拝を終えたのが17時前、歩行数は約15000歩、写真を撮ったりして延べ時間3時間30分程を歩き通した。
全ての神社では「健やかで平穏な一年」を祈願してきましたが、いつも通りのささやかな賽銭ではこの願いは「何考えているの?」と云われかねないか?


こうして書いていると足に程よい疲れを感じる、初歩きにしては上々の一日、少しでも歩かないと。
今年はかみさんと共にボランティアに力を入れようと考え、最初の目標は「名古屋ウィメンズマラソン2022」のお手伝いだ
コロナに負けずに開催される事を強く希望したい。
鈍った体に活を入れないと…体重計を見るのが怖い。
今回歩いた道のり

オミクロンの急速な広まりや海外の新たな株など、道のりは険しい、過度の移動制限に繋がらなければいいが・・・かみさんのGO TOを利用した計画がどんどん変更になって行く、賽銭足りないのかナ?

 

知多四国八十八箇所霊場六十一番札所 「高讃寺」

以前掲載の七社神社から知多四国霊場六十一番札所御嶽山高讃寺までは5~6分程の所要時間。
東を走る国道247号線西阿野交差点を渡った左側に鎮座しています。
訪れたのは2021/11/20、紅葉には早く、夏の様な日差しが降り注ぎ歩いていても喉が渇く陽気。

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境内入口に数台分の駐車スペースもあるようです。
右に「御嶽山高讃寺」の寺号標、左に六十一番札所の石柱があり、そこから僅かばかりの石段を上れば長い参道が続く。

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参道は竹林と落葉樹が両脇を覆い木陰に包まれ、長い参道の中ほどに瓦葺の仁王門がある。
高讃寺の創建は古く、684年(白鳳12)天武天皇勅願寺として行基により創建されたと伝わり、最盛期には七堂伽藍、300坊を越え、知多三山の一つに数えられという。

戦国時代には織田信秀今川義元の兵火で伽藍の大半を焼失、その後も文禄年間や明治時代にも兵火や失火による焼失を経て、現在の姿となります。

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仁王門の仁王像は度重なる兵火による焼失を避けるため、ため池に沈められたと云う。

後に池から引き上げられ安置されたものがこの仁王像。

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門脇にこの仁王像の解説とこの像に伝わる昔話が紹介されている。
「昔、樽水本宮山の前方下の御嶽の池の中から引き揚げられた仁王様。
大勢の村人が話し合い樽水洞雲寺へ運ぼうと綱を引いたり、後ろから押すなどした。
しかしどうしても動かず弱り果て、高讃寺の仁王様だ、高讃寺へ運ぶ事で話が纏まり、「それ引け」と引いたところ、それまでビクともしなかった仁王様は足でも生えたように軽く動き、無事高讃寺に安置でき目出たし〃。
注・戦国の天文6年(1537)織田、今川両氏の戦火を逃れ三岳の池の中へ、幾数年後の江戸初期寛文年間現在地へ「池の中から出て来た仁王様」が眼前の此の仁王様」

池から出て来た力士像二躯は県の文化財に指定され、鎌倉時代のものとされる。
昭和、平成と解体修理を受け、その際に体内から寛文と記された墨書きが見つかり、記された前回修理年などから鎌倉時代の作と推定されるようです、作者や正確な作成年度は不詳。
全高は3㍍程で知多半島の木造彫刻物では最大だそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20220105090658j:plain暑い日には寺叢が作り出す木陰が心地よい、今頃は葉も落ちて空が良く見通せるかもしれない。
参道脇に複数の堂があり、正面に観音堂が見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20220105090717j:plain参道左には三つの堂と地蔵郡がある。

f:id:owari-nagoya55:20220105090735j:plain中ほどの堂に安置された石仏は馬頭観音だろうか。
下に邪鬼らしい姿が彫られているような、ひょっとして青面金剛かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20220105090758j:plainさらに右のやや大きな堂の内部には千躰?仏が安置されていた。

f:id:owari-nagoya55:20220105090820j:plain参道右の堂には弘法大師の像が安置されているようで、堂に掲げられた額は願王・・・色褪せて読めない。

f:id:owari-nagoya55:20220105090840j:plain手水舎と「御嶽山 高讃寺」の縁起。
宗旨 天台宗
総本山 比叡山延暦寺
開創 白鳳十二年(684)

天武天皇勅願寺として行基菩薩が現在地より北東1㌔、三岳の地に天竺伝来の高木で本尊の聖観世音菩薩他を彫刻安置したのが始まり。
三百の堂宇を有する七堂伽藍を完備した巨刹だった。
天文六年、文禄年間、江戸中期、明治と焼失。
文化財の寺宝は平安時代の木造聖観世音菩薩、同木造阿弥陀如来像、鎌倉時代の木造仁王像など多数。

f:id:owari-nagoya55:20220105090902j:plain手水舎から目の前の石段を上れば観音堂は目の前。

右側が本堂と寺務所(納経所)

f:id:owari-nagoya55:20220105090925j:plain境内周辺はもみじが多く見られ、本格的な紅葉シーズンには赤く染まるのだろう、住職の話では「今年の紅葉は今一つ」と云われていたが、一面赤く染まった境内に佇む石仏の姿も見られるのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20220105090945j:plain寺務所から見た本堂、観音堂
鬱蒼とした寺叢が建物を覆わんばかり。

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観音堂
向拝の付く寄棟瓦葺で周囲に高縁が付く。

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外陣には多くの奉納額が掲げられ、その多くは冨士登山のもの、奉納年も様々で明治、大正、昭和のものや、色褪せて文字の読み取れないものなど残り、古くから冨士講が根付いていたようです。

格子天井には白い顔料だけで絵が描かれていますが、一部の花を除き識別できない。
圓通寺でも同様の絵が描かれていたのを思い出すが、何を表したものか読み取れない。

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内陣
左には金色の飾り金具が施された社に弘法大師

f:id:owari-nagoya55:20220105091400j:plain中央に観世音菩薩。

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堂内右、ピンボケではっきりしないけれど千手観音らしき姿も見える。

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はりあげて ほとけのくどく こうさんじ  あのよにまでも ひびきわたらめ
創建 / 684年(白鳳12)
開山 / 天武天皇
開基 / 行基
本尊 / 聖観世音菩薩
 

七社神社から御嶽山高讃寺徒歩ルート /  ​東へ徒歩5分程

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さて次はここから北に約3㌔先の六十三番札所 補陀洛山 大善院を目指す。
陽気が良すぎて水が飲みたい、出がけに自分の水を持ってくるのを忘れていた。
すぐにコンビニか自販機くらいあるだろうと目の前のコンビニをスルーしたのが失敗だった、奥条7の交差点までの国道沿いに・・・ない。

鳥取県 「鳥取砂丘と砂の美術館(第13期チェコ&スロバキア編)鑑賞」

予定外で訪れた倭文神社の参拝を終え、二日目の目的地鳥取砂丘を目指す。
先を急ぎたいが、車の燃料も心もとない、来た道を戻り給油。
今にも降り出しそうな空は何とかもっている、雨雲と競い合うように砂丘を目指す。
雨の砂丘だけは避けたいもの。

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倭文神社からは県道234号線➡県道185号線➡山陰自動車道国道9号線鳥取西IC➡県道265号線経由し鳥取砂丘ビジターセンターの駐車場まで約1時間ほどの移動時間。
今にも降り出しそうな天気だが取り敢えず間に合う事が出来た。
靴を履き替え砂丘に向かう。

f:id:owari-nagoya55:20220103092349j:plain山陰海岸国立公園鳥取砂丘山陰海岸マップ。
腰を据えて訪れないと見所満載で徘徊しきれない。

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砂丘は子供の頃に訪れた記憶が残る、当時はちびっこだったので今とはスケール感も違うだろうが、砂漠に来た印象だったのを覚えている。
それはかみさんも同様。
彼女の記憶に残るラクダと一面砂の世界をもう一度訪れたい、彼女の希望で計画に盛り込まれた。
それだけに雨は勘弁してほしかった。

f:id:owari-nagoya55:20220103092430j:plainビジターセンターの後方から階段を上ると、目の前に砂丘が広がる。
スケール感はお互いの記憶とは随分ギャップがある。
子供の視線の高さとは違うけれどこの絵の印象は変っていないようだ。
風紋を探しに砂丘に踏み入れる。

f:id:owari-nagoya55:20220103092452j:plain鳥取砂丘は一般人が立ち入れるものとしては日本一。

真の日本一は青森県にあり自衛隊の管理地の猿ヶ森砂丘、大きさは鳥取砂丘の約3倍、総面積が約15,000㌶あるという、実感が沸かない大きさ。
それでも気軽に観光できる砂丘としては日本一。
浸食運搬堆積って小さい頃聞いた覚えがある、自然の造りだした産物だ。
歳を重ねて改めて見る砂丘は子供の頃とは違いコンパクトな印象。
とは言っても目の前に見える馬の背までの道のりは遠い。

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訪れた時は修学旅行で訪れた学生が砂を踏みしめ、足跡と共に思い出を刻む光景があった。

足跡はすぐに風が消し去るけれど、馬の背を駆け下った記憶は消える事はないだろう。
その光景を見て「こけろ!」と念じるギャラリーもいる、そんな期待も空しく誰一人転ばない。
若いというのか、流石と云うしかあるまい、こちらは砂に足を取られ思うに任せないというのに・・・。

f:id:owari-nagoya55:20220103092538j:plain観光客は少ないとはいえ砂丘は至る所足跡だらけ、足跡のないサラサラの場所を見付けるのは結構難しい。
風紋を撮ってはみたがなんだかなァ、曇りでは陰影もなくイメージとは違う。
きれいな風紋は朝夕が陰影も強調されいい時間なのかもしれない。雨が降らないだけも良しとしよう。
馬の背から砂浜の先の日本海を眺めながら一休み、そして再び砂と格闘しヘロヘロになって駐車場に戻る。
我慢していた空も遂に泣き出した、靴を履き替え、傘を手にして次の目的地「砂の美術館」まで歩く。
本気で降り出した雨、このタイミングでこれから砂丘に向かう修学旅行生の姿が気の毒に思える。

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駐車場から砂の美術館までは徒歩で10分もかからない、砂丘さえ体感すれば雨が降ろうと支障はない、
運が良かった。
砂の美術館外観、駐車場は満車で歩いて正解だった。

f:id:owari-nagoya55:20220103092626j:plain砂の美術館入口のモニュメントも砂で作られている。
かみさんの目的の一つにこちらで開催されている「砂で世界旅行 チェコスロバキア編」を見ることもあった。

f:id:owari-nagoya55:20220103092651j:plain砂像は見かける事はあっても作り方まではしらなかった。
砂団子の要領くらいにしか思っていなかった、ある意味似ている。
糊等使わず圧縮された砂の粒子だけで形造られ、土台から削り出して形作られた作品は目を見張るものがあり、白兎神社の砂像もそうして作られたもの。
時間と共に崩れ去る一点ものの作品なので覆い屋の下に置かれていたのも当然の事だろう。

砂の美術館では毎年テーマを変え世界各地から砂像彫刻家を召集、テーマを変えて展示するそうで、今回のチェコスロバキア編が第13期だという。
2020年7月~2021年1月の開催期間がコロナ禍により2022年1月3日まで延長され展示されていた。
1月3日以降は次の第14期に向け7月まで閉館、この間に新たな作品作りが行われる。
既に開催期間を終えようとしているが、内容は写真を見て味わってもらえればと思います。

2020年が日本とチェコ・スロバキアの国交が樹立100年の節目にあたり、それを記念してチェコスロバキアがテーマにされたようです。
大きな展示場には絵本に出てくるようなチェコ・スロバキアの街並や雄大な自然、長い歴史の中で刻まれた出来事や神秘的な伝説が砂像として描かれ展示されています。

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上が展示されている作品の解説。
全てを写真に収めましたが人の映り込みが激しく全て載せきれていません。

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上は館内二階から見た展示物の様子。

広い館内一杯に砂像が所狭しと展示され、場内はチェコ・スロバキアの趣が漂う。
上方の城がプラハ城、世界で一番大きく古い城と云われるそうだ。
下方が世界遺産の街チェスキー・クルムロフ。
館内照明だけで着色など施されていない砂の色合いですが、精密に彫られた街並みからは色や街の持つ空気までも漂ってくる。
砂だけに制作中に崩れてしまう事はないのだろうか。
ワォ、保存してないのにPCフリーズしてしまった、最初からやり直しかよォ、復元もない。
ショックはこんなもんではないな。地道で根気のいる作業だ。

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上 「ボヘミアン・パラダイス」
600万年前の地層を含む無数の巨岩が立ち並ぶ雄大な風土とそこに住む人々を描いたもの。
下 「スピシュ城とモンゴルの襲来」
スロバキア東部の世界遺産廃城スピシュ城、13世紀モンゴル帝国の支配が広がるなか、小型の弓と巧みな戦術で戦禍を免れたという、その光景を現した作品。
人物に目が行くが城や周辺の描写も見事に描かれている。

f:id:owari-nagoya55:20220103092820j:plain上 「天文時計とセドレツ納骨堂」
15世紀に造られたプラハに旧市街の時計塔、上部に太陽と月の位置、時刻を示す天文図文字盤、下には星座と農村の四季の作業が分かる暦盤が作られている。
周囲の骸骨はチェコには人骨を装飾に使用する教会があり、セドレツ納骨堂の壁面装飾をモチーフに時計塔の周囲に配した作品。

「リブシュの予感」(右)と「ルドルフ2世とルネサンスの影響」(左)

f:id:owari-nagoya55:20220103092848j:plain嘗てのチェコは予言能力を持つ賢く美しい女性リブシュが治めていたとされ、彼女の予言からプラハの街とプラハ城が生まれたと云う。

f:id:owari-nagoya55:20220103092912j:plain上 「ヤン・フスと火刑」
ヤン・フスチェコ宗教改革者。
教会が政治にも権力を持っていた14世紀、ヤン・フスは教会のあるべき姿を説き民衆から支持を集めるが、やがて協会から異端児として火刑に処されるが最後までその信念は変えなかったと云う。
下 「ルドルフ2世とルネサンスの影響」
ルドルフ2世はプラハの文化発展に貢献しルネサンスを定着させ、プラハを芸術、科学、文化の都として名を馳せた立役者。

f:id:owari-nagoya55:20220103092939j:plainプラハ城とカレル橋とヴルタヴア川の風景」
プラハ城と旧市街を結ぶ世界遺産の石橋でその先に予言で作られた街とプラハ城が描かれている。
最初に何処から彫り出したものか、個別に造り並べたものなのか分からないが細部まで詳細に彫られた壮大な作品だ。

f:id:owari-nagoya55:20220103093000j:plainカレル橋にはこうした聖人像が並びその先のプラハ城に続き、その像ひとつ〃の表情や衣服の質感は砂から彫られたものとは思えないもの。

f:id:owari-nagoya55:20220103093021j:plain「ゴーレム伝説」
ユダヤ教の古い伝承に登場し、ゴーレムとはヘブライ語で「胎児」を意味する土人形で、作った者の指示しか従わないと云う。それもやがて守られ無くなり遂には元の土に戻されたという。
ゴーレムの身に着けるボロボロの服が生きもののように伸びていき、制御不能になった様を表しているのかもしれない。
その土は今もプラハにあるユダヤ教の協会の屋根裏部屋に眠っているという。

f:id:owari-nagoya55:20220103093042j:plain中欧の野生動物」
広大な自然が育む野生動物がこのブロック一つに彫られ、熊や立派な角を持つ鹿、フクロウや狐、遠吠えする狼など立体的に彫られている。会場の作品はどれも素晴らしいけれど個人的に一番見入った作品の一つ。蛇はいないんだ。

f:id:owari-nagoya55:20220103093102j:plain蛇はいないが会場出口に巨大な奴が展示されている「ドラゴン伝説」
翼を持つ長いやつ、伝説には欠かせないキャラクターとして登場する、龍にしたって、ヘビにしたってどこの国でも長い物は神聖化されるのだろう。
龍やドラゴン系の長い物は許容範囲、しかし蛇だけは受け入れにくい。
若い頃に沢を上りながら釣り歩いていた時、ふと岩に手をかけたつもりが日光浴中の蛇を掴んでいたのがトラウマになってしまった。
それでも釣はやめなかったが、長いものとの付き合い方は今も分からず好きになれない。
倭文神社の蛇の巣伝説? なんと恐ろしい。

話がそれましたが、砂丘と見事な砂像を鑑賞し鳥取砂丘を後にする。
二日目の予定はこれでおしまい、一路宿泊地の城崎温泉の宿に向かい温泉街を徘徊する。
おやじには最大のお楽しみかも知れない。
2021/10/25

鳥取砂丘
所在地 / ​鳥取県鳥取市福部町湯山

「砂の美術館」
所在地 / ​​鳥取県鳥取市福部町湯山2083-17​​
倭文神社から車アクセス / 県道234号線➡県道185号線➡山陰自動車道国道9号線鳥取西IC➡県道265号線経由、鳥取砂丘ビジターセンター駐車場まで​約1時間ほど


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知多四国霊場 八十八番札所「瑞木山圓通寺」

地蔵寺から北西方向へ。
歩道のない県道248号線沿いを歩く。
県道は一部歩道はあるものの、大半は歩道がなく車道を歩く事になり車には要注意。

f:id:owari-nagoya55:20220101171104j:plain末広交差点から10分程進んだ田畑の広がる県道沿いに小さな地蔵堂が立っていた。
中には風化により表情の読み取れない地蔵さんが祀られていた。
ここまで来れば前方に伊勢湾岸道の高架も見えてきます、万願寺の「圓通寺」は高架橋手前の小高い丘に鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20220101171123j:plain県道から右に入り丘に続く坂を上ると鐘楼堂の屋根が見えてくる。
丘の頂まで来ると境内が広がり、鐘楼堂の先に寄棟瓦葺の弘法堂も見える。

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地蔵寺から30分程かかっただろうか。
知多四国霊場八十八番札所の八十八番、寺の片隅に満願霊場の石標が建つ。
 
瑞木山圓通寺
知多四国霊場八十八カ所巡礼もここで終わりを迎える。
ルートの関係で八十七番札所が残っているが、先に納経とした。
 
訪れた12/2、圓通寺は写真のように本堂の修復工事中。
それにより弘法堂までの参道以外は立ち入り制限がかかっていました。

遮るものなく工事中の姿を見る機会は多くはない、丁度瓦を葺いている光景を見ることが出来た。
屋根のみならず木造の真新しい部材が輝いていた、次の二巡目には工事も終わり新しくなった姿を見られるだろう。
こうして補修が円滑に進む寺院もあれば、苦慮する寺院もあり、その差を目の当たりにするのが知多四国巡りでもある。

圓通寺の開創は729年(天平元年)、行基菩薩により馬頭観音、子安観音の両本尊を刻まれたことに始まると伝えれる曹洞宗の寺。
開創以来法相宗真言宗臨済宗と幾度も改宗し現在は曹洞宗
応時は七堂伽藍を有していたが、幾度も兵火に見舞われ、衰退していくが、1348年(享和4)夢窓国師が中興開山、1593年(文禄2)昌山秀繁和尚が中興開基、1810年(文化7)の知多新四国開創に伴い、満願霊場88番札所に列する古刹。

f:id:owari-nagoya55:20220101171439j:plain周辺の田畑や民家を見下ろす丘の上に建つ入母屋瓦葺の鐘楼堂。
遮るもののないこの環境でこの梵鐘の音はさぞかし遠くまで聞こえる事だろう。
鋳造年等は不明。

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鐘楼堂の奥に石の社の鎮守社と石仏群。


弘法堂は本堂の左に位置する寄棟瓦葺で向拝が付く。
堂前に白と紫(知多西国三十三所霊場)の幟が立ち並んでいます。

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圓通寺の本尊の馬頭観音立像は平安時代の物と云われ、脇侍の不動明王立像や毘沙門天立像など多くの文化財保有する。

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弘法堂右の阿弥陀如来立像。

f:id:owari-nagoya55:20220101171636j:plain弘法堂全景。

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88番。
外陣に重軽石、重軽菩薩などがあり、内陣には弘法大師毘沙門天馬頭観音が祀られ、堂前の五色の紐は弘法大師と繋がっている。

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堂に掲げられた額は色褪せてはいるが辛うじて瑞木山の山号が読み取れる。

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外陣天井には草花の絵が描かれているようですが、退色と破損も酷い。
いつ頃描かれたものかは不明ですが、白一色で描かれた花の絵柄など、このまま朽ちていく前に修復の手が入るといいのだが。

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内陣の弘法大師

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調整もこれが限界、馬頭観音と脇侍の不動明王毘沙門天が浮かび上がってきた。

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外陣に置かれた「尾州瑞木山圓通寺観音縁起」

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かみさんは既にお参りを終え納経印を頂きに納経所に向かったようです。
自分も遅ればせながらお参りさせて頂いて八十七番札所に向かいます。
工事が落ち着いて境内がすっきりしてから改めて再訪しよう。

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2021/12/02

慈悲深き 大師の恵み 有難や 今日木之山に 法の花咲く

知多四国霊場 八十八番札所「瑞木山圓通寺」
開創年 / 729年(天平元年)
開創 / 行基
中興年 / 1348年(享和4)
中興開山 / 夢窓国師
宗派 / 曹洞宗
札所 / 知多四国霊場 八十八番札所、知多西国観音 二十五番札所、知多西国三十三所霊場25番、知多百観音札所2番
所在地 / ​大府市共和町小佛67

地蔵寺から徒歩ルート / 県道248号線➡末広交差点右➡​県道23号線徒歩30分強
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