「船頭平河川公園の蓮と船頭平閘門」愛知県愛西市

2022/06/11
 愛西市立田町福原にある、国営木曽三川公園「船頭平河川公園」の河川公園の蓮と船頭平閘門(こうもん)を見に出かけてきました。

名古屋から東名阪自動車道を利用、長島ICで降りてから木曽川を遡り、40分程で国営木曽三川公園「船頭平河川公園」無料駐車場へ。
東名阪自動車道は工事渋滞が出来る事もあり、高速を避け下道を利用するのもあり。

東に木曽川、西に長良川揖斐川が流れ、その先には養老山系が聳え、駐車場のすぐ南側の長良川左岸が国営木曽三川公園船頭平河川公園。
 目の前に広大な芝生と園内には水生植物が植えられていて、これからの時期は蓮の開花が近づいてくる。
写真は2022/6/11時点の蓮園の様子。

園内をぐるっとひと回りしてみましたが蓮の花には・・・・・少し気が早かったか。

それでも自分と一緒で気の早い蓮が唯一一凛花を咲かせていました。

広い園内で唯一見かけた蓮の花、小雨が降る生憎の天気の中、淡いピンクの一輪の花がとても印象に残ります。
園内の蓮は蕾が徐々にふくらみはじめています、あと一週間もすれば一面蓮の花が広がるのでは。

木曽川を越えた愛西市森川町の森川花蓮田とは一味違ってしっとりと落ち着いた雰囲気の中鑑賞できます。
因みに帰宅の際に森川花蓮田や周辺の蓮田を通りがかりましたが一輪も咲いていませんでした。

蓮には早かったようですが公園には船頭平閘門(こうもん)もあり、そちらにも足を運んで見てはどうだろう。

 今でこそ木曽、長良、揖斐の三川は綺麗に三つに分かれ流れてはいるが、往古は一つに合流し多くの分流が出来ていた。
川は豊かな土壌の平野を作り稲作に都合のいい土地をもたらしてくれた。
 反面、一帯は常に水との鬩ぎあいの場だった。
御囲堤や三川分流、輪中や水屋など治水や独特の施設が生まれる事になる。

 船頭平河川公園の最大の見所にこの船頭平閘門がある。
三川分離で治水が出来て一安心、反面それまで舟で自由に行き来できた隣の川は「ちょっと待てぇ、河口まで行くんかい?」となる。
 それを解消する手段として1899年(明治32)に着工、1902年(明治35)に竣工した施設が閘門。舟のバイパスだね。

公園から歩いても1~2分。
 閘門から長良川方向を眺める、閘門を隔て隣り合う木曽川長良川とは水位が違っています。
 閘門は二つあり、門で仕切られた空間「閘室」に舟を入れ、扉を閉じ其々の川の水位に合つたところで出口の閘門を開け航行するものです。
閘門の下部に小さな門があり、閘門全体を開放せず閘室に緩やかに水を満たす事ができるので舟に乗っているとエレベーターのような感覚かも知れない。

閘門前に着いた舟は閘門前でドアのインターフォン押して開けてもらいます。
 写真中央の紐がそれで、神社よろしく鐘を鳴らして担当者に知らせ、スピーカーでコミュニケーションを取ります。

「通してくださ~い」

今も現役の閘門、施設の詰所には担当者が詰め、扉の開閉をコントロールする。
 「毎度、開けるわな、開いたら中で待ってや、水入れるんで」・・・なんてやり取りがあるのかもしれない。

巨大な閘門を開け閉めする駆動部。

大きなギアを介し開け閉めされる。

閘門扉が開いたところで舟を閘室の中に進め、再び閘門扉が閉められ密閉されます。

そして閘門扉の下にある給水扉が開けられ徐々に水位が上がり始めていきます。
 これがエレベーター。
パナマ運河の小さい版といってもいいだろう。
 料金箱やETCなど見られず一般には無料開放されています。
生活や物流の舟の利便性を高める目的から始まった閘門、今ではレジャーボートや水上バイクの利用が多いようです。
 長良川河口堤にもこうした閘門が設けられていますが、規模は大きく閘室に水が満たされる際は結構荒々しく、カヌーで水位調整を待つときは結構怖かった記憶がある。
その頃のカヌーは今も物置で眠っているけれど、使えるようであれば一度通って見たい気にさせる・・・が若くはないか。

やがてエレベーターは止まり目的の河川と同水位になると再び出口側の閘門扉が開かれ、航路が現れ何の抵抗を受ける事無く隣の河川に渡る事が出来ます。
 写真は木曽川側から閘門の眺め。

この辺りに閘門扉が保存展示されています。
 木曽川長良川の間をつなぐ船頭平閘門。
明治以降1994年(平成6)に手動から電動化、改修工事が行われ建設以来現役で今も現役で稼働している閘門。
 2000年(平成12)に国の重要文化財に指定されています。
指定理由は
・ 数少ない明治期に建造され現在も使用されている閘門である事。
・ 複閘式閘門として最も初期のもの。
ここには改修工事の際交換された初期の扉が保存展示されている。

扉脇に閘門の解説。
 門は縦7.6㍍、横3.2㍍、重さ10㌧の大門扉と縦6.8㍍、横3.2㍍、重さ9㌧の小門扉の二重扉。

下から見上げる扉はまるで城門か要塞の扉。
 この閘門の計画を進めたのがオランダ人土木技師ヨハネス・デレーケ。

園内の芝生広場の一画に銅像が一つ置かれています。

船頭平閘門の建設に貢献したオランダ人土木技師ヨハネス・デレーケの銅像

園内に掲げられた「伊勢湾台風のあらまし」
 先人の智恵と技術で今は穏やかな表情を見せる木曽三川、この事は過去の事と胡坐をかいて楽観視していると今の気象は想定外の姿を見せてきます。
自然の力を見くびってはいけない。

 船頭平河川公園の蓮どれくらいで見頃になるかなぁ、一週間も待てばもう少し咲いてくれるかナ。
仮に見頃は早くても、たまには視界の広がる郊外でゆっくり過ごすのもいいものです。
 徒歩圏内に神社や資料館などもあるようです。

最後に、公園に向かう堤防道路はガードレールもなく、車は結構な速度でかっ飛んで行きますが、ネズミ捕りにかからない程度の速度違反で留める事をお勧めします。
 どうせ橋の信号や橋を渡るのに必ず渋滞する場所です。


木曽三川公園船頭平河川公園の蓮と船頭平閘門
休園日 / 毎月第2月曜日(休日の場合は直後の平日)、8月は第4月曜日 12月31日、1月1日
開園時間
・4月1日~6月30日 9:30~17:00
・7月1日~8月31日 9:30~18:00
・9月1日~11月30日 9:30~17:00
・12月1日~2月末日 9:30~16:30
・3月1日~3月31日 9:30~17:00
☎ / 0584-54-5531
所在地 / ​愛知県愛西市立田町福原272
訪問日 / 2022/6/11
・駐車場無料、徒歩圏内に神明社八幡神社
車アクセス / 名古屋から東名阪自動車道利用 / ​​約40分​​、名古屋から一般道 / ​約60分

「下野國一之宮 二荒山神社中宮祠」栃木県日光市

栃木県日光市中宮祠 下野國一之宮 二荒山神社

東武日光駅から湯元温泉行のバスでザ・リッツ・カールトン日光バス停で降車。
 中禅寺湖から流れ出た大谷川に架かる二荒橋を渡り、国道120号線を左に折れ下野國一之宮二荒山神社中宮祠を目指す。
社頭までバスで訪れるなら二荒山神社中宮祠停が便利。

国道120号線を跨いで建つ二荒山神社中宮祠の大鳥居。
 後方の綺麗な稜線を見せる山は標高2,486㍍の男体山
穏やかな表情を見せているが中禅寺湖の生みの親はこの男体山
 訪れたのは2022/5/10、周囲の山〃はやっと新緑が芽生えだした頃。

巫女石
大鳥居の脇に一本の松の老木があり、幹の周囲は玉垣で囲われています。
 巫女石(左)はその内側に安置されている。

この地は平安時代より霊峰男体山登拝の霊場として開け、明治以前まで厳しい掟があった。
 馬返しから先は牛馬は禁則、女人禁制の結界で、掟を破った者はもれなく御山の罰が下されたと云う。
キュッとくびれたウエストを持つこの岩は神に仕える巫女さん。
 女人禁制の男体山、神に使える身なので登拝しても大丈夫と登拝を試み、山の神の罰が下って岩(巫女石)に変えられた姿だという。

これと同じように牛馬禁則の掟に従わず牛を引いて結界を越えた者がいた。
 掟を破った彼?は二荒山神社中宮祠の神門をくぐった左側で伏せ牛の形をした岩(牛岩)に姿を変えられたという。

グレーな幕引きしかできない、岩に変えたい人物が沢山いる昨今、何と云う厳格な対応だろう。
 今は二荒山神社で登山届を出し参拝すれば岩(石)に変えられることもない。

周辺のマップ
 大鳥居の位置は赤丸、目指す二荒山神社中宮祠は点線の赤枠。

縁熊
 国道沿いの大きな樹の下に置かれ、二荒山神社の御神木で作られた熊。
この熊の手を思いを込めて握ると千里の恋も叶うそうだ。
 神社までは中禅寺湖湖畔をフラ〃しながら20分程。

やがて右手に鳥居が現れる、脇参道で神門の先の境内に繋がっています。
 社頭はここから左の国道沿い、もう少しで到着です。

下野國一之宮 二荒山神社中宮祠社頭。
 大きな明神鳥居と右に大きな社標が立つ、周辺は参拝者駐車場で車でのアクセスも容易。

鳥居右の水神の碑。
 1921年(大正10)建立で中宮祠湖の水神に感謝と湖上の安全を祈願して建立された。
祭神 / 水波能売神
神徳 / 湖上安全、開運、晴雨祈願 

二荒山神社中宮祠境内マップ。
 神門から直線上に拝殿、本殿と続き、稲荷社、山霊宮、登山口となる登拝門が主な伽藍のようだ。
登拝門から男体山山頂の奥宮へは山支度が必要。
 日光二荒山神社は山頂の奥宮、中禅寺湖畔の中宮祠、東照宮の西に鎮座する本社の三社で構成されています。
下野國の一之宮はここ二荒山神社と宇都宮の二荒山神社の二社があり、識別化のために日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社として区別している。

鳥居から先は石段が神門に続く。

朱で彩られた八脚神門。

正面に伽藍が広がる。

境内は大きく四段に分かれているようで、神門のある境内は右に進むと牛石や宝物館。

 一段上がると手水舎と稲荷社、最上段に社殿の伽藍。

牛石。
掟を守らなかった結果の姿。

一段上がった境内右手の手水舎。

左手に稲荷神社と金色のモニュメント。

願い叶えマス。
 中禅寺湖は元々殺生禁止の霊場で魚は住んでいなかったという。
明治に入り宗教戒律が解かれ、中禅寺湖に魚の放流が許可され、二代目宮司自らも放流を行ったと云う。
 その由来を伝えるためこの碑が立てられたという。
黄金色の鱒は触れると願いが叶うという。
 中禅寺湖フライフィッシングの聖地と云われた時期もあり、今も多くの釣り客が訪れます、二匹のアルビノの鱒に釣果を祈願するのもいいのかも。

稲荷神社。
 二荒山神社末社1863年(文久3)京都伏見稲荷大社から宇迦之御魂大神を分霊、地元氏子から崇敬されている。
3月28日の例祭は福引大会など神振行事が斎行され賑わうという。
 五穀豊穣、延命長寿、産業振興、商売繁盛、家内安全を司る。

稲荷神社本殿。
 本殿とそれを守護する狛狐も大きな覆屋の下に祀られている。
神門は左三つ巴だろうか。

中門は透塀と一体となり、門前で大きな狛犬が守護する。

分厚い胸板で彫の深い逞しい姿の狛犬

重要文化財中門。
 屋根は滑らかな曲線を持つ平唐門。

中門蟇股の透彫りは鯉がモチーフになっている。

蟇股には鮮やかに彩色された鯉は裏と表で真鯉と緋鯉に分けられていた。
 緋鯉の顔つきは妙に愛嬌のあるもの。

 拝殿・本殿全景。
中門からは拝殿まで屋根が付けら入母屋瓦葺の拝殿軒下まで続く、向拝はないが雨天時に濡れる事はなさそう。
 拝殿は1701年(元禄14)の建立で総弁柄塗り。

拝殿額は中宮祠。
 下は拝所から拝殿内を眺める。
中宮祠由緒。
 ・二荒山神社は神鎮まる御山として信仰される霊峰男体山(二荒山)を御神体とする。
 ・782年(天応2)男体山山頂に祀られたのが始まり。
 ・祭神は二荒山大神主祭神 大己貴命、妃神 田心姫命御子神 味耜高彦根命の親子三神を祀る。
 ・男体山山頂の奥宮、中禅寺湖湖畔に中宮祠、東照宮西奥の本社の三社が鎮座。
 ・二荒を「にこう」と音読みしたことが日光の語源。
 ・境内地は華厳の滝いろは坂、日光連山が含まれ約3,400㌶に及ぶ。
 ・本殿と拝殿ともに1701年(元禄14)に建立国の重要文化財に指定。
 ・主祭神大己貴命は大黒様として親しまれ境内には所縁のある七福神が祀られている。
 ・登拝道は登拝門から山頂まで片道約6㌖あり、4月25日~11月11日まで。
 ・宝物館には日本最大級の太刀「袮々切丸」など多数の刀剣類、南北朝時代の神輿、男体山山頂遺跡の出土品を展示。

拝殿左の神楽殿から本殿方向に鎮座する山霊宮。

 覆屋後方に聳える巨木は御神木のいちい、栃木県の天然記念物で、県の名木百選に指定されている。
いちいの巨木は登拝門脇にも聳え樹齢は1100年を超えるとも。


山霊宮。
 比較的近年に建てられたもので、男体山はじめ日光連山の信仰に貢献された方々を祀るもの。

七福神(福禄寿)
 幸運と子孫繁栄、金運にも恵まれ長生きできると云われる。

山霊宮から見る本殿域。
 一段高く石垣を積み本殿域が作られ、周囲は透かし塀で囲われ薬井門に繋がっている。
ここから見る本殿は反りの強い瓦葺の流造。

楽殿
 拝殿左に建ち、山霊宮から全体が眺められる。

楽殿は大国殿とも呼ばれるようで、毎朝大黒様に八乙女神楽が奉奏されるという。
 2016年、学生の授業の一環で3.5年をかけ天井画を描き奉納された、彼らにとって後世に残る素晴らしい経験になった事と思う。

拝殿右の登拝門の眺め。

奥宮登拝口
ここから霊峰男体山(標高2,486㍍)の頂に鎮座する奥宮へ繋がる。
 古くより、霊峰二荒山(ふたらさん)として神の鎮まる山として尊崇され、御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様。
ここから奥宮は山支度の装備でしか辿り着けません。
 周辺には石楠花の名残がチラホラ見られ下界とは季節感が随分違う。
重要文化財の鳥居は1769年(明和6)寄進のもの。

登拝門。

 ここから先は修験の道に表情が変わる。

登拝者を見護狛犬
 苔を纏い、中門の狛犬に通じる風貌の持ち主ですが昭和生まれ。

鳥居付近から見る三間社流造の本殿。

社務所
 御朱印、登山届はこちら。

社務所付近の手水鉢、奥宮への登拝はここで清める事から始まる。

下野國一之宮 二荒山神社中宮
創建 / 782年(天応2)
祭神 / 大己貴命田心姫命味耜高彦根命の親子三神
境内社 / 稲荷神社、山霊宮
参拝日 / 2022/05/10
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海潮山 磐台寺 阿伏兎観音堂

広島県福山市沼隈町能登原阿伏兎『海潮山 磐台寺』

「道の駅 アリストぬまくま」で車中泊、迎えた二日目は県道47号線を10分程南下した阿伏兎観音に向かう。

阿伏兎観音無料駐車場の目の前は阿伏兎の瀬戸と呼ばれる水道。
 遥か先に広島県福山市の沼隈半島と田島を結ぶ全長832㍍の内海大橋が望める。
狭い水道は干潮の潮止まりだったのかもしれないが実に穏やかな表情をしていた。

 阿伏兎ノ瀬戸
阿伏兎岬と田島の間の水道で幅は約500㍍、長さ約1㌔に渡り急激に海が狭められ、干満差が大きく満潮時には左方向、干潮時は右方向に潮流が生まれ速い潮の流れは美味しい魚を育む事にもなる。
 動力のない昔の船は潮任せ、風任せで自然を利用し航海していた、潮や風が動いていない時は港でその時を待つ潮待ちを行っていた。

駐車場背後の阿伏兎山は海に向かって急激に切れ落ち、露出した岩は海岸にまで達している。
 ここから阿伏兎山森林自然公園の散策路入口があり、阿伏兎灯台や展望台に繋がるようですが、入口のルート案内の状況を見ると整備状況はいいとは言えないかも知れない。
 この駐車場まではトモテツバスが繋がっていますが、ダイヤを見ると本数は少なく車で訪れるのがいいかも知れない。
旅館を通り過ぎた先にも4台ほどの駐車場はあるが、歩く時間は2~3分程しか変わらないだろう。

駐車場から『海潮山磐台寺』へは海岸沿いの車道を5分程歩いていけば突きあたりが目的地。

道沿いの1795年(寛政7)の銘のある宝篋印塔と右に薬師如来坐像

臨済宗妙心寺派 阿伏兎観音 磐台寺』
 拝観時間は朝8:00から

石段左の境内マップ
 阿伏兎山が切り立った海岸に切れ落ち、伽藍はその僅かな空間に作られています。
白壁の右は切れ落ちた海岸になっている、奥行きはあるが細長い境内。

拝観料100円を納め境内へ。

磐台寺境内。
 正面の朱の建物が観音堂で左手の廻廊と結ばれている。
左手の客殿全体がフレームに入らないほど境内は狭い。

海潮山磐台寺客殿。
 磐台寺は臨済宗妙心寺派の寺院。
本尊は木造薬師如来
備後七ヶ所巡禮の瀬戸内三十三観音霊場第24番、備後西国三十三観音霊場第4番札所でもある。

暦応年間(1338~1342)覚叟建智が開いたと伝えられ、一時衰退し建物は荒廃したという。
 元亀年間(1570~1573)、毛利輝元により観音堂と共に再建されたとされる。
入母屋瓦葺で内部は仏間を中央に左右に書院と奥の間を配した方丈建築。
 後方の社は鳳凰稲荷、ここから左に参道が続く。

阿伏兎 名勝 鞆公園内 大正14年10月8日指定
 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人々の信仰を集めて来た。
 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願し岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基。
 後に毛利輝元が再興、福山藩主水野勝種によって伽藍が整えられた。
観音堂と客殿は室町時代の建築様式で知られる。
 本尊の十一面観音は小授け・安産・航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。
朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、眼下に広がる燧灘の展望も素晴らしい。

 観音堂を支える石垣はまるで城壁。
もともとの岩盤に石を積み上げたものですが、境内側と海側の積み方の巧みさには目を見張る。

白鳳稲荷。
 銅板葺の流造で外削ぎの乗せ千木と三本の鰹木が乗る。
佇まいは稲荷を感じさせない。

手前に手水鉢、地蔵菩薩。 

ここから廻廊を経て観音堂に続く。 

廻廊から観音堂(大悲閣)
 阿伏兎岬先端部の岩上に石が積まれその上に観音堂と廻廊が建つ。
境内側は大小様々の石が積まれた乱積みだったが、海側の石積みは成形された岩が巧みに積まれたもの。
 仰ぎ見る巨岩の上に建つ観音堂は一見すると方型の様に見えるが、小さな大棟を持った瓦葺の寄棟造。
大棟には鯱が乗せられている。
 廻り縁はあるものの高さは低く怖そうな予感がする。

廻廊から海の眺めは絶景だが、下は垂直に切れ落ちている。

観音堂廻り縁、ここからは土足厳禁。
 なんですが写真の縁側の傾斜を見て欲しい、僅かに外に向け傾斜している。
多くの参拝客が訪れ縁側の表面はツルツルに磨き込まれ、高所恐怖症でなくても立って歩くのは引けてしまう。
 左は断崖、立ったまま眼下を覗き見ると体が吸い込まれるようでもある。

廻り縁から見る燧灘と手前に足摺山の石塔。

観音堂から望む足摺山の石塔、こちらも巨岩の上に立てられている。

観音堂内。
 本尊は天正年間(1573~1592年)に阿伏兎沖の海中で、鞆津江の浦の漁師三山次郎右衛門の網にかかり

引き上げられた観世音菩薩の石像。
堂の格天井には天井絵が描かれている。
 小授け・安産のご利益がある事からユニークな形の絵馬には母ならではの願いが書かれていた。

廻り縁から阿伏兎ノ瀬戸方向と精一杯下を覗いてみる、・・・・怖いかも。 

今は阿伏兎灯台が岬の高みに立っているが、往古の海を行き交う船にとって、断崖の頂に建つ朱塗りの堂は絶好の山たて(道標)になったことだろう。

 磐台寺と観音堂の全景を撮影するには内海大橋を渡り、田島側から撮るしかないのだろう。

廻廊を下り右手の石段を下り足摺山の石塔に向かう。

廻廊降り口は鐘楼になっていて梵鐘の鋳造年度は1984年(昭和59)と新しいものだった、その先に六地蔵が祀られている。 

断崖沿いに鎖が張られた歩道があり突き当りが足摺山。

足摺山石塔。

下には1903年(明治36)に鞆の石工により彫られた千手観世音菩薩坐像が安置されている。
 力こぶを見せつける様な姿は印象的だ。

ここから眺める観音堂が境内で一番綺麗に見える場所かも知れない。
 航海の安全を祈願する、その思いから建てられた観音堂、どれだけの岩が積まれたのか分からないが思いを持った時の人の作り出すものには目を見張るばかりだ。 

・・・・角っこは宙に浮いていたのねぇ、積まなかったのには意味があるのだろう。
 広島県沼隈郡誌によると現在の観音堂は1738年(元文3)、鞆奉行加藤杢兵衛忠保が藩命により改築し、その後幾度が補修が行われた。観音堂の天井絵は松林により描かれたとあった。
 また面白い記述として観音堂の沖を往来する船舶は海上安全を祈願し賽銭を投じていたという。 

今から200年ほど前、晩年の歌川広重が六十余州名所図会に描いた備後阿武門観音堂
 朝が迫る阿伏兎観音を描いたものだろう、観音堂の上には落ち行く月が描かれている。
この絵を見る限り当時は舞台造りだったのが分かる。
 広重は船から眺めた観音堂の姿を描いたのだろう。
写真などない時代、見事に特徴が描かれている。

境内の端っこでひっそり安置されている十一面観世音菩薩立像。
 網にかかった石像はこんな姿をしているのだろうか、実に穏やかな表情をしている。
磐台寺を後にする際に写真に残しておきたかった表情です。

海潮山 磐台寺
宗派 / 臨済宗妙心寺派
開基 /  花山法皇
本尊 / 十一面観音
創建 / 986年(寛和2)
所在地 / ​福山市沼隈町能登原阿伏兎1427-1
参拝日 / 2022/04/20
道の駅アリストぬまくま👉​磐台寺無料駐車場
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梅の追熟

梅干しづくり
緑がかった若い梅、ざるにとって風通しのいい場所で追熟している光景を見た


かみさん手作りの梅干し
 梅干し造りには熟した梅を使うのがセオリーという
食べる専門だったおやじにすれば、かみさんのこうした手間がかけられていた事に改めて感謝
 日に日に全体が黄みがかり、梅の色合いの移り変わりが綺麗な事
それとともに梅の芳醇な香りが家中に漂う様になってきた
 美味しくなぁれ 

沈む前に浮上できるか?

さあ、​検討使
 税金に群がる議員さん達、結果を出してほしい。

0610
日本自動車連盟要望
 
 これに限らず、他にもまだまだある。
数の論理でこうした声を封じ、行動しないのかい?
 どさくさに乗じた血税の使われ方、しっかり全ての収支と成果を明示してほしい。

どこぞの老人議長やピンボケ総裁・・・・ 検討使、首を挿げ替えるには絶好の機会。
 この機会を生かし若返りを図ったらどうか? 議員定数を減らしたらどうか?
個人資産の総額ばかり当てにして 、内訳の分布から分母と分子を見れば検討するポイントは見えてくるはず。
 コロナ2類から5類へ変更、与党提言「1億総株主」撤回、円安から某国の不動産買収による国土の占領、財政健全化、格差是正少子化対策、100年安心年金制度etc
1億総株主も結構だが損失補填はあるのかい?、自分の息子や若い世代に負の遺産を背負わせないで欲しい。
 預金も投資も必要のない世の中を期待する。
今の与党になって何年経過したか?、これほどチャンスがありながら結果が出せない。

 老眼の船頭と老人ばかりの漕ぎ手で若手は減る一方、泥船は進むどころか沈むばかりだ。 
もうすぐ選挙だ、まっとうな人材と政党に票を投じる。

下伊那郡阿智村「そば勝縁」

「そば勝縁」
中央自動車道園原ICから15分、昼神温泉からでも5分程の国道153号線沿いに店舗を構える。

元善光寺御開帳に合わせ当地を訪れ、美味しい蕎麦と口コミでは評判はいいので立ち寄ってみた。
 国道沿いに10台ほどの駐車場があり、営業時間の11:00を20分程過ぎ現地到着。
写真は国道153号線から昼神方向を眺める。

既に駐車場は多くの車が駐車していた。
 幸い蕎麦は売り切れていないようで店舗入り口には「開」とある。
開店後20分でしかないのになぜ売り切れを心配するのか?
 そもそも一日の蕎麦の絶対数が少ない様で開店後すぐに「閉」になる事も多いようだ。

幸いすぐに店内の座敷に案内されメニューを見る、実にシンプルだ。
 営まれているのが老夫婦という事もありメニューのシンプルさは潔い。
かみさんは天ぷら蕎麦(1,500円)、自分はざる蕎麦(900円)と葉ワサビ蕎麦(1,100円)で迷った挙句葉ワサビ蕎麦(1,100円)の大盛(+500円)をオーダー。

 店内は木をあしらった内装で奥に広いガラス窓があり緑を眺めながら食事が摂れる。     席はテーブル席と座敷があり車椅子でも支障はない。
 既に先客が3組、私達の後に2組が入店したがそれ以降入店客が途絶えた。
途絶えた理由は蕎麦が無くなり店先の看板が「閉」になった為だった。
 上に書いたようにこの店は蕎麦の絶対数が少ない、栽培から脱穀、乾燥、製粉、製麺迄全工程を老夫婦自らが行っていることもあるのだろう。

ここからは個人の主観。
 提供された葉ワサビ蕎麦は細くて更科蕎麦に通じる白みのある蕎麦。
田舎蕎麦の香り高く、黒くて太い蕎麦が好みの自分には上品過ぎて風味が良く伝わってこなかった。
 個人の5点評価で2.5。

つゆは少し醤油辛い印象で葉ワサビや蕎麦の風味はつゆの強さに負けていた。
 シンプルにざるだったか?
天ぷらの塩をサラッとふって食べた蕎麦は風味が伝わり美味しい物だった。

天ぷらは季節の野草を主としたもの。
 カラッと揚げられ口の中で広がる僅かな苦みに野生を感じさせる。
うどの芽やどくだみの天ぷらはなかなかいける。
 我家の庭にもどくだみが自生する、婆さんが亡くなる前はお茶やリキュールなどで利用していた。
カラッと揚げてしまえば癖も抑えられ実に美味しいものだ、使ってやらなければもったいない。
 静かな山間地に店を構え、落ち着いた静かな店内で蕎麦を頂くなら「そば勝縁」いいかも。

 
注意点
・開店後すぐに売り切れる。
・男性には盛りが少ないので大盛がお勧め。

「そば勝縁」
所在地 / 長野県下伊那郡阿智村智里829-5
中央自動車道園原ICから車ルート / ​ICから昼神温泉方向へ約15分
定休日/月曜・木曜
営業時間/11:00~13:00
電話 0265-43-3711

西区枇杷島 「神明社」

名古屋市西区枇杷島4「神明社
 庄内川沿いに走る県道106号線を走っていると左岸堤防の上に小さな杜を持つ神社を見かける。
県道は名鉄犬山線名鉄本線の橋脚をくぐるアンダーパスとなるので気付いた頃には通り過ぎてしまう。

枇杷島から県道に出る車道はあるが車の往来もあり路駐はし辛い、気にはなっていても長年縁がなかった神社の一つ、今回は自分の足で訪れて見た。
 地下鉄鶴舞線浄心から西に向かい庄内堤の神社まで徒歩30分程。
歩き出した事はいいがこの日は真夏のような陽気、日陰を探しながらの道行きだった。

 土手の向こう側は県道、すぐ先を赤い電車が通り過ぎて行く。
神社の下側にも社があるようで、堤防道路からは目にすることのないものだ。
 堤の斜面に石段が作られ、その先に基壇が作られ社が祀られている。

社全景。

 赤い屋根の三つの扉が付く相殿。
上の神社とフェンスで区切られているので境内社ではなさそう。
 どなたの三世帯住居なのか知りたいところですが、表札もなく扉は閉ざされさっぱり分からない。

基壇は意外に新しく、後方に複数の看板が置かれている、これひょっとして屋根神様かも?
 西区は屋根神様の多い地域、古い街並みは残るものの建替が進んでいる。
建替に伴い居場所がなくなり地上に降ろされたものだろうか。
 扉が三枚となるとそう勘繰りたくなる、扉をノックしたいがそうはいかない。
上の神社との関係はよく分からないが三世帯分の賽銭を上げ参拝させてもらう。

歩道を左に進むと神社に続く石段があり、堤の上に大きな切株と社標が立っている。
 長年気になっていた神社の正体は「神明社」だった。
堤防の上に鎮座するので津島さんか龍神さまと決め込んでいたがそうではなかった。

堤の下から上を眺める、大きな切株は神明社の歴史を語っているかのようだ。
 それにしても堤防上の巨木の切株、相当な根を張っていたと思うが、根が朽ちた後の空洞は堤防の強度を下げたりしないものだろうか。

上は1891年頃の枇杷島界隈。
 随分と川の様相は違い、周辺には大きな中洲も見受けられる。
神明社について後日地史を調べて見たが創建に繋がる確かな記述は見つからなかった。

枇杷島と県道106号線を結ぶ車道から下流の眺め。
 往古の庄内川矢田川の堤は幾度となく切れ、特に1700年代の明和の洪水、宝暦の洪水など大きな被害に繋がっている。
ここに神明社が祀られた思いは分からないが、川の氾濫による禍除けからかもしれない。
 この周辺の川の様子を知るものとして尾張名陽図会の挿絵を載せておこう。

枇杷島下流から上流方向を眺めたもの。
 当時の枇杷島橋は美濃路への要衝ともなり、現在の橋より少し上流の中島黒體龍王大神社が鎮座する辺りとされ、名鉄の橋脚から少し下流あたりになる。
広い川幅に橋を架けるため中州を利用し二つの橋(枇杷島大橋と小橋)が架けられた。
 挿絵には上流の堤防の様子も描かれ、右手の堤防上に神明社の姿を期待したが描かれていなかった。
当時は堤防から富士山も綺麗に見えたようだ。
 ここに描かれた木造橋や中洲、集落など現在は姿を消しその名残はない。

暴れ川といっても過言ではない庄内川、輪中や水屋、横堤など人は知恵を絞り生活して来た、それでも最後は神が必要だったのかも知れない。

堤防から眺める社殿全景。
 鳥居はなく形跡も見られなかった。

左の神明社の社標は1937年(昭和12)に寄進されたものだった。
 後方に手水鉢と正面に瓦葺で四方吹き抜けの神楽殿、本殿域。

手水鉢。

楽殿から本殿域の眺め。
 常夜灯の先に神明鳥居が建てられている。
境内の寄進物の中では手前の常夜灯が一番古そうで、竿に文字は刻まれていたが読み取れなかった。

鳥居から本殿域。
 枇杷島に繋がる道は対面通行で社地左側に玉垣はなく線引きがないので車には要注意。
鳥居の寄進は1931年(昭和6)と刻まれていた。
 鳥居の向きから見ると現在の車道が参道だった気にさせる、その後右手に石段が作られた?

本殿域全景。
 周囲は玉垣で囲われ、小さな狛犬の姿がある。

本殿には扉が二枚。
 神明造で内削ぎの千木と6本の鰹木が施された二社相殿。
祭神は神明社とあるので天照皇大神、もう一社が分からない。
 読み取れなかった常夜灯に手掛かりがあるのかも。
取り敢えず二世帯分の賽銭を投入し参拝。

狛犬
 小振りながら整った容姿の持ち主で昭和生まれの様だ。

本殿から拝殿方向の眺め。

堤防道路から本殿側面の眺め。
 いつも通り過ぎてしまうあの姿は神明社だった。
 
ここに神社を祀った動機は分からないが、すぐ先に見える住宅の屋根の高さは随分下。
 技術と知恵でおとなしくなった川と云っても一カ所でも切れれば他人事では済まない。
祈るだけで願いが叶うなんてことはない。
 技術と知恵で対策は施しているものの、時に自然がみせる荒々しい姿を目の当たりにすると神頼みしたくなるものがある。

神明社
創建 / 不明
祭神 / 天照皇大神、不明
境内社 / ---
所在地 / 名古屋市西区枇杷島4-20-22
参拝日 / 2022/06/03
公共交通機関アクセス / 地下鉄​鶴舞線「浄心」降車西に徒歩25分前後