名古屋市西区幅下『 隅田神社』

五条橋の袂に佇む屋根神様から江川線沿いに少々北上し西区幅下方面へ。

途中慶栄寺北側を歩いていると、12月に入ったと云うのに淡いピンクの桜が咲き誇っていた。
 彩りが寂しくなっていくこの時期、この色合いは妙に嬉しくなる。

県道200号線を渡り那古野から幅下へ、右手の大通りは江川線。
 高速の高架が架けられて以降、以前目にしていた周囲の光景と今の光景の違いに馴染んでいない。
横を走る江川線は、名の通り嘗て庄内川から導いた庄内用水を分流した江川が流れていたことから来ている。
 この辺りは菓子問屋の店舗が連なり、昭和の頃には相当賑わいを見せ「新道・明道町の菓子問屋」とも云われていたそうです。
今は往事の賑わいこそないものの、そうした店舗が残り、菓子問屋街の名残を感じさせます。
 写真は神社社頭(左側)方向の眺め。

現在の江川はほゞ川の面影はなく、名からその存在を知るのみです。
 名古屋城下は清須越で開けていきますが、当時は堀川沿いの四間道を境に西が幅下で東を幅上と分けられ、当時の幅下の西端は江川まで、それより西は湿潤な土地を利用した水田が広がっていた。
上は1898年(明治31)頃の幅下界隈、右がほゞ現在の幅下。
 当時ですら、西に稲田の広がる端っこの名残を感じさせます、江川はそうした田畑を潤す役割もあったはずです。

隅田神社(須佐之男 伽具土神社)は江川線沿いの菓子卸市場と包装用品の店舗に挟まれ、僅かな間口の奥に鎮座します。

 この僅かな間口と建物と同化した鳥居の存在は歩道を歩いていても見落としてしまいそうだ。

鳥居左の由緒書き。

 「隅田神社
祭神
 須佐之男大神、伽具土大神。
摂社は隅田開運稲荷神社、柳龍神社。
 創祀は元禄初年(1688)とされ、大祭は10月1~2日。
創祀当時、この地域は江川(現在の江川線)の東に沿った農村でした。
 元禄の初め熱病の流行と村内で起きた火事をきっかけに、熱病防止と安全祈願のために祭神二柱を祀る。
文政8年(1825)、畑地が開かれ町屋が形成されますが、低湿地で、大雨の時に池のようになる場所だった。
 そうした環境もあり人家は西北の隅に追いやられました、隅田の由来はそこから来ているとされる。
戦後、新道の菓子問屋街はこの辺りまで拡大し、昭和40年代までは特に賑わった。
駄菓子を入れた缶を積み重ね、大風呂敷で包んで背負って運ぶ「カンカン部隊」は有名だった。
 一つの神社を一町内の氏子だけでお祀りしている事、菓子問屋街の中の神社という点が特徴。」

社頭から石畳の参道の眺め、正面には東側の道路が見通せる。
 社殿は参道左側にあるようです。

参道から鳥居を見上げるればすぐ上を高架が横切り、左右は建物に挟まれ見上げる空がとても小さい。

参道右側の常夜塔。
 珍しい形をしており、火袋は三つ巴の紋が入れられ、一見すると太鼓のようにも見える。
笠にあたる部分はなく、宝珠にあたる部分に鶏が乗る。
 名古屋ではあまり見かけない諫鼓(かんこ)型と呼ばれる石灯籠。

諫鼓とは昔の中国で、君主に対して物申す時に民衆が打つために設けられた太鼓を指し、鶏は鶏の鳴き声によって君主に善政を促し、人々を警醒する想像上の鶏だとか。
 「諫鼓鶏」は、善政を願い諫鼓を鳴らす必要がない世の中で、太鼓の上に止まる鶏も逃げない善政に満ちた世であれ。
というような意味が込められているそうですよ、とてもタイムリーなことがこの灯篭に込められている。
岸田さん、太鼓の音は聞こえないかい?

参道を進むと右側に阿形のみの小型の狛犬がいる。
 左側が社殿のようで覆屋の下に社の姿が見られます。

参道右で独り境内を守護する小さな狛犬
 赤い首輪を付けてもらい可愛い姿をしている、良く見れば右側が欠落し痛々しい姿だ。

この狛犬の向かいが覆い屋。
 奥行きがなく全景も撮れないほど限られたスペースに、巧みに三社を覆う覆屋が立てられています。

その社の前を守護する一対の狛犬(1934)

覆屋の下に祀られている三社。
 中央の社が須佐之男大神、伽具土大神の二社相殿、左右に棟持柱が見えるので神明造か、
右は狛狐の姿がある事から隅田開運稲荷神社と思われます。
 そして左の社が柳龍神社と思われます。
三社ともに檜皮葺屋根で、隅田開運稲荷神社と柳龍神社は流造。

 社頭の解説にあったように流行病と火災をきっかけに、元禄初年(1688)に須佐之男大神、伽具土大神をお祀りした。
家屋が連なり、湿潤な土地柄から生まれたであろう禍を、二度と経験したくない気持ちから生まれた神社なんだろう。
 そして江川を前にして水を鎮める意味合いから柳龍神社が、商いや農業を生業とする人々が稲荷神を祀っていったのだろう、これら三社が同時期に祀られたものなのかは定かではない。

参道を通り抜け東の通りから眺める隅田神社。
 鳥居こそないが、左の社標には「須佐之男神社、伽具土神社」とある。
玉垣と二本の御神木が聳え、こちらから眺めれば神社としての佇まいが感じられる。

 幅下学区(西区)の紹介の中に、幅下町が菓子問屋街として賑わった当時の事が紹介されていた。
一部抜粋。
 「藩政以前のこの辺りは、名古屋城と碁盤割商人街が那古野台地に築かれ、堀川沿いの四間道より東が幅上、西が幅下とされた。西側でも士分以上の侍屋敷町と製造業や卸問屋業等の、美濃路沿いの米蔵のある旧名古屋村の辺りを「幅下」と呼んだのが学区名の由来と伝えられている。
江川線を挟んで東西に一歩入ると菓子問屋の街になる。
 この地域の菓子は俗に駄菓子といわれる煎餅や飴等が中心で、元禄7年(1694)に新道が開通した年の暮れに初代笠屋与八(現・古橋製菓(株))が門前町の供物菓子からはじめた。
文政の頃(1818年から1830年)から盛況を見せ始め、本格的になったのは内外に販路を拡張した関東大震災の頃である。
 この界隈は昭和46年(1971年)まで路面電車が縦横に走り、「新道・明道町の菓子問屋」といわれて多くの住民が菓子類の製造・販売に携わった。
通りには店舗が連なって朝早くから「カンカン部隊」等の利用客で賑わう日本有数の菓子問屋街だった。
 現在は社会の変化と人々の嗜好の変化により、店舗数もかなり減少したが、この街の菓子問屋はこれからもたくましく存続していくことを町の人は願っている。」

嘗ての活気のある問屋街を取り戻す事は、通りを見つめる狛犬も願っているに違いない。

隅田神社(須佐之男 伽具土神社)
 創建 / 元禄初年(1688)
祭神 / 須佐之男大神、伽具土大神
 境内社 / 隅田開運稲荷神社、柳龍神
所在地 / 名古屋市西区幅下2-19
 参拝日 / 2022/12/08
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 多賀宮から徒歩 / ​五条橋の屋根神様から北へ徒歩10分程

『教王護国寺(東寺) §2 』(京都市南区九条町)

東寺§1からの引き続きとなる今回は広い境内を持つ東寺の西側を巡っていきます。

東寺西側には南から塔頭の潅頂院や小子房、弘法大師空海真言密教の根本道場東寺を形作り高野山を求め旅立つまで過ごしたとされる御影堂が鎮座しています。
 上が今回訪れるところで、一般公開されていない潅頂院や小子房以外は拝観が可能でした。
潅頂院東門から壁沿いに北上していきました。

上は小子房の勅使門。
 この先にある小子房は天皇を迎える特別な建物で、現在の建物は、弘法大師空海の1,100年の年忌に合わせ昭和9年(1934)に再建されたもの。
混沌とした南北朝時代建武3年(1336)、北朝足利尊氏(源尊氏)が光厳上皇を奉じ都に入った際、戦が治まる間の半年間を上皇が小子房を御所とし、尊氏は食堂に居住したと云う。

勅使門は檜皮葺の唐門で、皇族方が利用する時のみ開く門らしく、門の扉には大きな菊花紋の透かし彫りが施され、その周りの菱格子の内側にも細かな透彫りが施されており、意匠はそれにとどまらず扉の柱にもおよびます。
 昭和に入ってからのものですが、この細密な仕事は目を見張るものがあります。

更に北へ進むと本坊の二つの門。

本坊の北側の四脚門が毘沙門堂入口の門。
 左の入母屋の屋根が毘沙門堂で御影堂と共に入場は無料。
ここから更に北の門に進みます。

東寺の境内の西にあって最も北の門が大師堂(御影(みえ)堂)への入口になります。

東寺を形作った弘法大師空海は自らの余命を悟り、約10年過ごした平安京を後に、帰国前に唐から投げた三鈷杵に導かれる様に高野山に旅立っていきます。
 ここは空海がそのあいだ身を置いた場所。

大日堂。
 門をくぐった右側に建ち、東寺のなかでは一番新しいお堂。
もとは、江戸時代の頃、御影堂の礼拝所として建てられたようです。
その後、桓武天皇嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂となり、大日如来を本尊としたことから大日堂となったと云い、現在は先祖供養などの回向所となっています。
現在の建物は平成12年(2000)に大改修が行われている。

大師堂(御影堂・不動堂)を前堂から望む。
 空海は、ここを拠点にして講堂の立体曼荼羅を構想し、東寺の造営工事の指揮をとったとされ、空海住房だった事からこの名が来ているとされます。
一棟の入母屋檜皮葺の建物に見えますが、後堂と前堂、その間に中門で形作られています。
 南北朝時代の康暦元年(1379)に火災で後堂を焼失し、天授6年(1380)に後堂を再建、元中7年(1390)に前堂・中門が増築されこの姿になったとされます。

司馬遼太郎は、暮れから正月にかけて京都で過ごすのが習慣だったそうです。
 彼を訪ねた人と待ち合わせる場所はこの御影堂がお気に入りだったようです。

寺紋は東寺雲。
 前堂内には天福元年(1233)に仏師康勝法眼斎戒沐浴して、一刀三礼し「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えつつ彫刻した大師像と南側の不動堂には大師の念持仏の秘仏不動明王が安置され、毎月21日(弘法大師命日)は多くの参拝者で賑わう。
全国津々浦々の弘法堂でも、縁日が催され、弘法大師を慕う参拝者が訪れ、空海は今も庶民から広く崇敬されている。

前堂の鬼や妻飾りには輪宝紋が輝いている。

 鐘楼
大師堂前堂西の鐘楼。
 「梵鐘」は室町時代(1348)に足利尊氏が寄進したもの。

毎朝開門の時を告げていたが、傷みが酷くなり、オリジナルは宝物館で収蔵し、現在はレプリカが吊られています。
 梵鐘の間には蓮の花の上に仏や金剛界胎蔵界を表す梵字が刻まれているが、凡人には読み取れない。
梵鐘の下は、空海高野山に導いたと云われる三鈷杵が全周に施されています。
 
梵鐘のオリジナルを収蔵する宝物館は、年二回公開されており、食堂の火災で被災し、修復を受けて蘇った千手観音菩薩や兜跋毘沙門天など収蔵され、訪れた11/24は秋期特別公開(9/20~11/25)期間中だった事を後になって知りました。
 立体曼荼羅に塔の初層拝観に喜んでいたが…また「おこしやす」という事です。

大黒堂
 前堂の西側にある中門をくぐった右にあり、向かって右側には不動明王が祀られ、安産祈願に御利益があるとされます。
左には三面大黒天が祀られています。

厨子の中に安置されている三面大黒天は、弘法大師の作と伝わり、台地の神「大黒天」、四天王の北方の神「毘沙門天」、インドでは河の神とされる「弁財天」の三体が合体したものが三面大黒天で、3神のご利益を一度に授かることができるとされます。
 堂に手向けられる生花は三面大国お花講という講により、月々300円でその運営に充てられているようです。

大黒堂左の入母屋瓦葺の建物、詳細は分からなかった。
 左側の小さな看板は犬の散歩、捨犬を禁じる案内板だった。

諏訪大社では「犬の小便の結果・・・」の案内板を見かけた、目の前には通行禁止となった鉄製の橋が架かっていた、犬の小便は物を破壊する威力がある。
 コロナでペット需要が盛り上がったようですが、癒しを求めあらゆる生きものが売買されてきました。
犬なら訓練も必要、損害保険や医療費など金はかかるし、行動も制限され、時に悪さもする、やがては気持ちも冷める。
 別れの時まで看取れる責任が持てなければ、生きものをアクセサリーの様に飼ってはいけない。
やがては空にインコが飛び交い、水面に鰐が泳ぎ、在来種が消えていく事になる。
 桂川で起きている事は人がもたらした結果です。どんな生きものでも最後まで看取ってほしい。
また話が脱線した、もとに戻ろう。

上は御影堂の前堂と呼ばれ、入母屋檜皮葺で周囲の縁には高欄が施された落ち着いた佇まいの建物です。
 空海の念持仏だった不動明王はこちらに安置されているという。
この中では不動明王の御宝前で護摩を焚く法要が執り行われ、燃え盛る炎は、恰も不動明王の光背のようでもあるという。
 秘仏不動明王は法要を行う僧侶ですら目の当たりに拝んだことはないそうです。

御影堂後堂の正面。
 生前の空海は毎朝6時、一の膳、二の膳とお茶の食事を召し上がったとされ、いまも生見供として受け継がれている。
 これは高野山でも同様で、御廟で待つ空海に1日2回、食事を届ける儀式が行われています。
東寺の御詠歌には「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」とあるという。

高野山遥拝所。
 空海が築いた高野山、今なら車で数時間で訪れられるが、自らの足で行くしかなかったころは片道でも3日は要しただろう、遠く離れた聖地。
その奥の院にある廟を京から遥拝できるのがこの場所。

遥拝所解説。
 31歳で唐に渡り、恵果の教えの全てと曼荼羅はじめ多くの資料を持ち帰り、東寺や高野山を開き、広く教えを説いた空海は62歳で世を去りますが、各地を修行で訪れた事から空海に纏わる逸話は各地に残ります。
 空海が生まれた四国の四国遍路や各地の遍路は空海の生きざまを辿るものなんだろう。

天降石。
 遥拝所左の石の瑞垣で囲われた一画の中にある石。
この石を撫で、その手で身体の患部を撫でると完治すると云う。
 古くからこの地にあった石だと伝わり、江戸時代には護法石、五宝石、不動石などと呼ばれていたらしい。
現在では天降石や撫石と呼ばれ、今も御利益を求め訪れる方は多いと云う。
 因みに、物忘れが多くなった頭を撫でていた自分、その後に続いた海外からの観光客も同じように頭を撫でていたのには少し苦笑い。変な手本をみせてしまったか。

毘沙門堂
御影堂の南側にある入母屋銅板葺の建物で、空海が唐から持ち帰った兜跋毘沙門天像は、羅城門に安置されていたが天元元年(978)羅城門は倒壊し、長らく東寺の食堂に祀られていたものを新たに安置する目的で、文政5年(1882)に建てられたものが毘沙門堂だとされます。
 現在の姿は平成6年(1994)に補修を受けたもの。
妻側の正面には三つの額が掲げられており、中央に兜跋毘沙門天王の額が掛けられており、右が愛染明王、一番左に不動明王の額が掛かる。
 堂内は中央に兜跋毘沙門天像のレプリカと不動明王愛染明王像が祀られている。
オリジナルは宝物館に収蔵されており、日本最古の七福神巡りといわれる「都七福神」の毘沙門天になっていると云う。

毘沙門天は北方の守護神、仏教を守護する神で、毘沙門天を崇敬すれば十種の福が得られ、学業成就や安産の御利益が得られることから、あの菅原道真小野道風も崇敬したと云われています。
 空海が生涯をかけて築き上げた真言密教の教え、真言宗の開祖に留まらず、満濃池の修築工事や綜芸種智院の設立など常に庶民に目を向けた功績を残してきた。
 どこぞのポンコツ首相や居眠りばかりして、覚めれば私利私欲しか考えない国民の代表?に少しは見習えといいたい。

東寺の北側の北大門をくぐり、北大門の先の蓮池に架かる石橋。
 親柱には延宝3年(1675)と刻まれている、いまだに現役の橋。
石橋を渡り観智院方向へ、その先から真っすぐ北に延びる石畳は櫛笥小路、平安時代当時の姿を留める唯一の小路で、この前方に北総門が望めます。

北大門、北総門ともに鎌倉時代に建てられたもの、北大門は人の映り込みが多く掲載できず、北総門はバスの時間から見送りました。
 時間に余裕があれば見ておきたいところです。

静かだった境内も10時を過ぎるとツアー客も増え、写真は撮り辛くなる。

蓮池でくつろぐ彼らだけは気の済むまで撮らせてくれる。逃げもしない。
 この亀は何処の子だったのかなぁ?、うちの近所にいる噛み付き亀よりは可愛げがあっていい。

橋の右手に小さな堂、開運大元帥明王堂。
 明王の中でも風貌が一番恐ろしい姿をし、全身に蛇が纏わりつき、複数の手には武器を持ち、表情は怒りまくっている姿しかイメージできないけれど、ご利益は必勝祈願、国土防衛、疫病退散と個人よりは国家の安泰を司る明王様の様です。

その北側に建つ建物が観智院。

観智院門前の全景。
 鎌倉時代、延文4年(1359)頃に真言宗勧学院として杲宝により創建されたもの。
東寺に十五あった別院の中でも厚遇された存在で、江戸時代の徳川家康からも、東寺のみならず真言宗すべての勧学院とする黒印状が送られたと云う。
 本尊は杲宝の弟子、賢宝により五大虚空蔵菩薩を安置したと云う。
学業成就の御神徳があるようで、お守りを求め訪れる方は多かった。
 拝観料300円で拝観できますが、写真は庭園のみに限られており、武蔵の画いた襖絵などは当然NG。

拝観はしませんでしたが、門の先に祀られていた静観堂をお参りして東寺を後にすることにしました。

慶賀門から東寺を後にして大宮通りのバス停に向かう。
 普通に立っているこの門も鎌倉時代初期に再建されたもの。

大宮通りから南の眺め、塔手前に見えている門は東大門。
 不開門と呼ばれ、南北朝時代足利尊氏が東寺に陣を置き、新田義貞と戦火を交え、戦場は都から東寺の近くに及び、足利軍は東大門の扉を閉ざし危機を脱したとされます。
それ以降、東大門は不開門と呼ばれ、門には当時の戦乱の傷痕が残っているそうです。
 普段の生活の中に歴史が普通に存在しているのが京都です、そこを訪れるなら早朝に限る。
東寺のライトアップではこの通りを越え、南大門まで拝観の列が出来たようです。
 これから紅葉の東福寺に向かいましたが、写真はなかなか撮れなかった。

教王護国寺(東寺)
創建 / 延暦15年(796)
開基 / 桓武天皇
宗派 / 真言宗(総本山)
山号 / 八幡山
院号 / 祕密傳法院
本尊 / 薬師如来
所在地 / ​京都市南区九条町1番地
参拝日 / 2022/11/24
関連記事 /  『教王護国寺(東寺) §1 』(京都市南区九条町)​
伏見稲荷御旅所から東寺慶賀門 / ​東寺通りを西に徒歩5分程

『牛田 八幡社』愛知県知立市

御鍬神社から旧東海道を西に越え、車で2~3分程の知立市牛田町。
住宅の立ち並ぶ一画に豊かな杜の中に鎮座する神社が牛田八幡社。

神社周辺には参拝者駐車場は見当たらず、正参道脇の僅かな余地があり、そこに駐車させて頂いた。

牛田八幡社正参道全景。
南を向いて鳥居を構えているが、社標や常夜灯の姿は見受けられなかった。
以前の参道はもう少し南まで伸びていたのかもしれない。

鳥居をくぐり、僅かばかりの石段を上れば広い境内が広がり、その先に瓦葺の拝殿が望める。

拝殿は入母屋瓦葺でその手前に一対の狛犬が守護している。
 拝殿の右側に覆殿がある、参拝当日は社殿の補修工事の最中だった。

濃い杜に周囲を囲まれている境内ですが、陽射しが差し込み明るい印象を受けました。
境内の右に祀られているのが清霊社。
名が示す様に、当地から故郷のために命を捧げた方々の英霊をお祀りする社。

境内左の手水舎。
境内は西側にも脇参道があり、そこには鳥居(大正3年寄進だった気がします)と社号標が立っています。

拝殿西側からの眺め。
 入母屋瓦葺で、鈴や賽銭箱は見当たらなかったがこちらで参拝させて頂きました。
拝殿後方で本殿域を囲う壁と一体となり、左手の扉が開け放たれており、拝殿の先にある幣殿まで立ち入ることが出来ました。
以前掲載した御鍬神社もそうでしたが、幣殿からの参拝が許されているようです。
となると、拝殿としたこの建物は神楽殿なのかもしれない、そんな気がしてならない。

拝殿前を守護する狛犬大正11年(1922)に寄進されたもの。
この当時であれば大陸で生まれたものではないだろう。

拝殿右手から本殿域に入る。
ここにも塀があり、本殿を囲むように写真の幣殿に繋がっています。
社殿域を俯瞰して見ると恐らく「日」の形をしているはず。

橘の紋が神紋のようで瓦の至る所に刻まれています。

 社殿そのものには人目を引き付ける派手な飾り金具は見当たらないが、目貫などに施された虎や龍の彫刻には拘りを感じる。

橘紋。

幣殿内の額は「村社 八幡社」とある、本殿域は広々とした印象を受け、摂社などは見受けられなかった。
本殿の造りはよく分からなかったが、二本の柱が見える事から流造かと思われます。
鈴紐こそ下ろされてはいなかったが、幣殿には賽銭箱もあり改めて参拝。

牛田 八幡社社記によると以下のように記されています。
御祭神 / 誉田別尊
祭礼日 / 新年祭・1月、祈年祭・3月、例大祭・10月、新嘗祭・12月、月次祭・毎月
境内社 / 祇園社、社口社、稲荷社、稲荷社、山ノ神社、山ノ神社、山ノ神社、清霊社
由緒 / 鎌倉時代の建久年間(1190~1199)源頼朝目代(代官)は、鎌倉街道の南を流れる猿波川左岸の湯山に城を築き、源氏の守護神鶴岡八幡宮をこの地に勧請したのが始まり。

創建時期は明確にはなりませんが、かなりの古社なのは間違いないようです。

本殿域左の境内から眺める本殿。
流造ではなく、入母屋瓦葺の平入本殿の様で、幣殿から見えていた柱は、長く突き出た向拝を支える向拝柱が見えていたようです。

境内西側の参道と参道脇の社記。
鎌倉街道東海道の二つの交通の要衝を間近に控え、往古からこの町の移り変わりを見続けて来たのが牛田八幡社のようだ。
 拝殿右側の相殿に七社が祀られているようです。

7社相殿。
内部左から山ノ神社、稲荷社(左上)、社口社、山ノ神社(右上)、祇園社、山ノ神社(左下)、稲荷社(右下)。
稲荷社の一社を除いた6社は、何れも周辺の集落や寺で祀られていたものを遷座したもの。
田畑が広がる地域ですが、市街化に伴いこちらに纏められた、牛田八幡社はこの辺り一帯の氏神です。

牛田 八幡社
創建 / 不明
祭神 / 誉田別尊
所在地 / 知立市牛田町宮本14
参拝日 /2022/11/12
不乗森神社👉御鍬神社👉牛田八幡社車移動 / ​​御鍬神社から西へ2~3分​​​​
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今は面影のない江川沿いに佇む「隅田神社」

五条橋の袂に佇む屋根神様から江川線沿いに少々北上し西区幅下方面へ。

途中慶栄寺北側を歩いていると、12月に入ったと云うのに淡いピンクの桜が咲き誇っていた。
 彩りが寂しくなっていくこの時期、この色合いは妙に嬉しくなる。

県道200号線を渡り那古野から幅下へ、右手の大通りは江川線。
 高速の高架が架けられて以降、以前目にしていた周囲の光景と今の光景の違いに馴染んでいない。
横を走る江川線は、名の通り嘗て庄内川から導いた庄内用水を分流した江川が流れていたことから来ている。
 この辺りは菓子問屋の店舗が連なり、昭和の頃には相当賑わいを見せ「新道・明道町の菓子問屋」とも云われていたそうです。
今は往事の賑わいこそないものの、そうした店舗が残り、菓子問屋街の名残を感じさせます。
 写真は神社社頭(左側)方向の眺め。

現在の江川はほゞ川の面影はなく、名からその存在を知るのみです。
 名古屋城下は清須越で開けていきますが、当時は堀川沿いの四間道を境に西が幅下で東を幅上と分けられ、当時の幅下の西端は江川まで、それより西は湿潤な土地を利用した水田が広がっていた。
上は1898年(明治31)頃の幅下界隈、右がほゞ現在の幅下。
 当時ですら、西に稲田の広がる端っこの名残を感じさせます、江川はそうした田畑を潤す役割もあったはずです。

隅田神社(須佐之男 伽具土神社)は江川線沿いの菓子卸市場と包装用品の店舗に挟まれ、僅かな間口の奥に鎮座します。

 この僅かな間口と建物と同化した鳥居の存在は歩道を歩いていても見落としてしまいそうだ。

鳥居左の由緒書き。
 「隅田神社
祭神
 須佐之男大神、伽具土大神。
摂社は隅田開運稲荷神社、柳龍神社。
 創祀は元禄初年(1688)とされ、大祭は10月1~2日。
創祀当時、この地域は江川(現在の江川線)の東に沿った農村でした。
 元禄の初め熱病の流行と村内で起きた火事をきっかけに、熱病防止と安全祈願のために祭神二柱を祀る。
文政8年(1825)、畑地が開かれ町屋が形成されますが、低湿地で、大雨の時に池のようになる場所だった。
 そうした環境もあり人家は西北の隅に追いやられました、隅田の由来はそこから来ているとされる。
戦後、新道の菓子問屋街はこの辺りまで拡大し、昭和40年代までは特に賑わった。
駄菓子を入れた缶を積み重ね、大風呂敷で包んで背負って運ぶ「カンカン部隊」は有名だった。
 一つの神社を一町内の氏子だけでお祀りしている事、菓子問屋街の中の神社という点が特徴。」

社頭から石畳の参道の眺め、正面には東側の道路が見通せる。
 社殿は参道左側にあるようです。

参道から鳥居を見上げるればすぐ上を高架が横切り、左右は建物に挟まれ見上げる空がとても小さい。

参道右側の常夜塔。
 珍しい形をしており、火袋は三つ巴の紋が入れられ、一見すると太鼓のようにも見える。
笠にあたる部分はなく、宝珠にあたる部分に鶏が乗る。
 名古屋ではあまり見かけない諫鼓(かんこ)型と呼ばれる石灯籠。

諫鼓とは昔の中国で、君主に対して物申す時に民衆が打つために設けられた太鼓を指し、鶏は鶏の鳴き声によって君主に善政を促し、人々を警醒する想像上の鶏だとか。
 「諫鼓鶏」は、善政を願い諫鼓を鳴らす必要がない世の中で、太鼓の上に止まる鶏も逃げない善政に満ちた世であれ。
というような意味が込められているそうですよ、とてもタイムリーなことがこの灯篭に込められている。
岸田さん、太鼓の音は聞こえないかい?

参道を進むと右側に阿形のみの小型の狛犬がいる。
 左側が社殿のようで覆屋の下に社の姿が見られます。

参道右で独り境内を守護する小さな狛犬
 赤い首輪を付けてもらい可愛い姿をしている、良く見れば右側が欠落し痛々しい姿だ。

この狛犬の向かいが覆い屋。
 奥行きがなく全景も撮れないほど限られたスペースに、巧みに三社を覆う覆屋が立てられています。

その社の前を守護する一対の狛犬(1934)

覆屋の下に祀られている三社。
 中央の社が須佐之男大神、伽具土大神の二社相殿、左右に棟持柱が見えるので神明造か。
右は狛狐の姿がある事から隅田開運稲荷神社と思われます。
 そして左の社が柳龍神社と思われます。
三社ともに檜皮葺屋根で、隅田開運稲荷神社と柳龍神社は流造。

 社頭の解説にあったように流行病と火災をきっかけに、元禄初年(1688)に須佐之男大神、伽具土大神をお祀りした。
家屋が連なり、湿潤な土地柄から生まれたであろう禍を、二度と経験したくない気持ちから生まれた神社なんだろう。
 そして江川を前にして水を鎮める意味合いから柳龍神社が、商いや農業を生業とする人々が稲荷神を祀っていったのだろう、これら三社が同時期に祀られたものなのかは定かではない。

参道を通り抜け東の通りから眺める隅田神社。
 鳥居こそないが、左の社標には「須佐之男神社、伽具土神社」とある。
玉垣と二本の御神木が聳え、こちらから眺めれば神社としての佇まいが感じられる。

 幅下学区(西区)の紹介の中に、幅下町が菓子問屋街として賑わった当時の事が紹介されていた。
一部抜粋。
 「藩政以前のこの辺りは、名古屋城と碁盤割商人街が那古野台地に築かれ、堀川沿いの四間道より東が幅上、西が幅下とされた。西側でも士分以上の侍屋敷町と製造業や卸問屋業等の、美濃路沿いの米蔵のある旧名古屋村の辺りを「幅下」と呼んだのが学区名の由来と伝えられている。
江川線を挟んで東西に一歩入ると菓子問屋の街になる。
 この地域の菓子は俗に駄菓子といわれる煎餅や飴等が中心で、元禄7年(1694)に新道が開通した年の暮れに初代笠屋与八(現・古橋製菓(株))が門前町の供物菓子からはじめた。
文政の頃(1818年から1830年)から盛況を見せ始め、本格的になったのは内外に販路を拡張した関東大震災の頃である。
 この界隈は昭和46年(1971年)まで路面電車が縦横に走り、「新道・明道町の菓子問屋」といわれて多くの住民が菓子類の製造・販売に携わった。
通りには店舗が連なって朝早くから「カンカン部隊」等の利用客で賑わう日本有数の菓子問屋街だった。
 現在は社会の変化と人々の嗜好の変化により、店舗数もかなり減少したが、この街の菓子問屋はこれからもたくましく存続していくことを町の人は願っている。」

嘗ての活気のある問屋街を取り戻す事は、通りを見つめる狛犬も願っているに違いない。

隅田神社(須佐之男 伽具土神社)
 創建 / 元禄初年(1688)
祭神 / 須佐之男大神、伽具土大神
 境内社 / 隅田開運稲荷神社、柳龍神
所在地 / 名古屋市西区幅下2-19
 参拝日 / 2022/12/08
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 多賀宮から徒歩 / ​五条橋の屋根神様から北へ徒歩10分程

別府湾を見下ろす高台に鎮座  「八幡竈門神社」

八幡竈門神社。
 血の池地獄から山間に鎮座する八幡竈門神社までは車で北に10分程の移動時間。
別府湾を眼下に見下ろす高台に鎮座し、鳥居から眺める朝陽が美しい事で知られる。

駐車場の直ぐ脇に立つ石の明神鳥居は北参道の鳥居。
 社殿は亀山の東斜面の頂に鎮座しており、正参道は麓の県道218号線沿いの石段を上ると一ノ鳥居があり拝殿に続きます。
麓には駐車場は見当たらず、この駐車場を利用すれば拝殿前に容易に辿り着けます。

額には八幡竈門神社と刻まれている。

 某アニメの主人公の名と神社名が同じで、境内には鬼が作った99段の階段や鬼の石草履など鬼と所縁もある事から、アニメファンが訪れるという。

鳥居右の手水舎、後方の建物は多賀神社。
 鳥居をくぐると左に社務所、正面に神楽殿、右側に一段上がって社殿が鎮座します。

拝殿右の多賀神社。
 滋賀県の多賀神社を本社としますが、いつ頃この地に勧請されたものか詳細は不明。
拝殿内には古めかしい神輿が安置されていた。
 祭神 伊邪那岐命伊邪那美命

御神徳 虫鎮、延命長寿の守護神

社殿全景。
入母屋瓦葺の平入で前後に千鳥破風、唐破風が付くもので、創建1270年祭に合わせ改築されたようです。
 創建が神亀4年(727)とされるので平成に入ってからですか、社務所、拝殿、本殿に傷みが少ないのもそうした事もあるのか。
拝殿に続く石段の脇に一対の狛犬と拝殿右に亀の姿が見られる。

昭和3年(1928)に寄進された狛犬
 筋骨隆々とした体つきで小さな角を持ち、大きな口を開けた愛嬌のある顔つき。

八幡竈門神社由緒。
仁徳天皇(在位312~399年)御宇のとき曰く、日本武尊および神功皇后(200年頃説)が西征のとき豊後州速見郡竈門荘亀山に行宮(天皇行幸の仮宮)を造る。
 このとき国常立尊天照大御神を始め三十三神を奉斎する。
次に聖武天皇(在位724~749年)の御宇、神亀四年(727年)三月十五日豊前国宇佐より仲哀天皇応神天皇の神霊が竈門荘宝城峯に降臨する。
 山麓において大神諸男と大神豊永(竈門宮宮司)が相議し、御越山に遷座奉る。
既にして亀山の桜樹の枝上に現れる。
 再び竈門宮に奉斎する(例大祭桜会祭の紀元)。
併せて三十五神となる。既に竈門宮と称す。
 次いで淳和天皇(在位823~833年)の御宇、天長三年(826年)宇佐より神功皇后の神霊を迎え、併せて三十六神となる。このときより八幡竈門宮と称する。八幡竈門宮伝記より
大祭 4月1日御神幸、4月3日御還幸、例祭4月15日
 多賀神社
祭神 伊邪那岐命伊邪那美命
 虫鎮、延命長寿の守護神」

拝殿正面から眺め。
 拝殿天井には龍の天井絵が描かれており、龍はアニメでも登場するらしい。

拝殿額「八幡竈門神社」
 アニメの影響力は絶大で、それ以前は訪れなかった年代層が巡礼に訪れるようになったという。

拝所から幣殿方向の眺め。
 神紋は左三つ巴のようです。
竈門の謂れを調べて見たが竈門荘から来ているのか、すぐ近くのかまど地獄から来ているものか、分からなかったが、アニメの主人公の苗字から来ているものではないよネ。

拝殿天井絵。
 宝珠を握りしめた白龍が天井から睨みを利かせている。

本殿は銅板葺の三間社流造。
 千木は内削ぎで三面に高欄が付き脇障子に繋がる、外観の装飾は控えめなもの。

拝殿左の魂依の木。
 幹に大きな空洞がある樹齢約500年とされるイチイガシ。
別府市の保護樹に指定されています。
 ここから更に左奥に進むと境内社が並んで祀られています。

熊野社。
 切妻瓦葺で比較的新しい社殿、三重県熊野大社から勧請し熊野権現をお祀りするのだろう、詳細について語られていない。

熊野社左に鎮座する亀山稲荷大明神
 こちらも創建等の詳細は不明。

稲荷社左の石碑、この左に鬼の石草履と呼ばれる三本指の足跡に似た岩があり、足を入れるとパワーが湧き出るのだとか。

鬼の足指が三本なのは貪欲、嫉妬、愚痴を現しており、知性と慈悲が欠けているからだとされます。
 ここにも鬼の存在がある。

楽殿
 別府湾を見通せる境内の東に建ち、三方が吹き抜けのもの。
ここでは大晦日から元旦にかけ、今年一年の無事や家内安全などを祈願し竈門神楽が奉納されるそうで、演目の中には、八岐大蛇を神様が退治し、お姫様を助けるという演目「大蛇退治」が奉納されるという。
 刻々と明け行く東の空を眺めれば、別府湾から上る美しい初日の出が拝めると云う。

拝殿全景。
 普段の境内は静かさに包まれていますが、大みそかには神楽と初詣、そして初日の出を目当てに参拝客で賑わうのだろう。

拝殿から別府湾の眺め。
 二つの鳥居が立っており、春分の日(3月21日)と秋分の日(9月23日)には、二つの鳥居の真正面から昇る朝陽が拝めるそうです。
鳥居の左右に安置された赤茶けた丸いものは機雷。
 水中に敷設され、行き交う艦艇がこれに触れると爆発するもので第一次世界大戦(1914~1918)の戦勝を祈願し、旧海軍の有志により昭和3年(1928)一対奉納されたものだとか。

鳥居から一段降りた参道の左右に立てられている石灯籠。
 享保19年(1734)当時の代官岡田庄太夫が寄進したもので、創建が神亀四年(727)と長い歴史を誇る八幡竈門神社の境内寄進物では最古のものだという。

手水舎、手水鉢(上)と左の「鬼が造った99の石段」解説(右)。
 解説は以下
「昔、亀川の竈門に悪鬼が住んでいた。
 毎夜現れては人々を食い殺し郷を荒らしまわっていた。
里人は八幡様に鬼の退治を祈願した。
 八幡様は鬼に、一晩の内に100の石段を造ったら毎年人間を生贄に与えよう、しかし出来なければ今後里に出てきてはならないと約束をしたという。
鬼は承知してあちらこちらの谷や川から石を運び石段を造り始めた。
 99段造った時、神様が「まだできぬか」と鬼に声をかけ、鬼はその言葉に一息つき「あと一段」と云った時に一番鶏が鳴き夜が明けてしまった。
鬼は驚き逃げていき、二度と里に現れる事はなかった。
 石段を見ると下の方は丁寧に作っていますが、上の方に行くにつれて大雑把に造られている」

これもアニメのストーリーそのもの、暗闇が少しずつ明けはじめ、焦る鬼の心理が結果に表れている。
 八幡様はそれを見越して声掛けをして手を休ませたのだろう。
折角あと一段まで造り、日の出を迎え、朝陽から逃げる時に鬼が残していったのが「鬼の石草履」ということだ。
 ・・・似たような話は西寒多神社の「鬼の歯形石」でも聞いたような。
あれは「一晩で橋を架ければ食べられよう」と云う約束で、最後は橋が完成する直前で鶏の鳴き真似を信じ込んで鬼が逃げ去った話だった。
 鬼は頑張っても報われないのだ。

鬼が造った石の参道、麓の鳥居から数えるとこの鳥居(1929寄進)はニノ鳥居になるのだろうか。

ここから下を眺めれば、鬼が必至で造った99段の石段が麓に続いています。
 一年に二回、この延長線上から昇る朝陽はさぞかし絶景だろう。
下は八幡竈門神社HPで掲載されていた映像をお借りさせてもらいました。

こんな綺麗な光景が見られるのであれば、この目に収めるためもう一度訪れるしかない。

 運よく春分の日秋分の日に別府に滞在の際は八幡竈門神社の日の出は外せない場所です。
とはいえ、これも天気次第。
こんな綺麗な朝陽が差し込んでも鬼は愛でる事できない。

急いで造ったとされる終盤の石段。
 それでも綺麗に造られている気もするが。

社名と云い、鬼に纏わる伝説と云い、アニメファンが訪れるのも分かるような気がする。

八幡竈門神社
 創建 / 神亀四年(727)
祭神は以下。
 応神天皇仲哀天皇神功皇后国常立尊天照大御神田心姫命湍津姫命、市杵嶋姫命、素戔鳴尊天忍穂耳命天穂日命底筒男命中筒男命表筒男命、天兒屋根命、活津彦根命、天津彦根命、櫲樟日命、天太玉命経津主命武甕槌命建御名方命大山祇命、加茂別雷命、大山咋命、高龗神、倉稲魂命、大物主命、天照大御神荒魂、丹生都比賣命、金山彦命日本武尊、宮簀媛命、豊姫命、カゴ坂皇子、忍熊皇子
境内社 / 多賀神社、熊野社、亀山稲荷大明神
 所在地 / 大分県別府市内竈1900
参拝日 / 2022/10/27
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多賀宮、薬力稲荷大明神、犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王

西区那古野の神社を探し徘徊する事二回目。
 今回は円頓寺商店街を西に進み、江川線を越え円頓寺本町商店街のアケードを西に進む。

円頓寺本町商店街は江川線円頓寺交差点から西区那古野2丁目交差点まで東西に連なるアーケードを持つ商店街。
 美濃路や堀川、清州越しで寺社が周辺に移転した事から、人が集まり店が立ち並ぶ門前町として賑わう立地にあった。
話は脱線しそうですが、こうしてアーケードのある商店街は少し前には身近に普通あったものです。
 大阪のディープな光景と云うか、文化と云うのか、朝から活気のあるアーケード街とは少し違うかもしれない。

今回掲載する多賀宮はこの円頓寺本町商店街のほゞ中間の北側に鎮座します。
 金刀比羅神社からアーケードの下を5分も歩けば社頭に着きます。

多賀宮社頭。
 間口が狭い社頭は、足早に歩いていると見過ごしてしまうかも、右に床屋のサインポールがあり、これが目印になる。
社頭右に多賀宮の石標、左に由緒が掲げられ、石の神明鳥居を構えている。
 こぢんまりとした間口から奥に続く参道を歩いていると、どことなく京都の町屋の風情を感じる。

社頭左の由緒。
多賀大社滋賀県犬山群多賀町に鎮座。
 伊耶那岐命と伊耶那美命の二柱を祭祀する。
古来寿命の守護神として、上下の崇敬厚く、天正16年(1588)、秀吉の生母大政所の病平癒を祈願した事が史実に残る。
 ここに上畠町に分社が奉祀された、年代は不詳ですが、慶長17年(1612)の名古屋築城後の清州越によって城下町が形成され、崇敬心の篤い人々によるものと推測される。
詳しくは史家の考証を埃つべきである。」

多賀大社に祈願した秀吉の思いは叶い、大政所はその後の天正20年(1592)まで永らえる事ができ、母を思う秀吉の願いを叶えた多賀大社は、秀吉から社殿の改修を受けたと云います。
 この多賀宮がいつ頃ここに祀られたかは由緒にある様に定かにはならないが、大切な人の延命を祈願するその気持ちは聞き入れて頂けそうだ。

神明鳥居に掛けられた額は多賀宮

参道右側に清水の張られた手水鉢。

参道先の拝所から先の境内は左右に広がりを持ち、左に倶利迦羅大龍不動明王、中央に多賀宮、右が薬力稲荷大明神の三社が鎮座しています。

拝所脇の由来から一部抜粋。
多賀宮
 古来寿命の守護神、縁結びの神として崇敬が厚く、上畠町に奉斎されたのは明治中頃。
 元社殿は昭和32年に改修された。
・犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王
 犬鳴山は斎明天皇7年、役行者の開基で、本尊は行者自作の倶利迦羅大龍不動明王
 不動明王を信仰する事で福寿繁盛、一切の厄炎を除き難病から救われる。
 和合敬愛、知恵聰明、賊盗を除き、鎮宅、祈雨、生々爾加護の十徳が得られる。
・薬力稲荷大明神
 秦公伊侶具により京都伏見の稲荷山に倉稲魂神猿田彦命、大宮女命を祭神とした伏見稲荷が生まれ、以来福徳を司り、家業繁栄の霊験はあらたか。
 伏見稲荷に鎮座し五大稲荷の一柱の薬力稲荷を勧請奉斎したもの。

これに依ると多賀宮がこの地に祀られたのは明治中頃とある。
円頓寺商店街の前身は江戸時代まで遡るのかもしれないが、多賀宮は近代になってからのようです。
他の二社については詳細は分からなかった。

境内左の祭事案内板と灯台
商店街故だろう、ろうそくの明かりに似た揺らいだ明りを放つ電球が使われていた。

犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王
 鰹木は5本で内削ぎの千木が付く神明造。
祭事 10月18日繁昌息災祭。


多賀宮拝所前の重軽石
作法は

1.願い事を決める。
2.重かる石に両手を添え、石を持ち上げ、その重さを感じとります。
3.再び重軽石を持ち上げ2.で感じ取った重さより軽く感じれば願いは聞き入れてくれる。

よくある重軽石の作法ですが、黒光りした艶々の重軽石は多くの願いを叶えてきた証だろう。

多賀宮
祭事 1月1日元旦祭、4月12日春の大祭、8月(日付識別できず)万燈祭、10月4~5日秋の大祭。

昭和に入り修復の手が加えられているため、綺麗な社殿です。
 手前の狛犬はシルエットとなり、寄進年など読み取れなかった。
鰹木は6本で内削ぎの千木が付く神明造。

多賀宮右の薬力稲荷大明神

入口の鳥居の額は「薬力大権現」

奉納鳥居先の本殿。
 鰹木は4本で内削ぎの千木が付く。
本殿を守護するスリムな狛狐をよく見ると複数の罅割れがあり、劣化以外の何かを物語っている。

薬力稲荷大明神
初午 初午繁昌祭(第二の午)

三社の創建など分からない事はあるけれど、人通りの多いアーケード街にある事から、多くの徳を授けていただける三社の参拝に訪れる方は多い。
 商店街や地元の方々から大切に護られている、訪れればすぐに伝わってきます。
それだけ霊験あらたかな三社、円頓寺本町商店街を訪れた際には参拝してみる価値はありそうです。
 鳥居から一歩入れば京都の趣き、アーケード街はプチ鶴八?の趣を感じさせる。
大阪の活気を呼び込みたいものです。


多賀宮、薬力稲荷大明神、犬鳴山倶利迦羅大龍不動明王
所在地 / 名古屋市西区那古野2-8
参拝日 / 2022/12/08
金刀比羅神社から徒歩ルート / ​円頓寺商店街を西に5分程
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『御鍬神社』愛知県知立市

知立市来迎寺町西中畑「御鍬神社」
 畑仕事の応援で当地を訪れ帰り際に見かけ参拝に立ち寄ってみました。
社頭の前を旧東海道が横切る、ここから西に向かえば旧東海道の39番目の宿場町池鯉鮒宿へ続きます。

現在の知立(ちりゅう)は江戸時代「池鯉鮒(ちりふ)」と呼ばれ、現在の字と読みに変ってきたという。
 古来のこの辺りは、西の知立神社を中心に門前町が出来、やがて知立城、今崎城等の城が建てられ、当地周辺にはそれを偲ばせる地名も残っている。
後に家康による五街道の整備が始まり、東海道39番目の宿場町池鯉鮒宿として制定されると更に街道は賑わいを見せ、当時の様子は歌川広重東海道五十三次にも描かれている。

街道沿いに社頭を構える御鍬社。
 猿渡川と逢妻側の二つの川に挟まれた当地、街道沿いは住宅が立ち並んでいますが、北側には肥沃な耕作地が広がり、そこから見る社叢は、海に浮かぶ小島のように存在感がある。
社頭は右に御鍬(おくわ)神社社標、参道中央に石の神明鳥居が立ち、その先に拝殿が姿を見せている。

御鍬社由緒。
「江戸時代來迎寺村を初め近村の牛田村、八橋村、駒場村、花園村、里村、今村、大浜茶屋村の八ヶ村が連合して伊勢より御鍬社を勧請し各村輪番で御鍬祭を奉仕し豊作を祈願してきた。
明和年中(1764~71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し以後氏神と仰ぎ祀ったという。
明治5年(1872)、村格に列格となり、同6年現在の拝殿が造営され、同時に字西中畑に鎮座の山神社、字石田(現安城市今本町地内)鎮座の秋葉社、弁天社を境内に遷された。
その後、本殿は大正3年(1914)に神明造、一重の繁垂木反り無し棟に千木、鰹木5本を置く神殿で、丁度伊勢神宮の二分の一の大きさに造営された。」

耕作地の広がる一帯は明和年中(1764~71)には農耕・五穀豊穣を祈願して御鍬信仰を崇敬していたようです。
この御鍬信仰は伊勢神宮の御田植初め神事から来ているようで、神事で用いる忌鍬を祀り豊穣を祈るのがある種のトレンドだったようです。
以前はこうした御鍬社は普通に見られたものでしょうが、田畑が消え住宅地に変貌すると共に姿を消していった。

境内末社と祭神。
境内社 / 山神社(大山祇命)、弁天社(市杵島姫命)、秋葉社(火産霊命)
年中行事 / 1月1日迎春祭、1月4日新年祭、交通安全祈願祭、2月祈年祭、7月3日弁天祭、10月例祭、12月新嘗祭・除夜祭、毎月月次祭

伽藍は中央の社殿、左側の奥には境内社、一番左に社務所の伽藍。
 境内に入った左側に鳥居が立てられています。

境内に立つ神明鳥居と右に玉垣で囲われた一画。
 鳥居や玉垣を見るもヒントは刻まれていなかった。

御神木?伊勢神宮遥拝所だろうか、詳細は不明です。

 鳥居だけ見ればこちらの鳥居の方が年月が経っているように見える。

社殿全景。
瓦葺切妻平入の拝殿から塀が本殿域を取り囲み、拝殿脇から神域に立ちいる事が出来る。
 神明造の本殿は幣殿で繋がっている。

拝殿左の境内社、瓦葺の鞘堂の中に三社が祀らています。

鞘堂脇の由緒書き、ここに興味深いことが書かれていた。
末社と祭神
末社をお祀りするこの鞘堂が元来の本社殿てあった。
 鞘堂の棟札及び石灯籠は左のようである。
棟札 天保5甲午年(1834)、石灯籠 三河碧海群来迎寺村

秋葉社 火産霊命
 火の神様は、古来火伏の神として庶民の信仰は高い。
 この地方の村落では殆どが末社に祀られ、旧町誌には明治6年6月山神社と共に西中畑より社内に遷宮して末社とした。

弁天社 市杵島姫命
 水の神様で旧町誌には明治6年6月、厳島社を石畑より社内に遷宮して末社とするとある。
 厳島神社に併設された弁才天堂と市杵島姫命と習合し弁財社として祀るようになった。
 市杵島姫命は河川、湖沼を神格化したもので、ここでは猿渡川が氾濫しないように祈願したらしい。

山神社 大山祇命
 山の神様は秋冬は山を守り、春になると里に出て他の神になると信じられ、猟師や山の仕事をする人、 農業に携わる人から尊ばれている。
 旧町誌には明治6年6月、秋葉社と共に西中畑から社内に遷座末社とした。
 末社前の石灯籠には左の様にある。
 11月吉日 山神三州碧海群来迎寺村」
知立町誌(昭和48)

境内の古い鳥居は元本殿だった鞘堂の鳥居のようで、建替えとばかり思いこんでいた元社殿は新造のものだ。
 以前の参道は、あの鳥居からの先にある東海道と鞘堂に繋がっていたのだろう。

左から山神社、弁天社、秋葉社

木の色合いを生かした瓦葺の拝殿、軒下には大きな鈴が吊るされていた。
 最初賽銭箱が分からず、格子から投げ入れ参拝しましたが、拝殿後方の左右に門があり、中に入り参拝が許されているようだ。

由緒、社頭のものと内容が同じなので割愛します。

本殿域の幣殿から本殿の眺め。
 ここに賽銭箱があり、再び仕切り直す。

参拝を終え本殿を眺める。
 由緒にある「本殿は大正3年(1914)に神明造、一重の繁垂木反り無し棟に千木、鰹木5本を置く神殿で、伊勢神宮の二分の一の大きさに造営された」とあったが今一つ実感が沸かない。

江戸時代中期発祥とされる御鍬社は、神宮の御田植初めが起源だと云う。
 神田と聞くと、五十鈴川右岸の神宮神田か三重県磯部の伊勢神宮別宮伊雑宮の神田しか浮かばないが、 伊雑宮の神田は日本三大御田植祭(千葉の香取神宮、大阪の住吉大社)の一つで、農の豊穣を祈願する儀式としては認知度は高いように思います。
 その神事で使う忌鍬を諸国に祀り、御鍬社として稲の豊穣を祈願するようになったのだと云う。
耕作地を広げ、農業を営む農民にとっては御鍬社は必須の神社だろう。

拝殿の鬼には鍬の文字が入る。

 今回、畑仕事の応援で日本のデンマークを訪れ汗を流したが、丹精込めて収穫に辿り着くまでの過程を思えば、自助努力だけでは補いきれない部分は必ずあり、そこを補うため神仏に依存する気持ちは当然だろう。
良くぞ実ったものだ、この実りは日々頑張った神からの恵みなんだろう。
 それに比べ我家の箱庭の家庭菜園の収量の悪い事、御鍬さんを祀る必要がありそうだ。(それ以前に努力が不足している)。

旧東海道沿い、城址や古刹もあり奥が深そうです。

御鍬神社
建立 / 明和年中(1764~71)
祭神 / 豊受比賣命
例祭日 / 10月第三日曜日
境内社 / 山神社(大山祇命)、弁天社(市杵島姫命)、秋葉社(火産霊命)
年中行事 / 1月1日迎春祭、1月4日新年祭、交通安全祈願祭、2月祈年祭、7月3日弁天祭、10月例祭、12月新嘗祭・除夜祭、毎月月次祭
所在地 / ​知立市来迎寺町西中畑16
参拝日 / 2022/11/12
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