伊豆國一之宮『三嶋大社』

静岡県三島市大宮町
伊豆國一之宮の『三嶋大社』を訪れました

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大鳥居の正面の通りは下街道
三嶋大社の大鳥居から始まる下田街道はここから南の韮山、大仁、湯ヶ島を経て、数々の舞台ともなった天城峠を越え、更に小鍋峠を経て下田に至る北伊豆と南伊豆を結ぶ街道
ここから南伊豆への道筋が続きます

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三嶋大社鳥居からの全景、右手に「三嶋大社」社号標
鳥居前を横切る県道22号線は旧東海道、ここで下田街道と交わっています
この道を右に進むと「箱根の山は天下の険」で知られる箱根関所へと続きます

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鳥居脇の常夜灯には「各切三」の御神紋

f:id:owari-nagoya55:20190821201301j:plain境内に入り右に旧社号標「三嶋神社」
1871年(明治4)の近代の社格制度で官幣大社に列せられています
現在の三嶋大社に変わったのは大戦後と言う事です

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祟り石
約2900年前の富士山の噴火活動により運ばれたと石とされ、東海道と下田街道の合流する目印にもなつていた石

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鳥居正面に神池を背にして立つ牧水句碑
大正末期の歌人で東京からこの地に移り住み、三嶋をこよなく愛しその印象を言葉にして残したようです
「のずえなる 三島のまちのあげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり」と刻まれています
夏の三嶋に上がっては消える花火を見て詠まれたものと云われています

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神池
鳥居から参道に入ると左右に広がる池で、古くは頼朝が放生会(ほうじょうえ)を行ったと伝わります
会と付くと宴会?、酒が飲めるの?なんて想像するのは自分だけでしょうが
殺生を禁じる仏教の思想に基づき、魚や鳥などを野に放ち、善行を施す神聖な儀式
なので、この神池には多くの鯉が泳いでいます

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参道左、神池に浮かぶ赤い社は厳島神社

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北条政子が勧請したと云われ安産、裁縫上達の信仰がされ、辨天様とも称され芸事上達の信仰もある
祀神は市杵嶋姫命

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総門の手前の狛犬

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神池の先の総門
大きな注連縄は重さ400㌔、太さ2㍍、長さは6.4㍍の大きなものです
この総門は930年(昭和5)の北伊豆地震で被災し、翌年に再建されたもの

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総門をくぐった左の像
矢田部盛治の像で1854年(嘉永7)の東海大地震で倒壊した社殿を、10年の歳月と巨費(16,677両とも)を投じて復興した方で、この像は1954年(昭和29)建立されたもの

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境内右の建物は「芸能殿」
1930年(昭和8)の北伊豆地震で倒壊した旧総門です
芸能殿として現在の場所に移築され、現在は例祭や様々な奉納芸能を行う場所として使われています

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神門右手の「神馬舎」
1868年(慶応4)に建てられ、三嶋大社の神馬は「毎朝神様を乗せて箱根山に登る」伝説が伝わる様で、子供の成長と健脚を祈る風習があるそうです

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神門左に手水舎
ここで清めて神門をくぐります

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神門に続く透塀
その奥に社殿が見えます

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神門
1867年(慶応3)に建てられたもので三島市指定文化財になっています

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門の至る所に手の込んだ彫刻が施されていて、御殿や舞殿と共に伊豆の名工と呼ばれた小沢半兵衛・希道父子一派により手がけられたもの

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神門の正面の「舞殿」
1867年(慶応3)に神門と同時期に建てられたもので三島市指定文化財

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拝殿から本殿の全景
1866年(慶応2)に建てられ、国指定重要文化財
 本殿、幣殿、拝殿の三つの建物が連なる権現造りの複合社殿で総欅造り

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拝殿正面全景
千鳥破風があしらわれ、向拝には軒唐破風が付く
金色の飾り金具が施され、シックな装いの中に派手さ感じる
ここにも精密な彫が施されています

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拝殿正面
賽銭箱には五七の桐紋

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やや斜めから見た拝殿、唐破風のあしらわれた向拝の屋根の連なりが美しい

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拝殿妻側
さりげない派手さが漂います

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本殿
流造の本殿

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舞殿左の見目神社
現在の社殿は1868年(慶応4)に再建再建されたと云われ、波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命の6柱を祀り
総称して「見目神社」と云われるそうです
手前は西五社
船寄社、飯神社、酒神社、第二社(三嶋神御子神)、小楠社の五社を祀りますが祀神は不明

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拝殿左の若宮神社
祀神は物忌奈乃命、誉田別命応神天皇神功皇后、妃大神を祀る
元々は三嶋大社の西の二ノ宮町に鎮座していたと云われ、後に三嶋大社の境内に遷座したと伝わり、現在の社殿は1868年(慶応4)の再建に再建されたと伝わります

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舞殿の右が東五社
大楠社、天神社、聖神社、第三社(三嶋神御子神)、幸神社、この五社の祀神について詳細は不明

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境内の東にある伊豆魂神社に続く参道

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芭蕉句碑
「どむみりと 棟や 雨の 花曇り」
1694年(元禄7)、三嶋神社を訪れた芭蕉は新池の辺りに咲く花の群れを見て、江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句といわれます

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参道は直ぐに左に折れ、白い社殿が現れます
伊豆の出身で、西南の役以後に出征し戦没された方々が祀られているそうです

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白い流れ造りの社殿

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鎮魂歌碑
「身はたとえ 荒野の果てに 朽ちぬとも み霊よ帰れ 伊豆魂の宮」
「身はたとえ 千尋の海に沈むとも 御霊よかえれ 伊豆魂の宮」・・・・・
このよう思いの歌を二度と子や孫に詠ませるようなことだけはあってはならない
とても重たい・・・・・けれど、語り継いでいかなければならない

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三嶋大社の東隣は駐車場になっていて、そこからは社殿が一望できます
本殿を含めた社殿全景を捉えるスポットはあると思います
まだこれから下田街道を南下しなければなりません、携帯の呼び出しに急かされこれ以上先にはいけませんでした
春日大社から譲り受けた鹿がいる神鹿園、祓所神社等見切っていませんが三嶋大社を後にします

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三嶋大社御朱印
なぜだろう、伊豆の国一之宮と書いて頂けなかった・・・・・少し寂しい、とっても残念なものがある
2019/06/21

三嶋大社
創建 / 不明
祭神 / 大山祇命(恵比寿様)、 積羽八重事代主神
住所 / 静岡県三島市大宮町2丁目1番5号
アクセス / 東名高速道路「沼津IC」から車で約20分程、​名古屋ICから約3時間


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