名古屋市熱田区 『景清社』

名古屋市熱田区神戸町
国道247号線の「熱田神宮南」交差点の南の七里の渡しから熱田神宮に続く道の中程にある景清社を訪れました
平家残党の逸話は各地に残りますが、ここ景清社もその一つ

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熱田神宮南」交差点の一本南の脇道を左に入ります
南にビルが聳え、東は駐車場と隣接する道路の南に景清社は鎮座します

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北側の参道入口から境内の全景
左に名古屋市教育委員会の案内板と左右に景清社の社号標が建っています
境内は石畳が敷かれ、左奥に西を向いて社が祀られています

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名古屋市教育委員会の解説
藤原景清(平景清)は藤原忠清の七男と言われ、悪七兵衛の異名を持つ平安時代末期から鎌倉時代初期の勇猛な武士
景清を題材にした「大仏供養」や「景清」としても受け継がれ、平家物語にもその名が現れます
以下は解説から抜粋
「歌曲「景清」では尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子を設く」とうたわれている。後年、景清は眼病を患い、失明したという伝説から、この景清社は、眼病に霊験があるとして信仰が篤い。」
とある

ここに記された遊女との間に授かったのが女の子という事で、鎌倉亀ヶ江谷の長者に預けられたとされます、名は人丸といいます
平家没落後に盲目となった景清は日向勾当という僧となり日向国宮崎に流されます
成長した人丸はやがて景清が存命している事を知り、親に逢いたい一心から日向国宮崎を訪れ景清を尋ね歩きます
そこでおちぶれた盲目の景清と出逢い、それとは知らず父を知らないか尋ねます
悟られまいと知らぬふりを押し通していく景清も最後には悟られて親子の再開につながる
平家一の名将だった人生の衰退と親子の情を描く演目です

また、熱田区宮の渡しコースの景清社の解説には
平景清は平家滅亡後、ゆかりのある熱田に身を隠した。景清が失明のおり、娘が遊里に身を売って父を看病したことから、眼病の神として信仰されている」
とも記されています

目に纏わる話は他にも続きます
景清は名刀と云われる脇差し「癬丸」の所有者であったと言われ、盲目となった景清は「癬丸」を熱田神宮に奉納したとされます
この脇差は名刀でもあり妖刀なのかも知れません
千秋秀光、陰山一景、丹羽長秀等の武将の手に渡っていきますが、それを手にしたものは戦で亡くなったり、眼に絡む逸話が残ります
眼病に苦しんだ長秀も「癬丸」を熱田神宮へ奉納したところ眼病に悩まされなくなったとされます
「癬丸」は現在も熱田神宮で保管され、愛知県指定文化財に指定されています

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景清社参道と右脇の社合標
参道はこの先て左に折れていきます

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西を向いて祀られる景清社前景
社左に井戸がありポンプで井水を汲み上げ、手水鉢へ注いでいるのかな

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鰹木は何本ついていたのか、朽ち果て一部欠損して随分傷みがある様です
目に御利益があるならば、ここは賽銭を奮発してしっかりお願いしておこう

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側面全景
正面にはビルの壁面が聳えています

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境内全景
井戸脇の手水鉢、境内全体に石が敷き詰められ、草木も少ない事からとてもすっきりした境内

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 境内入口の二本の社号標
昭和26年と刻まれていますが、そんな浅い歴史ではなさそうです
もう少し調べる必要があるようです

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景清社
創建 / 不明
祭神 / 藤原景清(平景清)
住所 / 名古屋市熱田区神戸町41
アクセス / ​市営地下鉄名城線「伝馬町」下車、西へ徒歩10分程