『焙烙地蔵』と『旧東海道道標』 熱田区伝馬

熱田区伝馬1丁目『焙烙地蔵』
ここから北の国道1号線の先は熱田さんの杜、左に熱田神宮南の交差点があります

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焙烙(ほうろく)地蔵のある伝馬町の西端周辺は、その昔東海道佐屋街道の分岐する交通の要所でもあり、街道を行き交う旅人や物資が集まる場所でもあったf:id:owari-nagoya55:20190913220018j:plainこの焙烙地蔵はその昔、三河國重原村(現在の知立市)の草むらの中で倒れていたそうで
三河から焙烙を売りに通りかかった商人が見つけ、両側に積んでいた炮烙も既に片側が売れてしまい、空いた側に重石替わりに地蔵を乗せて、熱田まで運んで来たそうです

焙烙も売り尽くし、荷がなくなった事で、重石替わりの地蔵も不要になり、海辺の葦原に捨てられていったそうです
やがて住民が見つけ、不憫に思い地蔵を拾い上げようとしたが動かなかったそうです
不思議に思いその下を掘ってみると台座が現れそれを掘り出し地蔵をお堂を建て安置したのが「焙烙地蔵」の始まりという

f:id:owari-nagoya55:20190913220058j:plain焙烙地蔵堂内全景
堂の左には座布団の上に石地蔵が安置されていて、ガラス扉の先に焙烙地蔵は安置されています

f:id:owari-nagoya55:20190913220153j:plain焙烙地蔵の解説板
ところで焙烙とは? 素焼きの平皿だったり、急須状の煎器
子供の頃には豆やゴマを炒ったり、正体不明の野草(主にドクダミ等)を炒る時に用いた日用品
婆さんの作る野草のお茶の苦さは今も記憶に残るけれど、その焙烙も見かけなくなった

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お堂の左に安置されている石地蔵
赤い帽子に白い前掛けが付けられ、視線はやや下を向いて安置されています

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ガラス扉の先の地蔵、ふくよかな顔つきで優しい笑みを浮かべているようにも見えます

謂れとなった当時のお堂は現在地から少し東にあった様ですが戦争で被災します
1949年(昭和24)戦後の復興事業で、江戸時代からこの場所に鎮座していた​上地我麻神社​が熱田神宮境内に遷座する事になり、その跡地に「焙烙地蔵」のお堂が新たに建てられたそうです
野に捨てられ、焙烙売りに拾われ、また捨てられる
最後に熱田の人に拾われ、安住の地を与えられ手厚く祀られたのがこの場所と言う事です

『焙烙地蔵』
住所 / 名古屋市熱田区伝馬1丁目1-9
アクセス ​市営地下鉄名城線 「伝馬町」下車西へ5分程

『道標』
焙烙地蔵の前の三差路の北角に綺麗に整備された道標が建っています

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道標の東から伸びてきた旧東海道の道筋も、この場所で熱田さんと宮の渡し方向へ分岐する三差路となります
1790年(寛政2)に建立された道標は当初は三差路の東南角にあったようです
2015年(平成27)三差路の北角にあたる現在地に移設されたもの

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移設され間もない事から解説板も新しく整備されています

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道標の四面には以下のように記されています
東 北 さやつしま(佐屋津島) 同みのち(美濃路)
南  寛政二庚戌年(かのえいぬ)
西 東 江戸かいとう   北 なこやきそ道
北 南 京いせ七里の渡   是より北あつた御本社貳丁

場所こそ少し移動したものの、200年を超え多くの災いから免れ今も当時の姿を留めています

旧東海道道標』
住所 / 名古屋市熱田区伝馬1丁目5-29  焙烙地蔵の東向かい