信濃國一之宮 諏訪大社 本宮 Vol 2 「周辺寺社」

信濃國一之宮 諏訪大社 本宮 Vol 2
今回は諏訪大社本宮周辺にある寺社の一部を見て回ります

f:id:owari-nagoya55:20191022101750j:plain北大鳥居から右に進みます
社務所を左に見ながら先に進むと正面に浪除鳥居に出ます
優美な姿の鳥居をくぐり境内を出て齋館の西裏手に向かいます

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左手の「宮之脇公館」の脇に山に続く小道があります
その先にの斜面に鳥居が見えると思います
この斜面を登ると「大国主命社」に続きます

f:id:owari-nagoya55:20191022101810j:plain参道入口右側には石灯籠と複数の石標、小さな社が視界に入ります

f:id:owari-nagoya55:20191022101820j:plain地元ではあまり目にしない庚申塔(こうしんとう)ですが、こちらでは目にする機会が多い
庚申塚(こうしんづか)とも呼ばれる様で、庚申信仰に基づいて建てられるもの
写真のように「庚申」や「庚申搭」と彫られたもの、時には金剛像が刻まれたものなど多様なものがあります

人の体内には三尸(さんし)の虫という虫がいるそうです
三尸の虫は庚申の日に人が寝ている時を見計らい天帝(仏教でいう帝釈天)にその人の悪事を告げに行くといいます
それを避けるために庚申の日(60日/1回)は夜を徹し、天帝や猿田彦青面金剛を拝み続け、宴を催す風習です
庚申の年や庚申講を一定の回数続けた時の記念にこうした塔を建てられるようです

後方の小さな社は秋葉社
表札も掲げられ分かり易いものです、この小さな社の周りも四本の御柱が囲んでいます

f:id:owari-nagoya55:20191022101830j:plain斜面に建てられた木造鳥居
その正面に白い御柱が見えます、目的地「大国主命社」です
見上げるような右の斜面にも一社あるようです

f:id:owari-nagoya55:20191022101840j:plain大国主命社」
傾斜地に建つ神社は、素木造の自然の色合いで周囲に溶け込むように鎮座しています
地元では「榧ノ木様」と呼ばれる様で、左手に大きな榧ノ木が聳えています
この社殿は本宮で遷座を終えた旧宝殿
それを移築再利用したもの、なのでここを訪れれば宝殿の全容が見れると言う事です
どことなく神明造に似ているような気もします

諏訪の神社は先程の秋葉社もそうであるように、神社には御柱が立てられるのが一般的な光景かもしれません
階段も上がれるようですが、御柱に囲まれた領域なので内部を窺うのはやめておきます

杜に佇むこの神社の姿、とても好きになりました

f:id:owari-nagoya55:20191022101850j:plain大国主命社」の脇の石標
大聖不動明王、月山、湯殿山、目黒山大権現と彫られています
その先は蚕玉社

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 蚕玉社
祠には額らしきものがあり、何か書かれていたような跡は見えます
地元宮之脇の神社で「蚕の神」を祀るそうで、諏訪大社摂末社ではない様です

祠の内部、中央と両脇に鈍く輝く紋は葵の紋の様に見えないでもない
少し調べてみる必要がありそうです

斜めった場所、祠前にもカメラを構えるほどの余裕がないので、下手をすると斜面を滑り落ちる事になるやも、結構な斜度があります
住所 / 長野県諏訪市大字中洲神宮寺

次は東参道に戻ります

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東参道のニノ鳥居から左に上り、赤い山門の法華寺へ向かいます

f:id:owari-nagoya55:20191022102109j:plain神宮寺配置図後方の神社は蠶(こ)玉神社
蚕の女神様ですかね
こちらも御柱は四方を囲んでいます
蠶玉神社も大国主命社同様で諏訪大社摂末社ではないようです

f:id:owari-nagoya55:20191022102119j:plain蠶玉神社後方にも庚申塔、あっちこっちで見かけることができます

f:id:owari-nagoya55:20191022102130j:plain鷲峰山法華寺、古くは天台宗の寺だったけれど鎌倉時代に当時の領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改宗したといわれ、諏訪大社上社の神宮寺
その事を示す様に、山門と本堂の大棟には諏訪大社の神紋が飾られています

往時には七堂伽藍を誇る大きな寺として栄えた法華寺
信長の武田家滅亡の本陣として諏訪大社本宮を焼き払いに使わたり、神仏分離廃仏毀釈で建物が払われたり、1999年(平成11)には火災で焼失するなど様々な出来事を見てきました

現在の本堂は焼失後に再建されたもの、現在は特徴のある赤い山門と本堂、寺務所と庫裏のみの伽藍
諏訪大社鳥居入口にありながら、ここを訪れる参拝客は意外に少ないようです

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そんな山寺の趣のある法華寺ですが
赤穂浪士」や「本能寺の変」につながるきっかけの舞台となった場所

1582年(天正10)、信玄の高遠城を攻め落とした織田勢は、その勢いのまま北上し諏訪大社上社本宮を焼き払った、その戦火から免れた法華寺は信長勢の本陣として、武田家滅亡後の論功行賞が行われた場とされます
信長はその場で明智光秀を叱責したとされ、面子を潰された光秀は本能寺の変を起こすきっかけとなったと伝えられています

赤穂浪士法華寺のつながりはよく分からないけれど、吉良上野介の養子だった吉良義周は1702年(元禄15)の吉良邸討ち入りの当事者の1人とされ、領地を取り上げられここ高島藩に流されたそうです
義周は1706年(宝永3)に他界、その亡骸はここ法華寺に土葬されたとされます

f:id:owari-nagoya55:20191022102153j:plain文殊普賢菩薩、釈迦如来・・・・・原発?

f:id:owari-nagoya55:20191022103049j:plainまだ前宮と本宮を参拝しただけですが、秋を感じるこの時期になると陽が陰るのは早いものです
夕陽の差し込む境内、大棟の神紋が輝いてきます

f:id:owari-nagoya55:20191022102213j:plain吉良義周の亡骸はここに眠っています

f:id:owari-nagoya55:20191022102227j:plain境内左の石碑群と大黒様を祀る小さな社
法華寺
住所 / 長野県諏訪市中州神宮寺856

石碑の左手には更に上に続く道があります

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短い坂道の先に墨繩神社の明神鳥居と社殿、その前に立つ御柱が見えています

f:id:owari-nagoya55:20191022102259j:plain白い御柱が間近に近づいてきました

f:id:owari-nagoya55:20191022102313j:plain墨繩とは聞きなれないかも知れません
これは大工さんが使う、線を引くための道具の事
墨の中に糸がまかれ、糸を引き出し摘み上げその糸を離せば、真っすぐな長い墨の直線を引くことができるもの
現在も使われる現役のアイテム、ここは名前の如く大工さんに縁のある神社

f:id:owari-nagoya55:20191022102325j:plain 墨縄神社
住所 / 長野県諏訪市大字中洲神宮寺

更に上を目指します
すると視界は開け、傾斜地に平坦な一画が現れます

f:id:owari-nagoya55:20191022102338j:plainそこには鐘楼、神宮寺仁王門、五重塔などの跡が残ります
神宮寺伽藍は今はほぼ現存しません、現在残るのは「神宮寺」の地名のみ
この平地は現在マレットゴルフ場として地元で使われています

f:id:owari-nagoya55:20191022102349j:plainその南側の急斜面に登れとばかりに「信玄公墓碑」の看板が導いています
現在の根羽村で亡くなった信玄は、この地の諏訪湖に沈められたと云われます
その信玄の墓碑がこの斜面にあります、それも目立たない様にひっそりと小さな岩が置かれるのみ

ここまで登ると解説があるものと思っていたけれど、解説板はありませんでした
三つある石の左のものが「信玄公墓碑」となります
信玄の墓は諏訪湖含めて複数あり、どれが真実なのか気にはなりますが
そこを明らかにする必要はないものかも知れません

f:id:owari-nagoya55:20191022102400j:plain「信玄公墓碑」から斜面をまっすぐに下っていくと墨縄神社の後方に出ます
後ろにも御柱ありますね
そこから下に続く石段を下りていくと東参道に戻る事ができます

f:id:owari-nagoya55:20191022102412j:plain参道脇の案内図
法華寺のある右から左に横断し、下に下ったことになります
ここから一の鳥居のある右方向に行きたいところですが、相当かみさんを待たせています
駐車場に戻る事にします

それにしても信玄公墓碑の斜面は足にきました、一日で4社巡りの予定はタイトなようです
車中泊で決まりかな?