「苗木城址/八大龍王大神」岐阜県中津川市

苗木城址
岐阜県中津川市木曽川右岸に建っていた山城です。

中津川IC料金所から、国道257号線を経由、県道410号線でゆっくり走っても20分の所です。

f:id:owari-nagoya55:20191124172906j:plain 苗木遠山資料館
苗木城や苗木藩に関する資料が展示され、ガイドによる城跡の案内受付、クマ出没情報の提供も行っています。
ここの駐車場が一般的で、ここから城址まではゆっくり歩いても20分はかからないでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20191124172917j:plain 資料館から更に奥に駐車場があり、ここが一番近いのですがそれ程大きなものではありません。
ダメ元で行ってみても損はないかも。
高森神社に行かれる場合、そこから下に降りていく事になります。

f:id:owari-nagoya55:20191124172928j:plain 一番上の駐車場から直ぐのところに苗木城跡の標柱が建ち、左右には石垣が積まれています。
苗木城の石垣は多様な技法が取り入れられ、積み方を見ていくと面白いところです。

f:id:owari-nagoya55:20191124172939j:plain 標柱から先にはこうした石垣が積まれ天守まで続きます。

f:id:owari-nagoya55:20191124172949j:plain 駐車場から2~3分で視界が開け、右に広い空間のある「龍王院跡」に着きます。
かつての足軽長屋の南側に位置し、龍王院と言う真言宗の寺院があった場所。
明治政府の行った廃仏毀釈により神職が取り仕切る事となった。
遠山藩はそうした意味では忠実に従い、領地の寺院は廃寺にしていったそうです。
現在は分かりませんが、これによりこの辺りの葬式は神式で行われるのが一般的だったそうです。
文明開化の神風が吹きよせる時代、この政策も必要だったのかもしれない。
けれど、仏教伝来以降永い時を経てきた歴史的資産を崩壊させた点に於いて、これは大きな汚点だったと常々感じるところ。
高森神社​もそうした波に揉まれていった一つです。

f:id:owari-nagoya55:20191124173003j:plain 南に開けた「龍王院跡」からは、午前中は逆光になりますが、遠く恵那山と手前に苗木城跡の復元された木組みのシルエットが良く見えます。

f:id:owari-nagoya55:20191124173017j:plain 「龍王院跡」から本丸へは石垣と石畳の続く尾根道を歩きます。

f:id:owari-nagoya55:20191124173033j:plainやがて緩やかな坂が現れ、左手に自然石の巨岩の上に何層にも積まれた石垣が現れます。

f:id:owari-nagoya55:20191124173056j:plainここにはかつて風吹門と呼ばれた門があり、その痕跡が残っています。
大手門と呼ばれた二層の門は、城下と三の丸への出入りを隔てる位置関係。
昼夜問わず門番が立ち厳重にチェックしたそうです。
左手の石垣は、ここ風吹門の防御のために設けられた「大矢倉跡」。
苗木城最大の櫓は三階建てで、一階は物置だった様です。

f:id:owari-nagoya55:20191124173108j:plain 大矢倉石垣
手前の自然石を生かし、その上に切り出してきた石が積まれ基礎となっています。
ここから見るだけでも左と右では積み方が違うのが分かります。
セメントが使われた訳でもなく、ただ単に石を積んだだけですが今もずれる事無くそこにあります。

f:id:owari-nagoya55:20191124173120j:plain 大矢倉や風吹門もそうですが、場内の遺構にはこうした解説板が設けられています。

f:id:owari-nagoya55:20191124173132j:plain 大矢倉から見下ろす位置に広がる三の丸、ここでは乗馬の練習も行ったようです。
右側には天守に続く大門があったので、真剣に馬を走らせるほどの広さは無い。

f:id:owari-nagoya55:20191124173144j:plain 左手に行くと本丸の石垣で昼でも付す暗い場所に牢屋跡、駈門跡を経て四十八回りに続きます。

f:id:owari-nagoya55:20191124173156j:plain 大門右に苗木城址の碑
本丸で遮られていた朝陽が三の丸、二の丸にも差し込みます。
苗木城址岐阜県中津川市苗木の高森山(432㍍)の頂にあった山城で霞ヶ城とも呼ばれた。
中津川を二分し流れる木曽川、その右岸から周囲を見渡す様に聳えていた。
鎌倉時代初期に岩村城を拠点に恵那郡を収めた遠山氏の遠山正廉により、1532年~1555年(天文年間)に築城され、幾度か城主が変わりますが、1600年(慶長5)遠山友政により再び遠山氏の手中となり、1871年(明治4)廃城まで遠山家の支配となる。

f:id:owari-nagoya55:20191124173207j:plain 大門の右手下に遠山家の住居や家臣が集う部屋があった二の丸が見える。
石垣もさることながら、飛び石の様に礎石が並び、そこに構造物を建てた事に人のパワーを感じます。

f:id:owari-nagoya55:20191124173220j:plainこの辺りから見上げる天守は、巨大な自然石の上に柱穴を削りだし柱を建て形造られています。
人のパワーを表す象徴的なものが天守櫓。
左の石垣は大矢倉で見かけた組み方とはまた違うものです。

f:id:owari-nagoya55:20191124173326j:plain 直下から見上げる本丸はこんな感じです。
自然を生かし、人の知恵とパワーが加わって出来たのが苗木城といっても過言ではないのかも。
それが可能だつたのもこの辺りから石が獲れ、遠路から運搬する必要がなかったという事でしょう。

f:id:owari-nagoya55:20191124173338j:plain 大門からしばらく行くと、坂下門で左に道は続き、そこからは本丸の石垣を右廻りで進むように高度を上げていきます。日陰に入ると一気に気温は下がっていきます。
正面は菱櫓門跡、右手の石垣も表情が違うものです。

f:id:owari-nagoya55:20191124173347j:plainこの辺りから下を見渡すと一足先に朝陽を受けた大矢倉が一望できます。
その姿はアンデスの遺跡にも通じるものがあります。

f:id:owari-nagoya55:20191124173358j:plainこの石垣が現れれば天守も間もなく、石垣の下にある建物は「千石井戸」。
山城は守るには絶好の条件が整っています、そうは言っても水は絶対に必要となります。

岩村城​もそうでしたが、山の頂に井戸が掘られ、それらはいまも水が湧き出ている事に驚きます。
天守の南斜面に「清水門跡」がありますが、この辺りでは石垣の下から清水が湧きだしています。
このとんがり頭の頂きのどこに水源があるのか不思議です。
この下には龍神でもいるのだろうか?

f:id:owari-nagoya55:20191124173409j:plain天守展望台」北側から見た全景
現在は復元された櫓の上に展望台が乗せられ、そこからは下に木曽川、その先に恵那山の眺望が広がります。

f:id:owari-nagoya55:20191124173424j:plain 東側からの眺め、遺構として残っていた柱穴を元に再現されているもので、観光用に特別に手を加えたものではないようです。

f:id:owari-nagoya55:20191124173443j:plainこの上に三層の天守が建っていたのですが、一階は4㍍×5㍍、三階部分は9㍍×11㍍と上に行くほど大きくなっていったそうです。
清水や日龍峯寺​の舞台造りにも通じるものがあります。

f:id:owari-nagoya55:20191124173459j:plain 展望台からの眺望は眼下に木曽川、恵那山の眺望が広がります。
木曽川に架かる橋は、廃線となった北恵那鉄道の橋梁です。

f:id:owari-nagoya55:20191124173514j:plain 天守南側の「馬洗岩」
名の由来は城攻めに逢い、水切りされた際にこの岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い「水には困っていない」様に見せかけた事から来ているそうな。・・・・・ホンマかいな?

f:id:owari-nagoya55:20191124173528j:plain馬洗岩から西に進むと再び玄関口に戻ります。
南側から見る天守櫓、巨岩と一体になっています。

f:id:owari-nagoya55:20191124173544j:plain 一旦、千石井戸方向の的場跡に戻り、左続く細い道を進み高度を下げていきます。

f:id:owari-nagoya55:20191124173603j:plainこの辺りは天守の南斜面に辺り、本丸から二の丸に続く南側の道。

f:id:owari-nagoya55:20191124173627j:plainここから天守方向を見上げてみても、もはや天守は見えません。
目の前は間近に迫る巨岩の壁と上には青い空と飛び交う鳶のみ。

f:id:owari-nagoya55:20191124173649j:plainその巨岩の組み合う隙間の前に木造の明神鳥居が建つ「八大龍王大神」。

f:id:owari-nagoya55:20191124173704j:plain 遠山家の守護神である八大龍王が祀られ、明治時代にこの場所に祀られたもの。
創建など詳細は不明。

f:id:owari-nagoya55:20191124173719j:plain 更に高度を下げていくと二の丸に到着です。
南側は急峻な崖が続き、そうした場所にも石が積まれています。
上は「不明門跡」、開かずの門と云われた二層の門があった。
下は二の丸の「的場」、鉄砲の練習や槍等の稽古が行われていた場所。

f:id:owari-nagoya55:20191124173736j:plain 二の丸から天守の眺め。
郁恵にも石垣が積まれているのが良くわかります。

f:id:owari-nagoya55:20191124173749j:plain 二の丸を進むと大門に戻ります、同じ高さから見る大矢倉は巨大な石の塊にも見えます。
「日本100岩城」の一つに数えられる苗木城址、石積みの巧みさやそれを作った人のエネルギーを感じる場所です。
2019/11/01

「苗木城址
住所  / 岐阜県中津川市苗木
アクセス / ​中央自動車道「中津川」ICから国道257号線経由20分程