「御所屋敷趾・小社」

名古屋市昭和区御器所3丁目
八大龍王社​から徒歩で南に5分程歩きます

f:id:owari-nagoya55:20191220080723j:plain グーグル先生曰くほぼ平坦と仰るが、龍神様の池があった場所です、平坦な訳がない。
緩やかに下り、そして緩やかに上り​御器所八幡宮方向​に続きます。

f:id:owari-nagoya55:20191220080909j:plain 緩やかな登り、その先は写真の様な三差路となります。
「止まれ」の標識の左に小さな社が視界に入るはずです。
「御所屋敷趾」到着です。
車で訪れると駐車場に困る場所かもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20191220080949j:plain 境内と言っていいのか分かりませんが、歩道から板宮造りの社がとても良く見えます。

f:id:owari-nagoya55:20191220081013j:plain 三差路から御所屋敷趾の全景
玉垣はなく、代わりにブロックが積まれ敷地を取り囲んでいます。

f:id:owari-nagoya55:20191220081032j:plain 屋敷跡の道路脇に名古屋市教育委員会の解説板。
『秀吉の母、大政所は従一位まで叙せられていながら、その素性がはっきりしない。いつごろから御器所の人だと云われ始めた分からないが、天野信景の随筆「塩尻」には「尾州愛知郡御器所村の人也」とある。また、この後天保年間(1830~44)尾張藩がまとめた「尾張志」には「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」とある。
秀吉の母が持萩中納言の娘との伝説と、中納言の屋敷があったとの伝説が結び付いたものと云われている』
尾張史の記述については、これと符合する裏付けが定かではないようです。
大政所(仲)1516年(永正13)~ - 1592年(天正20)

f:id:owari-nagoya55:20191220081053j:plain屋敷趾には基礎の跡とか、それを語るような遺構はありません。
それと知らなければ、ここはどなたが祀られた神社でしょうね、という趣です。
天下人秀吉の母(仲)の在所だったとして、屋敷きにしてはこの区画はあまりにも小さく、当時の規模がどの程度のものなのか、知る術はありません。
周囲は住宅街に生まれ変わり、この一画だけがポッンと残っている事が不思議なくらいです。

f:id:owari-nagoya55:20191220081123j:plain 入口左の「御所屋敷趾」石標(大正12年)。
ここが残っていられたのは、奥に祀られた社のお陰もあるのかも。
社の主は分かりません。恐らくですがこの御所屋敷趾に後から祀られたものでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20191220081146j:plain 御所屋敷趾に祀られた社は良くわからなかったけれど、この御所屋敷趾は史跡として、社の神域としてこの住宅街に残って行くだろう。


御所屋敷趾
住所 / ​名古屋市昭和区御器所3丁目32