義市稲荷社

名鉄瀬戸線(瀬戸電)「尼ヶ坂駅」から南へ徒歩約10分も歩くと、北垂れの傾斜地が現れます。
この辺りは芳野2丁目、静かな住宅街が続き、小洒落たお店も点在します。

瀬戸電の清水駅から森下駅周辺を車窓から南を見ると、小高い丘の様相。
崖下から北へ低地が続き、その先は矢田川に広がりを見せています。
その昔の名古屋台地の北外れと言っても過言ではないでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20200115234024j:plainこの丘の高台にある高校の北斜面に細い道路があり、その道の奥に赤い鳥居が見えるはずです、今回の目的地は「義市稲荷社」。
神社前から道は右に折れ、瀬戸電の高架下に向け緩やかに下っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20200115234058j:plain 左手の建物が高校の校舎、その建物を支える法面と境内の高さ比較すると結構な斜度なのがよく分かります。
この時期なので草木も枯れすっきりした印象がありますが、夏場には赤い鳥居以外は鬱蒼と生い茂る木々に包まれ全体が見通せないかも知れません。
右手の義市稲荷社と刻まれた社号標、奉納されたのが昭和49年とあります。

f:id:owari-nagoya55:20200115234126j:plain 義市稲荷神社扁額。
恐らく伏見から勧請したものだと思います。
創建は1628年(寛永5)と云われ、尾張徳川家、名古屋藩付家老の竹腰正信の屋敷に祭祀されたのが始まりの様で、1871年(明治4)の廃藩置県により上地となり、1874年(明治7)に共祭公許となったようです。
この神社は​片山八幡神社​の管轄にあるようなので、こちらに問い合わせると詳細な事もわかるのかも。

f:id:owari-nagoya55:20200115234152j:plain 鳥居脇の手水鉢、年号未確認です。

f:id:owari-nagoya55:20200115234223j:plain 本殿前の狛狐、痩せ(狐はこんなもんか?)ていて、右の狐の顔は風化して表情はよくわからない。
台座の奉納年度は意外に新しく1938年(昭和13)とあった。
妙に哀愁が漂う狐です。

f:id:owari-nagoya55:20200115234249j:plain 切妻瓦葺の建物は本殿かと思いきや、鞘堂のようです。
薄暗い堂内を覗かせて頂き、ノールックで撮影する、そこには正面に社殿と左右に小さな社が祀られているようです。
社の屋根は多分檜皮葺きだと思われますが、屋根はグレー一色で不思議な色合いを呈している。
これは何?、埃りが堆積しているのか?よもや・・・・・

相殿の祭神は良く分からない、宗像社と春日社、天神社の合殿だとも語られていますが、この絵だけでは何とも確証が得られません。
言えるのは、供えられた榊はフレッシュで小まめに面倒みられている事ぐらいでしょうか。
こうした方や参拝に来られた方に直接伺う機会があるとすっきりするのでしょうが、どなたにも遭う事はありませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200115234312j:plain 祭神は食物の神、倉稲魂尊を祀ります。

f:id:owari-nagoya55:20200115234341j:plain 義市稲荷社から北の眺め、道は瀬戸電の高架に向け緩やかに下り続けています。
静かな住宅地そのもの、地名の芳野は竹腰氏の家臣吉田弥四郎が、ここから少し西の高台にある片山神社境内に吉野桜を植えた事に由来するらしい。
この地が竹腰氏のお膝元だった事はここからも伺えます。


義市稲荷社
創建 / 1628年(寛永5)
祭神 / 倉稲魂尊
住所 / 名古屋市東区芳野2丁目7-29
公共交通機関アクセス /   名鉄瀬戸線「尼ヶ坂」駅から​瀬戸電高架沿いに東へ徒歩約10分