『兒子八幡社』

名古屋市北区志賀町
経王大菩薩」から上街道を5分程北へ進むと、堀川に架かる「くろかわはし」に行き着きます。f:id:owari-nagoya55:20200316215549j:plainいかにも冬らしい寒々とした光景ですが、堤の桜が咲き出すと一気に華やいだ表情に変貌します。
ここから目と鼻の先の志賀橋交差点を左へ進みます。

f:id:owari-nagoya55:20200316215624j:plain 志賀橋交差点から一本西の上街道を5分程北上すると次の目的地「児子八幡社」の玉垣が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20200316215650j:plain 交差点の南の社頭から眺める境内、南北に長くニノ鳥居の前で車道が境内を二つに分断しています。
社頭からまっすくに延びる参道はニノ鳥居の先の蕃塀に続きます。

社頭左の寶祚長久、右に國家安泰の石標。
その奥に「八幡社」社号標、あれ?「児子八幡社」じゃないの?間違えたか。
取り敢えず一ノ鳥居から広い境内を拝殿に進む。

f:id:owari-nagoya55:20200316215715j:plain 一ノ鳥居から境内を分断する車道の手前まで来ると、左の小高い場所に瓦葺の小ぢんまりとしたお堂が佇んでいます。これは秋葉神社
子供の頃は身近にあった光景です、街中に今もこうした光景が残っているとは、氏子の方達から厚く崇高されているのが伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20200316215738j:plain 鬼瓦には葉団扇の紋も入ったお堂の中には社が祀られています。
境内社として古くから祀られたものなのか、都市開発でここに遷座してきたのか定かではありません。
しかしここに祀られている限り、この先も地域の火伏の神として受け継いでもらえそうです。

f:id:owari-nagoya55:20200316215801j:plain 境内を分断する車道の手前に来て、ニノ鳥居の右に「兒子社」の社号標が現れる。

f:id:owari-nagoya55:20200316215825j:plainニノ鳥居からの全景。
拝殿は蕃塀が遮り見通すことは出来きません。

f:id:owari-nagoya55:20200316215847j:plain 「兒子社」の社号標から切妻造の拝殿、幣殿と本殿の眺め。
右手に手水舎と鉢はあるものの清水は注がれていませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200316215909j:plain 内研ぎの千木と鰹木が施された蕃塀は立派なものです。
鳥居からはこの蕃塀が社殿の様子を目隠ししています。

f:id:owari-nagoya55:20200316215931j:plain 拝殿左に一本楠木の巨木が聳えています、その左の建物が社務所
普段は無人の様です。

f:id:owari-nagoya55:20200316215953j:plain 御神木の楠木は拝殿、社務所を覆わんばかりの見事な枝ぶり。
その佇まいはただ物ではない、根本に掲げられた御神徳には「御神木に触れた手で幹部を擦ると病が治癒」するそうです。
樹齢は分からないけれど長い年月を経てきたものが持つ不思議な力を感じさせるものです。

f:id:owari-nagoya55:20200316220021j:plain 南を向いて立つ四方吹き抜けの拝殿。
キラキラ輝く飾り金具は敢えて付けない、そう感じさせるシックな佇まいは個人的に好きなものです。

f:id:owari-nagoya55:20200316220047j:plain 拝殿前の狛犬

f:id:owari-nagoya55:20200316220113j:plain 空を覆わんばかりの見事な枝ぶりの御神木です。

f:id:owari-nagoya55:20200316220139j:plain 拝殿全景。
見た目の派手さはないけれど、各所に施された彫に自然と視線は行くものです。

f:id:owari-nagoya55:20200316220202j:plain 拝殿から本殿方向の眺め。
拝殿右に「児子八幡宮」と左に「兒子宮」の額が掲げられ、祭神は応神天皇天之御中主大神菅原道真とあります。
幣殿に続く渡り廊下の左右に小ぶりな狛犬の姿が見えます。
拝殿は渡り廊下で社務所にも繋がっています。

f:id:owari-nagoya55:20200316220227j:plain 渡り廊下の左右で幣殿を守護する狛犬
吽形は廊下の先にあり、全容が掴みにくいけれど台座には「伊藤萬蔵」とある。

地元のおじいさんに出逢い「昔は子供も多く賑わったもの、そこの狛犬は是非見て行ってくれ」と教えられました、それがこの狛犬です。
通りすがりに訪れた者にはこの狛犬が持つ意味合いは分からない、地元のご高齢の方にとってこの伊藤萬蔵狛犬は特別な意味があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200316220253j:plain 本殿の右の境内に二つの合社があります。

f:id:owari-nagoya55:20200316220317j:plain 本殿右に南を向いて二つの合社が整然と並ぶ。

f:id:owari-nagoya55:20200316220342j:plain 左の合社には五社が祀られていて、左から地主社、津島社、多賀社、保食社、山神社。
右の合社には三社、左から八釼社、神明社、熊野社が祀られる。

f:id:owari-nagoya55:20200316220407j:plain 合社の右に「臥牛像」
その先には天神社は見当たらない、本殿域にあるのかい?どういう事?

「ご自身の身体と同じ神牛の部分を祈念を込めてお互いに撫でさすれば身体健全はもとより病気全快するといわれ、また神牛の頭部を同様に撫でさすれば知恵がつくといわれる」

f:id:owari-nagoya55:20200316220432j:plain 合社側から本殿の眺め。本殿の後方には安栄寺が控えています。
兒子社について「名古屋市史」と「尾張名所図会」を調べて見ました。
名古屋市史の記録によれば以下のように記されています。
『兒子社は西春日井郡金城村大字東志賀八幡神社境内の西側にあり、もと児の宮、又は児の御前社と称して、同郡西志賀村綿神社の東辺に在りて、同社の摂社なり地は東四賀村に属す境内二畝歩あり、除地なりき、今畑となるに在りて、同社の摂社なりき、昔より小児の守護神として崇敬せらる。』

f:id:owari-nagoya55:20200316220457j:plain1772~1780年(安永年間)には尾張藩主から崇敬され、何度となくこの神社に参拝、そうした事から藩からは厚遇されていたようです。
尾張名所図会」には子供の健康を願うため、子を背負い児の宮の神事(赤丸神事)に訪れる親子の姿や本社の綿神社へ参拝に向かう様子が記されています。

更に1874年(明治7)に現在地の八幡神社の境内神社として遷座、その際に改造遷宮された様です
祭神は天御中主尊。社号標が八幡社と兒子社の二つなのがなんとなく腑に落ちた。
上の絵からすれば現在の八幡社は更に右に位置します。
ただ八幡社の由緒がさっぱりわからない、1874年ということはないはずです。

f:id:owari-nagoya55:20200316220520j:plainこの様に賑わった兒子八幡社も、先ほど出逢ったおじいさんが云われていたように赤丸神事に訪れる方は少ないのかもしれません。
これだけ広い境内がありながら、鼻水垂らして遊びまわる子供の一人もいやしない。

2020/3/11

『兒子八幡社』
創建 /   不明
祭神 /  応神天皇天之御中主大神菅原道真
境内社(確認が取れたもの) / 地主社、津島社、多賀社、保食社、山神社、八釼社、神明社、熊野社
住所 / 名古屋市北区志賀町1-65
公共機関アクセス /  市営地下鉄名城線「志賀本通」下車西へ10分程
経王大菩薩からのアクセス / ​上街道を北上、堀川を超え10分程