「本地大塚古墳」

本地城址から東へ2~3分​、徒歩でも5分程あれば「本地大塚古墳」です。
北を流れる赤津川の左岸に当たり、肥沃な土壌に恵まれた田畑が広がります。

f:id:owari-nagoya55:20200410120339j:plain 田畑の間を走る細い通りに写真のような案内板があり、こちらを目印にするか、保育園を目標にすれば古墳への入り口に辿り着けるはずです。
古墳と聞くと「こんもり」とイメージしがちですが、それを思い描いて歩いていると見つけにくいかも。

f:id:owari-nagoya55:20200410120403j:plainさっぱり見かけなくなったレンゲの花もこの辺りでは見ることができます。
畑を肥沃にするレンゲも化学肥料に取って代わられ、一面レンゲ畑の光景を見ることも少なくなりました。
ピークを過ぎ、あのピンク色も色あせて白っぽくなっています。

f:id:owari-nagoya55:20200410120428j:plain 北側の保育園と南側の資材置き場の間に本地大塚古墳の入口があります。
保育園のフェンスにも小さな案内板があります。
古墳はどこだ?

f:id:owari-nagoya55:20200410120506j:plain小路の先を塞ぐように「本地大塚古墳」の解説板が現れるのだが、「こんもり」はどこよ?

f:id:owari-nagoya55:20200410120537j:plain「本地大塚古墳」解説
瀬戸市内に残された最も古く、最大の前方後円墳である。 この土地では「誉牟治別命」の墓という伝説があるが、昭和40年の発掘調査では、その実証となる資料は得られなかった。
同51年、瀬戸市文化財(史跡)に指定された。
出土遺品
1.須恵質円筒埴輪 高さ40㌢余り 2.須恵質形象埴輪  水鳥・馬・人・家など 3.須恵器 蓋坏・高坏など
成立年代
この古墳の成立は、出土品から推測すると5世紀末から6世紀初め頃と考えられる。 その後市内に盛行する群集墳に先行するものである。
前方後円墳の規模
1.中心軸の長さ 33㍍  2.円部の直径 22.5㍍   3.方部の幅 11.7㍍」

解説にある埋葬者の「誉牟治(ほむじ)」が本地村の由来となったともいわれるようです。
群集墳とある様に、ここから少し南の高台に建つ宝生寺の境内地にも「駒前1号古墳」と呼ばれる古墳(残存していない)もあり、一帯には古墳が結構築かれたようです。
こうした古墳からの出土品は「​瀬戸蔵ミュージアム」で見ることができるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200410120605j:plain 本地大塚古墳、後円部(後)から前方方向の眺め。
仁徳天皇陵(今はこう呼ばないらしい)のイメージがあるけれど、こんもり部分は過去の開墾で削られてしまい、前に当たる台形の部分も短く、仁徳天皇陵の形をイメージして訪れるとギャップがあります。

f:id:owari-nagoya55:20200410120630j:plain 古墳の前から後方の後円部の眺め、右後方の高台が宝生寺になります。
城址があり、古墳も残り、寺社がある、ここから北の庄内川付近に行けば水晶も見付けられる、面白い地域です。
本地大塚古墳、古墳の主は分からないけれど、こんもり部分の一本の桜が手向けるように見頃を迎えていました。
2020/04/05

「本地大塚古墳」
公共交通機関アクセス / 名鉄バス基幹バス「尾張瀬戸駅」行、「本地」下車、南東へ徒歩5分程 
住所 / 瀬戸市西本地町1-109