和歌山県紀の川市粉河寺 『中門から本堂』

粉河寺(4/5)の今回は中門から本堂の伽藍を見ていきます。

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盥漱盤から先の石段、その先の中門。
入母屋瓦葺きの三間二戸の楼門で軒の出と高さのバランスが良く威風堂々とした佇まいをしています。
左右の間に四天王像を安置しています。

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中門
棟札には明和年間(1764年~1772年)に着工、1832年(天保3)に完成したという。
とても長い年月をかけ作られたものです。
「風猛山」の扁額は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

f:id:owari-nagoya55:20201011194919j:plain石段から扁額が掲げられた軒の眺め。
木鼻等彫が施されていますが、この門を見て印象に残るのが各柱の斗栱。
重さを分散しつつ見た目も意識して一つの形にする先人の工夫は素晴らしいものがある。
首は疲れるけれど、じっくり見上げて見たい門です。

f:id:owari-nagoya55:20201011194940j:plain「西国第三番霊場粉河寺」山号額も趣がある。

中門も想定外の所に千社札が貼られています。
門を造る知恵もさることながら、貼る知恵は凡人には想像できないものがある。

f:id:owari-nagoya55:20201011195017j:plain軒下の「風猛山」の扁額。
紀州徳川十代藩主の徳川治宝(はるとみ)の直筆とされます。

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中門の正面左の間に安置されている多聞天(毘沙門天)。
左手に宝塔を持ち北を守る。

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正面右の間から西を守る広目天
左手には羂索を持っている。

f:id:owari-nagoya55:20201011195201j:plain中門から振り返り、大門に続く石畳と盥漱盤、太子堂方向を眺める。

f:id:owari-nagoya55:20201011195222j:plain中門裏側全景。
こちらも左右に四天王が安置されています。

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f:id:owari-nagoya55:20201011195305j:plain左の間に安置されている南方守護担当の増長天

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右の間に東方天の持国天が安置されています。
これらの四天王、作者など詳細は分かりません。
彼らを保護する網があり写真では伝わらないけれど実物はかなりのイケメン。
イケメンを収めたいがために網に穴が開けられている、ここにも知恵が。

f:id:owari-nagoya55:20201011195414j:plain中門をくぐると左手に本堂の全景が広がります。
右に本堂、中央の朱色の鳥居は粉河産土神社、更に左が千手堂。
手前の石庭は本堂に続く石段を挟んで東と西に別れ、敷地の高低差(3㍍程)を生かし巨石で組まれた枯山水の庭園です。

f:id:owari-nagoya55:20201011195433j:plain粉河寺庭園
県内の庭園では養水園と並び二大名園に数えられ、使われている石も緑(青)や茶、黒(紺)等、多様な石を使い一つの山とそこから流れ落ちる滝を表現している。
西庭の解説によれば桃山時代に作られたとある。
写真では大きさが伝わらないけれど、傍で眺める石の大きさや数、それらを巧みに配し作り上げる人のエネルギーと知恵には驚くばかりだ。

f:id:owari-nagoya55:20201011195456j:plain境内左に水向地蔵堂と丈六堂。

f:id:owari-nagoya55:20201011195516j:plain水向地蔵。
塔婆に水を手向け、亡き人の冥福を祈る事からこの様に呼ばれる。

f:id:owari-nagoya55:20201011195540j:plain丈六堂。

f:id:owari-nagoya55:20201011195605j:plain身の丈が一丈六尺(約4.84㍍)の阿弥陀如来像を安置する堂。
解説によれば1806年(文化3)に再建され、1982年(昭和57)に補修の手が入ったようです。

f:id:owari-nagoya55:20201011195628j:plain堂内の阿弥陀如来座像。
優しい眼差しと穏やかな表情で訪れた者を見つめる姿は思わず拝みたくなる。
光背などの亀裂、彩色や金箔も剥がれ像の劣化が見受けられます。
こちらにも修復の手が入るといいのだが。

f:id:owari-nagoya55:20201011195648j:plain粉河寺本堂。
とても複雑な作りの本殿、入母屋に破風が施され、複数の棟が組み合わさり、折り重なるように屋根と破風が付く。
八棟造りと呼ぶそうですが、力強く堂々としていながら、落ち着いた印象を受ける。

f:id:owari-nagoya55:20201011195707j:plain本堂正面全景。
西国三十三ヶ所の寺院の中では最大の本堂と云われる。
奈良時代の770年(宝亀元年)に創建とされ、現在見る姿は1720年(享保5)に再建されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20201011195729j:plain江戸時代中期の寺院建築を代表する建造物とされ、内陣の厨子には本尊で秘仏の千手千眼観世音菩薩が祀られている。
本尊の千手千眼観音菩薩は絶対秘仏で内内陣の地中に埋められているという。

ここも当然ながら千社札が溢れている。

f:id:owari-nagoya55:20201011195748j:plain寺紋の井桁が描かれた大きな赤提灯。
大きな屋根の下の広い拝所、おびんずる様もあり、この奥には外陣、内陣と続く。
この大きな拝所は外陣と呼んでもいいくらいの大きさ、外外陣とでも云えばいいのかな。

f:id:owari-nagoya55:20201011195811j:plain本堂西側からの本殿斜景。
複数の棟と其々に破風が付けられ、見た目に立派。
云い方を変えると増築〃を繰り返したのか?と思える。

f:id:owari-nagoya55:20201011195830j:plain本堂脇の解説
「本尊の両側には侍者として28部衆、内陣の背面に裏観音、東に鬼子母神、西に不動明王大日如来閻魔大王、その他諸仏が祀られている。」

f:id:owari-nagoya55:20201011195850j:plain本堂左の千手堂。(右が粉河産土神社、現在写真取り纏め中)
瓦葺方型の建物で宝暦1767年(宝暦10)の建立とされる。
堂内は正面に千手観世音菩薩が安置され、その両側に歴代の紀州藩主と所縁のある方の位牌が安置されていると云う。
本堂の本尊は絶対秘仏、こちらの千手観世音菩薩は御開帳され、その姿は本尊のお前立に似た木像の様です。
御開帳の時期は不定期、直近では2008年、2017年、2020年の三回だったようです、不定期というのが一番困ったものです。

千手堂から神社に向かいたいところですが、ここから本堂に戻り境内右側を見て廻ります。

f:id:owari-nagoya55:20201011195910j:plain湯浅桜と六角堂。
湯浅桜
紀州湯浅(現在の和歌山県)の住人藤原宗永が、本寺の本尊千手観音のお告げで本堂の東南方向に植えたとされるのがこの桜の木。

f:id:owari-nagoya55:20201011195931j:plain六角堂
瓦葺の六角堂は1720年(享保5)の建立で、1995年(平成7)に補修の手が入る。
内部に西国三十三観音が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20201011195950j:plain境内奥に巨大な楠木が聳えています。この根の張りは半端なものじゃない。
これを見てしまうとシンボルツリーに楠木は向かないね。

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本堂右の鐘楼。
左手の赤い鳥居は粉河稲荷神社に続きます、右手奥は薬師堂。

f:id:owari-nagoya55:20201011200726j:plain鐘楼の先に地蔵菩薩像。
1564年(永禄7)に砂岩から作られたもので、高さは2㍍10㌢の地蔵菩薩像。

f:id:owari-nagoya55:20201011200746j:plain薬師堂。
粉河寺境内の一番東にあたり、大きな向拝が付けられた寄棟瓦葺の堂。
薬師如来を安置す眼病を初め諸病平癒祈願の仏である」

f:id:owari-nagoya55:20201011200805j:plain薬師堂の左の粉河稲荷神社参道。
ここから先は粉河産土神社で記載します。

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西国33所巡りの第三番札所、風猛山 粉河

開創は770年(宝亀元年)と云われ、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北4キロ余の境内地と寺領四万余石を誇っていた、1585年(天正13)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。
後の紀州徳川家の庇護と信徒の寄進により、江戸時代中期から後期にかけて現在の諸堂が形作られ今に残ります。
個人的な見所は金剛力士の赤い大門、四天王の中門、西国33所巡りの寺では最大で複雑な屋根構造の本堂等で他にも芭蕉の句碑など見所は多い。
剪定が行き届いた境内は、とても居心地のいい時間を与えてくれる。
四季それぞれに色々な表情を見せてくれる寺だと思います。

さて、次は粉河産土神社に参拝です。

「風猛山 粉河寺」
創建 / 770年(宝亀元年)
山号 / 風猛山
本尊 / 千手千眼観音菩薩
西国33所巡り / 第三番札所
住所 / 和歌山県紀の川市粉河2787
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