粉河寺の最後となる今回は本堂左の千手堂の右から粉河産土神社方向を見ていきます。
千手堂の右奥が赤い鳥居が「粉河産土神社」
鳥居に続く石段の左に行者堂の案内、まずはそちらに向かいます。
石段左の小路を進み行者堂へ。
先が見えない道はどれだけ歩くのか不安になるけれど、この看板から50㍍(1~2分)もあれば行者堂です。
行者堂、瓦葺のこぢんまりとした建物。
石段を登ると森の一画を切り開いて造られた小さな空間、中央のこぢんまりとした建物が行者堂。
役小角(神變大菩薩)を安置し、年に一度正面の扉が開放されるそうです。
神社への参道は二通り。
右の赤い矢印が本堂右側の薬師堂から、左が写真の石段のある場所。
入口左、延暦年間に始まったとされる「粉河祭礼渡御式縁起」の解説。
この渡御式は二年に一度開催されるそうで、とんまか通りを複数のだんじりが曳航されるそうです。
石段の先にある朱の鳥居をくぐると境内が広がり、拝殿が迫ります。
おんどり石
『鎌倉時代末、元寇の時、元の大軍を前に日本の武士たちは勇敢に戦ったが大苦戦で退去を余儀なくされた。
その際、当社の祭神丹生大明神が鶏に乗り現地に赴き、神力で大風吹き起こした。
元の軍船は殆ど難破し、沈没して全滅した。
所謂、「神風」で敵を退けたのである。
この鶏が石となって産土神社境内に坐り続けて神社を守護している。
更に正月三日にはこの「おんどり石」が一声鳴いて石段を登ると云われ、鳴き声聞くものは長生きをすると言われている』
所謂、蒙古襲来。
「文永の役(1274年)」、「弘安の役1281年)」大陸からの二回の侵略を受けます、何れも神風により救われますが、その風を起こしたのが鶏に乘った丹生大明神だという。
拝殿
風猛山を背にして鎮座し、春日造の本殿が二棟並んで鎮座しています。
現在の本殿は江戸時代に再建されたものという、
創建は770年(宝亀年間)に粉河寺創始に際し、鎌垣庄の各村の氏神を勧請したのが始まりとされます。
祭神は丹生都姫命(にうつひめのみこと)、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を祀ります。
産土神はその土地の守り神、それらを纏めて祀る神社が粉河産土神社。
中央の大麻で身を払い、二礼、二拍手、一礼。
拝殿にはこちらに勧請された各村の氏神が記されています。
拝殿から春日造の本殿の眺め。
煌びやかな彩りで各所に彫飾りが施されています。
本殿域左に須佐神社、大神社の二社が鎮座するようです。
天福神社。
耳垂れでややスリムな容姿の天福神社狛犬。
とてもシンプルな天福神社の額。
天福神社本殿全景。
祭神は天降大明神を祀り、擬宝珠の銘に1727年(享保12)と刻まれているという。
その両脇を小さな陶製?の狛犬が守護しています。
本殿左に熊野社、吉野社の二社が鎮座するようです。
天福神社から鳥居方向の境内。
奥の右側に「ピーちゃん」と呼ばれる孔雀が飼われています、今一つ愛想がない。
それに比べ「癒しの黒猫タンゴ」、この子は愛想がいい。
手前の粉河産土神社から天福神社の眺め。
境内は更に右手に広がります。
天福神社から右手に進むと遥拝所。
左に猿田彦碑。
更に進むと複数の社。
手前の赤い社は左から楠神社、一言神社、多賀神社、日吉神社、北野神社が祀られています。
その右が護国神社。
その右が粉河稲荷大明神の鳥居。
粉河寺薬師堂の鳥居から来るとこちらに続きます。
正面を向いた狛狐が守護する粉河稲荷大明神。
5回に分けて記載した「西国第三番霊場 粉河寺」。
多くの伽藍や句碑等見所が多く、境内の樹々や花の種類もいろいろあり、四季それぞれに表情を変え楽しませてくれそうです。
「粉河産土神社」
創建 / 770年(宝亀年間)とされる
祭神 / 丹生都姫命、天忍穂耳命
「天福神社」
創建 / 不明(擬宝珠に1727年(享保12)の銘)
祭神 / 天降大明神
住所 / 和歌山県紀の川市粉河2787
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