勝手神社と勝手塚古墳

名古屋市守山区上志段味中屋敷庄内川左岸の東谷山の西に鎮座するのが「勝手神社」
志段味と云えば大小様々な古墳が点在する「志段味古墳群」で知られています。
この辺りの神社を巡ると好む好まざるにかかわらず古墳を知る事になります。

f:id:owari-nagoya55:20201107173824j:plain 『勝手神社』は県道15号線(名古屋多治見線)上志段味交差点から少し南に入った、勝手塚児童遊園所地の一画に鎮座しています。
参道はその南で、社号標からは木々が生い茂る小高い杜へと続きます。

f:id:owari-nagoya55:20201107173845j:plain 参道を進むと境内が広がり、左手に手水舎と右に勝手神社の由緒が記された石碑があります。

f:id:owari-nagoya55:20201107173912j:plain 勝手社由緒
御祭神 天忍穂耳尊天照大神日本武尊大山祇命
例祭日 10月15日
寛文覚書(1671年)
「社三か所。勝手明神、山之神、大明神」の記録有り、既に寛文年代、村内に三社の祭祀せられし事確実なり。
内二社の社伝明らかならざるも張州府史(1752年)に「南朝移民乱を避けこの村に移り住んだ際芳野神社に請けひて之を建つ」と勝手神社の由来記述される。
また「南北朝(1334~1339年)の頃、水野又太郎良春、吉野山の勝手明神を勧請した」との言い伝え有り。
明治四十二年六月一五日、勝手明神の鎮座ましますこの地に川原一三五番地より八剱大明神の御祭神 天照大神日本武尊
上島七六一番地より山の神神社の御祭神大山祇命を移し合祀した。」

水野良春は南北朝時代奈良県吉野の金峰山寺の僧兵で、南朝方として戦っていましたが、父祖の地である志段味に戻り志段味城を築城し新居村の開拓や勝手神社の勧請、無二琉の棒の手を広めたとされる。
尾張旭市新居町寺田の退養寺には、良春や一族の墓と伝えられる宝篋印塔と五輪塔があるといいます。
また行くべきところが増えたようです。

f:id:owari-nagoya55:20201107173937j:plain 拝殿に続く石段、結構な斜度のあるこの丘はそれ自体が古墳、社殿は墳丘の上に建てられています。
その石段の前に一対の狛犬と手前左に石標「志段味古墳群 勝手塚古墳」が建てられています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174001j:plain 境内から神社全景の眺め。
玉垣の曲線は古墳の形を表しています、この古墳は丸と台形が繋がった帆立貝の形をしていることから帆立型古墳と呼ばれるそうです。
手前の一際こんもりした部分が社殿のある帆立の身が入っている部分、奥の低いこんもりが後円部分。
墳丘全体に樹々が生い茂り、遠目から古墳だとは思えないかもしれませんが、郊外の区画整理がされた地域に残るこんもりは何かがあるものです。

f:id:owari-nagoya55:20201107174026j:plain 石段の前で神社を守護する狛犬は色白で薄化粧が施されています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174049j:plain 墳丘に付けられた石段は短いながら傾斜は結構あり、その先に切妻瓦葺の拝殿も見えています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174112j:plain 拝殿には額はなく素朴な鈴が付けられ、音色も重厚でも、軽やかでもない素朴な音色。
墳丘の上は広くはない、拝殿と本殿の全景を一枚に収めるには無理があるようです。

f:id:owari-nagoya55:20201107174135j:plain 拝殿右から本殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20201107174157j:plain 本殿の右に小さな社は社名札はなく詳細は分かりません、右には廿二夜と刻まれた石標、月待塔があります、社の左にも小さな石の祠もあるようです。

f:id:owari-nagoya55:20201107174223j:plain 本殿全景。

f:id:owari-nagoya55:20201107174252j:plain 拝殿左から本殿域の眺め。
こちらにも社があります。

f:id:owari-nagoya55:20201107174312j:plainこちらも社名札はなく詳細が分かりません。
取り敢えずお参りはしたものの・・・・・どなたにお参りしたのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20201107174333j:plain 狛犬の所に戻る、墳丘沿いにこうした円筒埴輪が置かれています。
神社の建つ墳丘はぐるっとひと回りする事ができます。

f:id:owari-nagoya55:20201107174355j:plain 墳丘北側から周提と周濠の眺め、古墳の面影は強く残っています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174419j:plain 北側から社殿の眺め、結構な盛り上がりを見せています。
後円部分の高さは6㍍を越えると云われますが、こうして見上げると数値以上の高さを感じます。

f:id:owari-nagoya55:20201107174447j:plain 前方側から社殿全景。

f:id:owari-nagoya55:20201107174508j:plain 勝手塚古墳解説。
「志段味古墳群は濃尾平野の東端に位置し、4世紀前半から7世紀末に総数70基の古墳から構成されています。
勝手塚古墳は6世紀初めごろに築かれた長さ約53㍍の帆立貝式古墳。
墳丘とその周りをめぐる濠と堤が良好な状態で残されています。
県内でも堤を持つ古墳は少なく、堤の高まりを現在も見ることが出来る点で貴重である。
後円部の平坦面には埴輪列の一部を復元しています、この古墳は庄内川流域の有力勢力を率いた首長の墓と考えられる」

f:id:owari-nagoya55:20201107174532j:plain 前方側のこんもりにも石段が付けられテラスに続きます、その上にも社があります。

f:id:owari-nagoya55:20201107174558j:plain 帆立貝の下の部分の眺め。
高さは2㍍程で北側の片隅に二社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174627j:plain 社のある北側の全景。

f:id:owari-nagoya55:20201107174657j:plainこちらも社名札はなく詳細不明。
台座は近年建て替えられたようで石の白さが際立っています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174718j:plain 社の間に御嶽神社
石が組まれたその上に覚明霊神碑が1基建てられています。

f:id:owari-nagoya55:20201107174741j:plain 左の社も詳細は分からない。
由緒がしっかり記されているだけに、社名札がないのは少しもったいない。
それでもどなたか分からないけれどお参りさせてもらおう。

以前のこの辺りから比べると劇的に住環境が良くなり、今後も更に変わっていくのでしょう。
新しいものと古いものが共生する町であり続けて欲しいものです。

2020/10/18

『勝手神社』
創建 / 不明
祭神 / 天忍穂耳尊天照大神日本武尊大山祇命

『勝手塚古墳』
古墳形式 / 帆立貝式古墳
墳長 / 約55㍍
築造 / 6世紀頃
住所 / ​名古屋市守山区上志段味中屋敷1463番地
公共交通機関アクセス / ​ゆとりーとライン大曾根⇒上志段味降車、南へ徒歩5分程