「綿神社」平手政秀の諫死が信長を変えただろうか?

名古屋市北区元志賀町「綿神社」
市営地下鉄名城線「黒川」駅で下車し、国道41号線沿いに10分程北上した西側に鎮座する神社。
東隣に曹洞宗「霊源寺」が隣接しています。

f:id:owari-nagoya55:20210102181719j:plain 右は社頭から眺める境内、社号標が右に建ち、参道を少し入り一ノ鳥居がある。
間口は広いものではない。
社頭左には名古屋市教育委員会の解説板がある。
延喜式に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式ある神社。
・譽田別命、玉依比売命神功皇后を祀る。
・社名の由来は祭神の玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来する。
・戦国時代の武将平手政秀がこの地に屋敷を構え、荒廃した社殿を再興した。
・鏡と手彫りの狛犬を奉納し主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を祈願した。

平手政秀は織田信秀、信長と二代にわたり重臣として支えたが、信長の奇行を憂い自らの死をもって諫めたとされる。政秀の屋敷はここから西の志賀公園内に碑が残っている。
麒麟に登場した平手政秀は上杉祥三さんが演じていた。

f:id:owari-nagoya55:20210102181729j:plain 社頭左に綿神社由緒。

f:id:owari-nagoya55:20210102181800j:plain主祭神 玉依比売命応神天皇(譽田別命)
・創建は弥生前期に九州からこの地に定住した「安曇部族」により九州「志賀」の祖神、海神「玉依比売命」を祀り「海神社」と称した。
延喜式にも「尾張山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同列の社と記されている。
・本国帳にも従三位綿天神、綿は海の仮字で昔はこの辺りまで入海だった。
・志賀村領主平手政秀は信長の奇行に心痛ませ天文21年(1552)綿神社を再建、「願主政秀」と刻んだ鏡と手彫りの狛犬を奉納、その祈願も空しく翌年に諫死した。
・政秀の死後信長は態度を一変、天下平定の基を開いたのは政秀の忠誠によるもので、政秀なくば郷土三英傑の出現は疑問。
・綿神社は尾張藩主の崇敬も厚く「別社児子宮」もあり、祭礼の際に子供を連れ参拝する様は尾張名所図絵」にも描かれている。
・慶長以降再建は数度あり、現社殿は太平洋戦火で焼失、昭和45年に完工されたもの。

古くから伝わる神社であり、当時この辺りまで海が迫っていた気付きもあるけれど、今は平手政秀の印象の方が強い神社かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210102181810j:plain 一ノ鳥居。
コンクリートの壁で区切られた参道は遥か先のニノ鳥居まで続いています。

f:id:owari-nagoya55:20210102181821j:plain 二ノ鳥居。
境内はここから左右に広がり、左から手水舎、社務所、拝殿、境内社が祀られています。
社頭からは想像できない程境内は広い。

f:id:owari-nagoya55:20210102181908j:plain1950年(昭和45)に再建された拝殿。
入母屋瓦葺で妻入りのコンクリート造り、築後間もない事もあり古びた印象はない。

f:id:owari-nagoya55:20210102181920j:plain 社務所前の手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20210102181930j:plain 拝殿前の狛犬、阿形の表情はどことなくユーモラスなもの。

f:id:owari-nagoya55:20210102182016j:plain 大きな向拝を持つ拝殿の左に参道が続いています。
拝殿右に瑞玉稲荷大明神と四十八祖神が祀られる。

f:id:owari-nagoya55:20210102182027j:plain

f:id:owari-nagoya55:20210102182039j:plain 拝殿に掲げられた扁額も社殿同様新しいものです。
拝殿内から本殿方向、内部も綺麗なもの、まずは参拝。
このご時世なのか鈴や鈴緒などは吊るされていなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210102182124j:plain 本殿もコンクリート造りのようです。

f:id:owari-nagoya55:20210102182134j:plain 本殿域にも社があるようですが詳細は分かりませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210102182143j:plain 千木は外削ぎだ。

f:id:owari-nagoya55:20210102182225j:plain

f:id:owari-nagoya55:20210102182237j:plain
 拝殿左から奥に続く参道の先には大きな御神木が聳え、そこには2社が祀られています。
鳥居のある右の社は「龍神社」とあるが社には「白龍社」と記されている。
今でこそ高速の高架が聳え、住宅が広がる地域だけど、少し前の一面田畑が広がる頃を思うと、龍神さまはつきもの。
左は「御嶽神社」。

f:id:owari-nagoya55:20210102182330j:plainいかにも御嶽神社の姿です。
石で小高く組まれた頂に社が祀られ、麓にかけ霊神碑と不動明王に仕える三十六童子八大童子の像が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20210102182344j:plain 拝殿右の二社が瑞玉稲荷大明神(左)と四十八祖神(右)が祀られる。

f:id:owari-nagoya55:20210102182359j:plain 右側の「四十八祖社」

f:id:owari-nagoya55:20210102182449j:plain 綿神社を再建した平手政秀の息子久秀は、信長の怒りにふれ放免を願った政秀の願いは聞き入られず政秀は自刀。政秀を追うように47人の家臣も自刃、それを伝えようと馬を走らせていた家臣は、その道すがら信長の使者と遭い放免の知らせを聞き悔しがったという。その家臣も47名の後を追うように自刀したと云う。この神社は亡くなった48名の霊を鎮めるために四十八祖社として祀られたとされます。
信長の怒りの発端は一説に信長が久秀に「久秀の馬を献上しろ」、「できない」という事が発端だったとされます、馬は刀同様に武士にとってなくてはならないもの、頑なに拒んだことは頷けなくもない。
これを機に創建されたという事であれば創建は1553年頃という事だろう。

さあ今の世の中、ここまで上司に意志を貫き、忠誠を誓う者たちがいるだろうか?
本殿域には二社が祀られ、右が四十八祖社、左が富士本宮浅間大社秋葉山本宮秋葉神社の合祀社。

f:id:owari-nagoya55:20210102182507j:plain 瑞玉稲荷大明神
こちらについては伏見稲荷から勧請されたもの思いますが、年代等の詳細は分かりませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210102182519j:plain 拝殿の軒先に元気よさげな飾り瓦、これは犬ではなく獅子だろうか?
獅子、犬、狼、どちらにしても今一つ自信をもって識別できないところがもどかしい。

拝殿から社頭の眺め。
訪れたのは2020/12/17、こちらの紅葉スポットは意外に少ないようです。

「綿神社」
創建 / 不明
祭神 / 玉依比売命応神天皇
境内社 / 四十八祖社、瑞玉稲荷大明神龍神社、御嶽神社
住所 / ​名古屋市北区元志賀町2-53
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「黒川」駅から北に徒歩10分程