以前掲載した「綿神社」
神社を再建した平手政秀。
天文22年(1553)信長の奇行に対し自らの死をもって諫めようとした政秀。
政秀の戒名は政秀寺殿功菴宗忠大居士政秀。
政秀の領地だった小木山に信長は彼を弔うため寺を創建したという。
瑞雲山・政秀寺と称した寺はその後の1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで焼き払われ、その翌年に信長は政秀寺を清須に再興させますが、後の清須越しに伴い寺と政秀の墓所は現在の名古屋市中区に移設される事になります。現在、政秀の墓標は平和公園西側の政秀寺墓地の高みに移されています。
平和公園西側の案内図、政秀寺墓苑は赤丸部分。
平和公園の西にあたり、高みからは政秀が再建した「綿神社」や「末森城」のある西方向が見渡すことが出来ます。
高みにはピラミッドの如く墓標が建てられ、極楽地蔵尊が安置されています。
極楽地蔵尊のある高みの一番東側、樹の右が政秀の墓標。
平手政秀墓標。
当時の墓標とするならば既に5世紀を経ようとしている、墓標の中ほどのひびが時代の流れを感じさせる。
墓標後方には政秀が自刀した天文22年(1553)が刻まれています。
2021/1/4
平手政秀墓標
住所 / 名古屋市千種区平和公園2丁目
関連記事 / 綿神社