太地町森浦『蛭子神社』

熊野三山を巡った際に車中泊で利用した「道の駅 たいじ」
静かなロケーションと綺麗な設備は快適な車中泊を提供してくれました。

昨日ここを通った時に山側に玉垣で囲われた、赤い屋根の神社を見かけていた、近ければ寄ってみようと思っていたが道の駅からこれ程近いとは。

f:id:owari-nagoya55:20210501154748j:plain日の出と共に目覚め、道の駅から海岸沿いに延びる国道42号線を歩き出す。
穏やかな森浦湾を眺めながら海岸線を歩く、道の駅から5分くらいです。

f:id:owari-nagoya55:20210501154805j:plain「非核平和自治体宣言」、1980年にイギリスのマンチェスター市が核兵器の廃絶や軍縮を求める活動として「非核兵器地帯」を宣言し、その後世界的に広まり、国内でも9割近くの自治体が宣言しているという。
ここ太地町も1988年にこの運動を宣言した。
自治体により内容は様々ですが、3.11以降原発についても言及する内容が盛り込まれてきているようです。途轍もなく多くの非日常を引き起こし、日常に戻すには莫大な金が必要で、人の英知が自然を超越できなかった事を当事国として学んだ、はず・・・・・
穏やかな森浦湾とこの宣言、学ぼうねと語っているようだ。

小高い山を背に、森浦湾を望む様に鎮座する神社。
訪れた時期が2月末、樹々の芽吹きが勢いを増す前という事もあり、あの赤い屋根は国道を走っていても目立つ存在です。
苔むした境内、左に社務所、本殿と境内社が祀られているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210501154827j:plain鳥居左の石標には「蛭子神社」とあります。
海を前にして佇む姿は鯛を持ち微笑む恵比須さまを連想します。
後日、和歌山県神社庁の解説から主祭神事代主神とされていました。

f:id:owari-nagoya55:20210501154843j:plain蛭子神社の社殿棟札には「文化十三(1816)年寅九月」とあるそうで、文化年代以前より昔から、生産の神さま、漁業の神さまとして近隣の人々の信仰が厚かったという。
現在「森浦地区住民の氏神さま」として祀られ、崇められている。

神社庁解説の続きは以下
紀伊風土記』によると、太地町森浦は那智荘の森浦村にあたり、「大田荘市屋村の東十九町許にあり、一小海湾なり、村の艮三町に元浦といふ所あり、村居旧其地にあり、元浦に糟森といふ山あり、村名是より起れり」とある。
村内に「小祠一社」「小堂一宇」あり、この小祠1社が蛭子神社であろう。
与根川河口の沖積地に位置し、森浦湾に面し、太地との境の旦那山(城山)に泰地氏の頼子城があったと伝える。
近世の森浦村は、太田組に所属し、村高は『慶長検地高目録』で53石、『天保郷帳』『旧高旧領』とも62石、浅野忠吉領時代では高53石余、家数11軒であった。
文政元(1818)年の『森浦村郷帳』によれば、村高53石余、田畑反別田3町4反余、畑6反余、家数20軒、人数132名、船数7、網数6であった。
(『太地町史』より)
半農半漁の性格を持ち、水主役を負担する浦方とされた。
明治4年新宮縣を経て和歌山縣に所属、明治6年には、戸数38戸、男102名、女98名であった。
明治12年東牟婁郡に属し、明治22年太地村の大字となった。
明治24年には、東西16町、南北14町、戸数42戸、男120名、女127名、小船16であった。大正14年からは、太地町の大字となる。
森浦の面する森浦湾は、湾口から湾央にかけてくびれ、湾奥の森浦は袋状になっており、湾底は粘土混じりの砂礫質で碇のかかり良い上に、三方を山に囲まれている為、天候の悪い時でも波が静かである。
帆船時代には、太平洋における屈指の良港として、台風襲来時期には熊野灘を航行する大小の避難船が100隻を超えて湾内を埋め、帆柱が林立したという。

「帆柱が林立」、確かにここから眺める湾はさもありなんだ。想像しただけでも壮観だっただろう。
穏やかな湾に筏が浮き、気分的にはシーカヤックで繰り出したくなる。

f:id:owari-nagoya55:20210501154905j:plain赤い玉垣で囲われた本殿域は赤い覆屋の中に流造の本殿と右に不明社鎮座し、右に赤い鳥居の稲荷社。

f:id:owari-nagoya55:20210501154922j:plain拝所から本殿全景。
切妻妻入りの赤い覆屋は良く目立つ、正面からは本殿は見通せない。
いつものように僅かな賽銭大きな願い、早朝の締まった空気が漂う境内に拍手の音が普段より大きく聞こえる。

f:id:owari-nagoya55:20210501154938j:plain本殿域の真紅の社、携帯では拡大も限度がある、詳細は不明です。
稲荷社からだと本殿は流造なのが分かります。

f:id:owari-nagoya55:20210501154954j:plain手前左が稲荷社。

f:id:owari-nagoya55:20210501155011j:plain境内右の御神木。
いかにも何か宿っていそうな趣だ。

f:id:owari-nagoya55:20210501155026j:plain常夜灯には文政(1818~1831)と刻まれているが、下は・・・・上半分が読み取れない。

f:id:owari-nagoya55:20210501155044j:plain境内から森浦湾が一望できる。
薄暗い境内に差し込み始めた日差しは、苔むした参道を緑の絨毯の様に照らし始めました。

f:id:owari-nagoya55:20210501155104j:plain蛭子神社のお弓神事は、海を清め航海の安全や大漁を願う神事だという。
古くから伝わる神事で、宮司が社に向かい1本の矢を放つと、それを合図に人々が境内になだれ込み、セミクジラに似せて作られた「セミ」と呼ばれる木彫りの縁起物3体が取り付けられた的を壊し、セミや的の破片などを持ち帰るものだそうだ。
古代捕鯨発祥の地ならではの神事かも知れない。
2021/02/22

太地町森浦『蛭子神社
祭神 / 事代主神
創建 / 不明
境内社 / 稲荷神社,不明社
祭礼 / 10月17日(10月第3日曜日)、特殊神事 お弓祭(1月8日)​
​所在地 / ​和歌山県東牟婁郡太地町森浦139
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