稲置街道を行く 『神護山先聖寺』

稲置街道を行く、以前掲載した南古券の「津島神社」、そこで掲載した秋葉神社から徒歩で1~2分程犬山城方向へ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101218j:plain街道の左手に「神護山先聖寺」の寺号標と参道が現れる。
車1台通るのがやっとの狭い参道ですが、奥には駐車場もあります。
参道の左には「外町天満宮」の社標があり、その奥には「梅梢戯」と書かれた大きな山車の保管庫とその脇に「犬山の唐寺」と書かれた案内板があります。
視線の先に山門と特徴のある赤瓦の寺が見えています。

f:id:owari-nagoya55:20210518101235j:plain保管庫に掲げられた解説には外町の由来と「梅梢戯」について記されている。

「外町とは犬山城下町の外部の堀の外にできた町からきている。
ここは下本町の南に続く町で、以前は八幡町・九軒町・天神町などといったが、犬山城主成瀬正虎の頃、名古屋街道が開設され下本町との境に木戸が設けられたそうです。
町内には玉屋庄兵衛作のからくりで知られる犬山祭りの車山(やま)「梅梢戯」がある。」

犬山祭りは針綱神社の祭礼として1635年(寛永12)から続く歴史ある祭り、2016年(平成28)に全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されている。

ユネスコ無形文化遺産
犬山祭り、残念ながらこの歳になるまで縁がなく見た事がない、見ておくべきものかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210518101252j:plain参道から見る山門と摩伽羅の乗る本堂の眺め。
山門左に境内駐車場があります。

f:id:owari-nagoya55:20210518101311j:plain山門の趣は本堂の外観に比較すると見慣れたものです。

f:id:owari-nagoya55:20210518101329j:plain「不許葷酒入山門」の石標
臭いのある食べ物を食べたり、酒臭い者は修業の場に相応しくないからこれ以上は立ち入るな。
そんな内容です、今はまだ大丈夫だ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101346j:plain山号額の先に境内が広がり、左手に解説板が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210518101402j:plainコロナ禍に合ってどことなく響く教えだ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101417j:plain先聖寺沿革 
「當寺は禅宗黄檗宗(本山宇治の萬福寺開山隠元大和尚)の末寺である。
延宝四丙辰年(1676年)名古屋竹屋町より浄土真宗泉正寺という潰寺の号譲り受け、開山上州黒龍不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚<没元禄七甲戌年(1694年)>を請け熊野山先聖寺と称した。(現在の熊野町熊野権現之社東)

玉堂大和尚は博学大徳で城下はもとより近隣より参禅する者多く、町医鈴木玄察、内藤丈草など巨なる者あり蕉門四哲(其角、嵐由紀、去来、丈草)の一人丈草は玉堂大和尚より多大の影響を受け出家までした。
その時の歌に「身をかくす 浮世の外は なけれども のがれしものは 心なりけり」があり、句碑(昭和28年建立)木曽川辺にて「ながれ木や 篝火の空の 不如帰」がある。
享保御五乙未年年(1715年)来鳳和尚が現在の外町天神庵に移転し、神護山先聖寺に改め、諸堂を西向きに造立した。
享保十三戊申年(1728年)より密傳和尚が大施餓鬼を始め、仏殿を東向きにし、大門口を町並へ替え現在の門是なり。
昭和三十四年(1959年)の伊勢湾台風にて仏殿、鐘楼門等を倒壊した。
平成十六年(2004年)二月、儒教道教、仏教の三教一致の根拠地となるべく、黄檗風二層平屋建の本堂の建設に至った。
「三級浪高魚化龍」より登り口、柱、天井(黄光琳画)と散弾の龍を配し、屋根には摩伽羅をのせているのが特徴である。
納骨堂(宗派は問いません)
写経(第三日曜日十時半から十二時)
普茶料理(中国式精進料理)」

f:id:owari-nagoya55:20210518101435j:plain右手に子授かり地蔵と石の祠があり、右手が寺務所。

栞には本山萬福寺の創建として以下のようにも書かれている。
黄檗宗隠元隆琦を開祖とし、京都府宇治市黄檗萬福寺を本山とする。
隠元は1654年63歳で中国の黄檗萬福寺から来日した。
当初3年という年月を限っての来日であったが、江戸で将軍家綱と陰元を取り巻く状況が大きく変わり長く日本に留まることになった。
宇治の地に黄檗萬福寺が開創され我が国の禅宗臨済宗曹洞宗黄檗宗の三派となった。」
サラリーマンでもよくある事だね、行ったっきりとかは。

f:id:owari-nagoya55:20210518101453j:plain祠の中には石像が安置されている。

f:id:owari-nagoya55:20210518101512j:plain右手に錫杖、左手に巻物を持つこの姿、これは役行者だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210518101529j:plain本堂全景
大雄宝殿の一際大きな額が掛けられ、唐様式の彩色と外観は印象に残りますが、外観だけではなく他にも目を引くものが多々あります。

f:id:owari-nagoya55:20210518101544j:plain本堂石段中央に球を持つ龍をモチーフにした彫物があり、桃扉の先の本堂には本尊の他にも複数の仏像が見て取れる。

f:id:owari-nagoya55:20210518101603j:plain拝殿の軒を支える柱に施された龍の彫飾りは見事なものです、じっくりとひと回りして見るだけの価値はある。
御朱印を書いて頂く間は本堂の中で待つ事になります。
内部は写真撮影もOKという事です。

f:id:owari-nagoya55:20210518101622j:plain寺号額
本堂は外観から見ると二階建てのように見えますが、内部は天井まで吹き抜けになっています。

f:id:owari-nagoya55:20210518101639j:plain魚梛
檗宗の寺院特有の魚の形をした木製の鳴らしもので、時刻や食事の時を知らせるためのもの。
隠元禅師が渡来した際、日本に伝えたものと云われます。
木魚の原型ともいわれるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210518101657j:plain京都の萬福寺がそうであるように、本堂には弥勒菩薩の化身とされる布袋さんが中央に安置されています。
「さわり布袋」
どうでしょう、元は金地のものが触られまくって地色が見えてきています。
ふっくらとした顔立ちで表情はにこやかに笑みを浮かべています。
金運や財産の保全にご利益があるようです。

大雄宝殿の内部は中央とその左右の計三つの須弥壇が設けられています。
左壇は開山者の玉堂和尚坐像。
中央壇上は本尊の聖観世音菩薩坐像、左に達磨大師坐像、右に安置されているのは文殊菩薩のように見えます。
右壇には関聖帝君が安置されている、商売繁盛、入試合格にご利益がある。
その他にも小さな像が複数あります。

f:id:owari-nagoya55:20210518101714j:plain黄檗宗で龍は仏法を守護する八つの神様の一つ(龍神)で、黄檗宗のお寺の天井には龍が描かれる事が多く、先聖寺の吹き抜け天井にも写真の見事な天井画が描かれています。
こちらの住職は絵心があり、下絵を中国に送り、それを元に中国の画家により描かれたものだという。
住職が御朱印を書き終えるまでの時間、この躍動感ある構図で描かれた龍を眺めていられる。

f:id:owari-nagoya55:20210518101730j:plain蛇は大嫌いだがこうして綺麗描かれた龍を眺めるのは好きだ、ずっと見ていられる。

f:id:owari-nagoya55:20210518101747j:plain大雄宝殿左からの斜景。
右奥に見えているのは「外町天満宮」、こちらは日を改めて記載します。

「神護山先聖寺」
宗派 /  黄檗宗 
建立  /  1676年(延宝4)、現大雄宝殿は平成16年再建
本尊  / 聖観世音菩薩坐像
所在地 / 犬山市大字犬山字南古券48
秋葉神社からのルート / ​秋葉神社から北へ1~2分
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時間をかけ書いて頂いた見開きの御朱印
初めての方は必ずこれになり、以降は月に応じて絵柄を変えているようです。