富山県高岡市 越中国一之宮「氣田神社」

小竹薮駐車場から県道24号線、国道415号線と経由し富山湾方向へ。
小矢部川を越え、矢田交差点で左折すると正面に小高い丘陵地が見えてきます、その道の突き当りが氣多神社。
所在地で云うと富山県高岡市伏木一宮、地名に「一宮」と入るように、伏木はその昔国府国分寺が存在した越中国の中心だったそうです。
ここに到着する少し手前に国分寺跡、神社境内にも越中国総社跡の伝承地とされ解説板が建ち、越中国総社跡(伝承地)もあります。
927年に編纂された『延喜式神名帳』には名神大社として記される古社で、越中國一之宮を称する4社(射水神社気多神社高瀬神社雄山神社)の一つ。
一之宮御朱印のコンプリートを目指すかみさん曰く「幾つあんのよ」と云いたくなる気持ちも分からんでもない。

f:id:owari-nagoya55:20210526170949j:plain越中國一之宮 氣多神社社頭
駐車場は左にあり、更に道路を右に進んで行けば一気に社殿近くの駐車場まで辿り着けます。
社頭左に社号標そこから石段が続き、その先に鳥居が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210526171004j:plain駐車場から走ってきた道を眺めて見ます。
富山平野の先に富山湾、遥か先には残雪が残る立山連峰を望め、四季折々自然を移り変わりを目の当たりにできる羨ましい環境です。

f:id:owari-nagoya55:20210526171021j:plain駐車場脇の手水舎

f:id:owari-nagoya55:20210526171041j:plain苔むした山肌から龍が顔を出し、勢いよく清水が注がれています。

f:id:owari-nagoya55:20210526171058j:plain手水舎の左に「気多神社の清泉」
傾斜地の上に残る古い切株、その下の斜面に穴が開き、そこから絶える事無く湧き出る清泉。
昭和61年「とやまの名水」に選定されたそうで、看板には「煮沸して飲用」とある。
おかしなものは添加されていない、渓流の水とは違い地下から湧き出して来た自然からの恵み。
自然と云えば手水舎の柱に「くま出没注意」の気になる貼り紙もあった。
1分程坂を下ればそこは住宅街、そんなところに有難くない自然もいるようだ。
蛇よりはましか。

f:id:owari-nagoya55:20210526171114j:plain社頭の解説と下は境内で見かけた氣田神社略史。
一部抜粋した内容は以下。
734年(天平4)能登国気多大社から大己貴命(おおなむちのみこと)を分霊、勧請、氣田大神として越中國一之宮田神社となる。
757年(天平宝字元年)越中国から能登国が分立し、越中国射水、砺波、婦負、新川の四郡となり、能登・羽昨にある氣田大社を国府に近いこの地に勧請されたと云われ、一説には718年(養老2)に行基が開基したとも云われるようです。
1182年(寿永年間)と1550年(天文年中)上杉謙信など二度にわたり兵火に見舞われ伽藍を焼失。
1558~1570年(永禄年間)に現在の本殿が再建、1645年(天保2)に加越能大守「前田利常」が気多神社を崇敬し、本殿・拝殿などを修繕。
さして1859年(明治2)廃仏棄釈の令により、本地仏を旧国分寺跡の薬師堂へ遷す。
主祭神大己貴命奴奈加波比売命、配神は事代主命菊理姫命を祀る。

f:id:owari-nagoya55:20210526171133j:plain緩やかな石段を上りきると神明鳥居があり、石灯篭が続く参道は更に杜の中へ続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210526171154j:plain参道途中に神馬像、その後方が本殿に一番近い駐車場。
苔むした境内はこの辺りから左右に広がりを見せる。

f:id:owari-nagoya55:20210526172330j:plain左側の境内には石碑などが建てられていました。

f:id:owari-nagoya55:20210526171211j:plain拝殿が見えてきます、この石段が最後の石段。
訪れたのが日没間近とゆうことで、木々の間から西陽が差し込み幻想的な雰囲気を漂わせている。
参拝客はなく境内は静かさに包まれています、こんな時に後ろから音でもすると「出たか?」と考えたくもなる。 正体はかみさんなんですけどそれくらい静寂な空間でした。

f:id:owari-nagoya55:20210526171230j:plain鬱蒼とした杜の樹々、根は苔むした地表にまで現れ、自然の逞しさを感じさせてくれる。

f:id:owari-nagoya55:20210526171248j:plain参道左側の眺め、参道は二手に分かれ正面は拝殿へ、左手に進むと拝殿左側に回り込めるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210526171305j:plain石段を上り拝殿へ、狛犬がいますが逆光でシルエットになる。

f:id:owari-nagoya55:20210526171321j:plain狛犬
阿形後方の建物は「参集殿」

f:id:owari-nagoya55:20210526171337j:plain参集殿全景
狛犬の台座には1933年(昭和8)とある、大先輩だ。

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氣田神社拝殿
瓦葺で妻入りの拝殿は左右に回廊が付き、内部は幣殿と一つになっている。

f:id:owari-nagoya55:20210526171432j:plain拝殿に掛けられた額は「氣田神社」

f:id:owari-nagoya55:20210526171450j:plain参拝
拝殿内の内部はガラス張りで陽光が降り注ぎ明るい印象を受ける。

f:id:owari-nagoya55:20210526171511j:plain社殿全景
まだ日陰には残雪も残る。
本殿は三間流造の柿板葺で社殿は1558~1570年に再建され、国の重要文化財に指定されている。

f:id:owari-nagoya55:20210526171548j:plain本殿
緩やかな曲線を描く向拝は幣殿へ繋がり派手な飾りを廃したシンプルな外観。
本殿の正面に掛けられた「一宮」の額が見て取れる、解説によればさらにこの奥に「氣田大社」の額
が掛けられているという。
藤原行成の真筆とされ、小野道風藤原佐理と並んで三蹟の一人。
残念ながら奥に額らしきものは見えますが、おやじのカメラではこれが精一杯。

f:id:owari-nagoya55:20210526171726j:plain「一宮」の額
力強さの中に柔らかさもあり優しさすら感じる。
空海(弘法大師)の真筆とされ、豊富な知識と技量、優れた感性で文字を描く能書の達人で嵯峨天皇橘逸勢と共に日本三筆と称される。
後方に額は見えているのだが・・・・

f:id:owari-nagoya55:20210526171746j:plain拝殿左の御興堂

f:id:owari-nagoya55:20210526171806j:plain更に左の一段高い場所に玉垣で囲われた社があります。

f:id:owari-nagoya55:20210526171909j:plain大伴神社

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社殿は流造で越中國国守だった大伴家持が祀られているという。創建は1985年(昭和60年)、地元有志により境内に創建されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210526171935j:plain境内全景
彫りの深い二対の狛犬が守護している。

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上の狛犬は鳥居をくぐって最初のもので、胸に鈴をつけた彫りの深い体格のいいもの。
下は本殿前の狛犬
小柄な体ですが角が付いた愛嬌のある顔が印象に残る。

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大伴神社左から境内全景。
西に杜があり、陽が陰るのは速い、静かな境内に神々しさが一層ましてくる。

f:id:owari-nagoya55:20210526172234j:plain氣田神社、富山平野富山湾、遠く立山連峰を望む山麓に鎮座し、静かに時が過ぎていく空間を持った閑静な一宮だ。

さあ一路今夜の宿泊先を目指そう。
2021/3/23

御朱印
越中国一之宮「氣田神社」
創建 / 734年(天平4)
祭神 /  大己貴命奴奈加波比売命
配神 /  事代主命菊理姫命、

境内社 /  大伴神社
創建 / 1985年(昭和60年)
祭神 /   大伴家持
所在地 /  富山県高岡市伏木一宮1-10-1

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射水神社(小竹藪駐車場)から車でのルート / 県道24号線➡国道415号線➡矢田交差点で左折、​移動時間20分程