生駒吉乃が眠る「嫩桂山 久昌寺」間もなく長い歴史に幕を閉じる

早いもので今日から9月。
コロナだ、蔓防防止だの、緊急事態宣言だので今年も振り回されて暮れていきそうだ。
先月末、新聞やweb newsなどで以下の記事を見た。
信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕

「630年の歴史に幕」妙に魅かれ、このまま訪れる事無く消えゆくのを見送るのも後悔しそうな気がするので車で訪れてきました。
所在地は江南市田代町郷中、名古屋から下道で41号線と県道172号線を経由して50分程だ。
 

f:id:owari-nagoya55:20210901112557j:plain 周囲はまばらに住宅地が建ち、その中に青々とした稲が風になびく長閑な水田が広がる。
久昌寺はそんな環境の中に鎮座する。

以下は記事から久昌寺の抜粋になりますが。
織田信長の最愛の女性、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓が本堂西側にあり、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されている。
江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。
寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。

吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となり、長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。
信長は正室濃姫との間に子どもが授からず、吉乃は織田家の中で存在感があったとされる。
若くして亡くなったとされ、あの信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。
信長は香華料として660石を寺に与えたという。

周辺には吉乃と所縁のある龍神社などがある。
 

f:id:owari-nagoya55:20210901112629j:plain 現在の久昌寺(2021/08/31)
本堂や庫裏は遠目には大きな痛みもないように見えるが、瓦葺入母屋造りの屋根の一部は瓦がなくなり、それに伴い内部にも影響が出ているものと思われます。
こうして見る本堂は1925年(大正14)に建て替えられたものという。
庫裏は詳細が不明ですが、江戸末期のものではないかとされる。

境内には二つの社と観音堂があるが、いずれも朽ち果てていた。
既に精算業務を終え、本堂の額は取り外され、額の痕跡だけが残っている状態。
今更遅いが僅かな賽銭を入れる賽銭箱もなく、本堂の扉も固く閉じられていました。

そんな境内を一人清掃活動をされていた方に伺うと「既に堂内には何もなく、吉乃や信長の位牌も移された」とのこと。
なので寺の伽藍外観と存続が決まった生駒家歴代当主の墓を見るだけになる。
 

f:id:owari-nagoya55:20210901112656j:plain 写真は本堂西側の生駒家歴代当主の墓。
後方のこんもりは吉乃と所縁のある龍神社。

檀家や氏子の減少は寺社の存続に大きく影響している。
記事によれば檀家は10軒ほどという、これでは如何に歴史があろうが存続は難しい。

建物の取り壊しを惜しむ声や存続を希望したとして、それらを維持する資金がなければ遅かれ早かれこの道を辿る事になるのだろう。
もはや本業では維持できない、これが現実。
あっちこっち寺社を巡ってみると上手に発信し参拝客を引き付ける小さな寺社も多い。
資金難で喘ぐご時世、もう少し資金調達の策はあったのかもしれない。

龍神社の神職の方と僅かながらお話を交わすと「解体がきまってから当神社に訪れる参拝客が増えた」そうな。

現在の形で解体・廃棄されるようであれば、オークションを開いて貰えれば入札したいものもある。
衰退していく寺社を見ていると、なんとなく将来の日本を見ているような気がしてならない。
青々とした田んぼがひろがる長閑な光景から久昌寺は間もなくなくなる。

山号 / 嫩桂山
寺号 / 久昌寺
創建 / 至徳元年(1384年)
所在地 / ​江南市田代町郷中47