愛知県江南市「生駒屋敷跡・小折城跡」

江南市小折町八反畑「生駒屋敷跡」
生駒氏が大和より移住し、この地を拠点に大きな勢力を誇り、後に尾張藩重臣となった生駒家の屋敷跡で小折城とも呼ばれましたが、今はその遺構は残っていません。

f:id:owari-nagoya55:20210928091142j:plain現在は「生駒氏の邸址」として石碑が建立されているだけです。
以前生駒家の菩提寺「嫩桂山久昌寺」と「神明社江南市田代町郷中 を掲載しましたが、「生駒氏の邸址」はそこから徒歩で5分もかからず、久昌寺を訪れた際に併せて立ち寄るといいかもしれません。
現地へは久昌寺から東に進み、県道172号線で左に進み左手の布袋東保育園を目指してください。

f:id:owari-nagoya55:20210928091434j:plain保育園付近のフェンスに写真の「生駒屋敷跡ここ」の案内板があるのでこちらへ。

f:id:owari-nagoya55:20210928091452j:plain写真中央の一際高い樹の聳えるところが久昌寺、裏手と云ってもいいかもしれない。
因みに、この道を進むと生駒吉乃が収めた棟札が残る「龍神社」に至ります。

f:id:owari-nagoya55:20210928091514j:plain「生駒氏の邸址」の石碑は保育園の一画の南西角に建てら、現況は石碑と解説板のみ。

f:id:owari-nagoya55:20210928091533j:plain岩を組んだ基礎の上に建てられた石碑。
裏側には
「生駒氏の祖は藤原忠仁で、大和の生駒郷に山荘を建て子孫が住み姓を生駒と称した。
家広にいたって丹羽郡小折村に移り住み家名をあげた。
豊世豊政を経て、三世家宗の女久庵桂昌大禅定尼は織田信長の室となり信忠信雄岡崎信康の室を生んだ。
四世家長五世利豊は戦国の武将として大いに功績を立て、のちに利豊は尾張藩主に厚遇された。
六世利勝以後は、尾張藩に仕え四千石を領しこの地に邸を構え世々重臣であった。
なお当所には、明治十三年から四十年まで、丹羽郡中心の高等小学校が設置されていた。
いまこの地に保育園を建設するにあたり碑を建てて、その歴史を刻み由来を明らかにする。
昭和五十年九月吉日 江南市」とある。

f:id:owari-nagoya55:20210928091555j:plain生駒屋敷(小折城)の解説板

f:id:owari-nagoya55:20210928091616j:plain生駒氏は、大和国(奈良県生駒市)藤原忠仁公の子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいましたが、応仁の頃に戦乱が続いたので、尾張の小折に移り住みました。
尾張へ移ったのは応仁・文明の頃、前野氏の祖先・宗安が承久の乱に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼ってきたといわれています。
(前野氏由来記)生駒氏は灰(染め物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、大きな勢力をもつようになりました。
生駒氏三代家宗の娘・吉乃の方(幼名お類・久庵桂昌)は織田信長の室となり、信忠・信雄・五徳の二男一女を生み、織田家に対して重要な地位を占め、尾北の豪族として小折に城を構えました。
・・・・・以下省略。

小折城時期は定かではないけれど、生駒氏により築城されている、邸跡には駒屋敷絵図がある。

f:id:owari-nagoya55:20210928091632j:plain生駒屋敷絵図
これを見る限り邸跡は二の丸に位置し、北は桜雲ふれあい公園付近、南は久昌寺東の本丸、西は龍神社付近に及船溜まりを有した大規模な城だったようだ。
小牧・長久手の合戦以後、秀吉の頃に外曲輪の一部を崩し城としての姿を失い、以降は生駒屋敷として秀吉から引き続き居住する事が許された。

時は過ぎ、そんな生駒屋敷(小折城)も、現在は田畑となり、住宅が建ち平城の名残はこの碑がなければ感じ取れない。
吉乃あっての信忠、信雄、五徳だっただけに、吉乃と信長の出会いがなければそれも変わっていたのかもしれない。

生駒屋敷跡・小折城跡
所在地 /   江南市小折町八反畑147
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久昌寺から徒歩ルート /  ​県道247号線を北上、徒歩5分