江南市小折町八竜
地名からしてなにかを物語っている。
久昌寺西側に広がる水田の先に見える杜が久昌寺と所縁のある「龍神社」の杜。
水田に浮かぶ緑の小島の存在は、そこに神社がある事を物語っている。
「龍神社」、尾張名所図会に描かれた久昌寺には左上に八代竜王社として記されている。
生駒屋敷跡・小折城跡で記載したようにこの辺りは小折城西の丸にあたり、そこには吉乃御殿と記されている。
社頭の前が信長の側室生駒吉乃の御殿で、正室との間に子宝に恵まれなかった信長に、吉乃は信忠、信雄、徳姫と時代の流れに名を残す三人の子を産むが、産後の肥立ちが悪く二十九歳の若さで他界する事になった。信長と吉乃の逢瀬の場でもある。
上は尾張名所図会に描かれた久昌寺、黄色がやがて取り壊される久昌寺、赤が神明社、左上のピンクの部分が八代竜王社。
周辺の景色は変わったけれど、それ以外は現在も当時の面影を留めている。
竜神社社頭。
明神鳥居の先に木造の蕃塀、拝殿の伽藍が連なる。
上
村瀬健次郎公碑
下
龍神社の由来
生駒氏の氏神であり、信雄(信長側室吉乃の次男)の守護神でもある。
祭神は八台龍王。
境内社として知恵乃文殊社と源太夫社の二社がある。
護国豊穣の祭りは、大幣を飾り付けた奉納馬を疾走させる勇壮なもので、太平洋戦争中頃まで盛大に続いた。
埴原塚の由来
埴原家は八条流馬術の名手「埴原加賀の守」の葬地であり、龍神社前にあったが、土地改良事業の実施に伴いここに移された。
埴原加賀の守は諸国を武者修行中、鷹狩りに来ていた信長に召し抱えられ、後に清州の城代となる。
岐阜城落城直後、信長に「天下布武」の朱印状を与えられている。慶長三年(1598)に没す。
鳥居正面が吉乃御殿跡、現在社務所が建つあたり一帯が御殿だったという。
そこには小さな池と御殿の解説、力石と呼ばれる石が置かれています。
吉乃御殿跡
夫、土田弥平治(源太夫)を、1556年明智城の戦いで亡くし、喪に服した吉乃の前に現れた尾張の荒武者、織田信長。
二人は、ここ吉乃御殿で逢瀬を重ね、信忠、信雄、徳姫を授かるが、産後の肥立ちが悪く吉乃は二十九歳の若さで信長の願い空しく世を去ったといわれる。
口軽な小者であった、木下藤吉郎の人材を見抜き、信長と秀吉の「絆」となった吉乃は、近世の扉へと時代をいざなった。
力石の由来
祭礼時、生駒氏が家臣の者にこの石を担がせ、力試しをさせて五穀豊穣を願ったと伝えられる。
また、この地の門左衛門氏が音頭をとった事から、門左衛門石ともいう。
御殿跡に残る小さな池「雨壺池」と呼ぶそうな。
雨壺池の由来
一面池であったこの地に農民が水田を作った折り、干ばつに備える雨壺として残された。
厳しい干ばつの年、雨壺の水を運び、幼川(五条川)の水を入れ替え、持ち帰ると龍が暴れ狂って天に昇り、一転俄か雨を降らせたと伝えられる。
禅喜寺(後の久昌寺)の池に八大龍王が現れたという。
水神社の碑文と符合すれば至徳年間(1384~1387)足利義満(三代)時代以来の伝承である。
下に出てくる解説によれば昭和30年頃まで清水が湧き出していたという、その沸き水も今は止まってしまったようだ。
社頭から境内の眺め、右に社標「村社 龍神社」
周囲は杜に包まれているが、境内は空が開けて陽光がふりそそぐ明るく、手入れされた境内と相まって身を置いていても心地がいい。
控え柱の付く木造蕃塀は社殿とマッチした重厚感漂うもの。
入母屋瓦葺のこれは、拝殿か神楽殿か。
尾張名所図会に八大竜王社とあるように、『八大龍王』とは天竜八部衆に属する竜族の八体の竜王を(竜神)指し、難陀、跋難陀、娑迦羅、和修吉、徳叉伽、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の各竜王のことです。仏法を守護するとされ、日本では「祈雨・止雨の神」ともされます。
龍は蛇を想像させる想像の生物ですが、古来から「水の神」として信仰され、竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、祈りを捧げる雨乞いが頻繁に行われてきた。
幣殿前にはニノ鳥居と一対の狛犬が守護している。
龍神社は江南市や氏子による解説が整備されていて、初めて訪れた者にはありがたいものです。
境内清掃をされていた神職?の方の話によれば「吉乃が納めた棟札も残る」と伺った、そして是非とも知恵の文殊菩薩にも参拝くださいと勧められた。
境内右に鎮座し拝殿方向を向いて石の祠が祀られ、左に絵馬掛けがある。
【智恵の文殊菩薩】
本尊の文殊菩薩は、釈迦如来の脇侍としてお釈迦様の傍にあって智恵を司る仏である。
言い伝えによると、信長の家臣土田一族が屋敷に祭祀していたものである。
昔より大願成就霊験あらたかで、願い事を三回となえ、望み紐に願い事を書いた紙を縛り、日参を重ねると文殊の智恵が授かり、学業成就出世間違いないと言い伝えられている。
【由緒】
本国帳には従三位小田天神とあります。
現存する最古の棟札によれば、元和8年(1622年)岡崎城主徳川信康(家康の嫡男)の正室見星院(徳姫)と、生駒利豊(吉乃の甥)の再建となっています。
生駒氏の氏神で織田信雄(信長の二男)の守護神でもある。
往古より早ばつの時に村を上げて雨乞いをし、霊験が顕れ雨の恵みを受けた例もあるという。
構築物
【蕃塀】
木造で貴重な建築物で、尾張地方でも北部で多く見かける。
【燈籠】
天正12年の燈籠8尺 1本
元禄13年の燈籠8尺 1本
吊灯籠
六角鉄製1尺1寸 1個
境内社
【源太夫社】
戦国時代、濃州可児郡土田村土田城主二代目親重の次男として生まれた「土田弥平次」が祭神。
生駒家宗の娘「お類」=吉乃は弥平次に嫁いだが、明智城の戦いで夫の戦死後、織田信長の側室となりました。
【智恵の文殊社】
本尊の文殊菩薩は、釈迦如来の脇侍として智恵を司る仏である。
言い伝えによると、信長の家臣土田一族が屋敷に祭祀していたものである
【雨壺池】
水神社(曽本)の龍の伝承と符合すれば、至徳年間(室町前期)に龍が雨を降らせ早ばつから村を救ったといわれ、恵みの雨が降るとお礼に花馬を奉納した。
雨壺池は昭和30年頃まで清水が沸いていました。
【力石(門左衛門石)】
祭礼時、生駒家家臣にこの石を担がせ「ちから」を試し、五穀豊穣を願いました。
近年、この石を悪さで近くの水田に投げ込む者があり、今は固定されました。
【吉乃御殿跡】
社務所は、ほぼ吉乃御殿跡に位置し、信長と吉乃が信忠・信雄・徳姫を授かり、短い家庭的な時期をこの場所で過ごした。
【埴原塚】
永禄の時代(桶狭間の戦いの頃)、埴原加賀守常安は、八条流馬術の達人で諸国を武者修行中に、織田信長に出会い召し抱えられ、忠動に励み清州城代になる。
龍神社の近くに居住していましたが、昭和の土地改良事業で跡形もなく消え、今は由来を記す碑が残る。
幣殿前の狛犬、奉納年までは見切れていないけれど、灯篭が天正、元禄の頃とあるので恐らく同年代だろうか。
本殿域は近年建て替えられた瑞垣が際立って目立っている。
木造社殿の落ち着いた温もりを感じる外観、瓦には龍の文字も誇らしげに入っている。
個人的に好きな佇まいをしている。
本殿は流造のようですが石垣と瑞垣の高さもあり全体が見て取れない。
右手に赤い屋根の社が祀られている。
源太夫社
吉乃が嫁いだ夫、土田弥平次は明智城の戦いで討ち取られるが、祭神はその土田弥平次だという。
いつ頃祭祀されたものか語られていないが、明智城の戦いは1574年(天正12年)とされる。
幣殿前からの眺め。
灯篭の姿は時代を感じさせるものがある。
社務所(鳥居左)は吉乃御殿の跡に建つ、源太夫社は信長と吉乃の逢瀬の場となった吉乃御殿を見据えるように祀られている。その先には吉乃が眠る久昌寺が目の前だ。
生駒家の氏神八大竜王を祀り、文殊菩薩を本尊とする智恵の文殊社など神仏習合の香りも漂う龍神社。
久昌寺は時代の波に飲まれ消えゆくけれど、龍神社は氏子の手により支えられ、社殿も手が加えられているようです。参拝に訪れた自分ができる事と云えば、僅かばかりの賽銭で応援させてもらうしかない。
龍神社(八大龍王社)
創建 / 不明(元和8年・1622年再建)
祭神 / 八大龍王
境内社 / 智恵の文殊社、源太夫社
神徳 / 五穀豊穣、村中安全、武運長久、産業興隆、開運招福、病魔除去
所在地 / 江南市小折町八竜84番地
久昌寺➡神明社➡生駒屋敷跡➡龍神社徒歩ルート / 約10分
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