姥ケ懐の八幡社

東海市名和町姥ケ懐、「うばがふところ」と読めばいいのかな。
県道55号線竜ノ脇交差点から左に入ると直ぐに大手ドラッグストアが左に見えてきます。
東から続く台地の西の外れにあたり、住宅地の中に鎮座するのが「姥ケ懐の八幡社」

f:id:owari-nagoya55:20211008154842j:plain傾斜地故に周囲は写真の様に石垣が積まれ、フェンスで囲われた社地が広がる。
境内の一部が「上名和ちびっこ広場」になっていて、住宅が広がる一帯にあって、境内は子供たちにとって自由に走り回れる場所、姥ケ懐の由来は分からないが、この地、この場所はあたかも姥に見守られているような住みやすい場所を指しているのかもしれない。
入口となる鳥居は右手方向になります。

f:id:owari-nagoya55:20211008154905j:plain鳥居前から八幡社の全景、社標は見当たらなかった。

f:id:owari-nagoya55:20211008154923j:plain木造の明神鳥居の先に玉垣で囲われた本殿域が見える。
境内の大きな楠が本殿の覆屋のようでもある。

f:id:owari-nagoya55:20211008154941j:plain境内に入って左に手水舎、手水鉢、右に遊んだ後の手洗い場が並ぶ。
簡素な手水舎ですが鉢をみると結構年代物のようで、はっきりと読み取れないけれど宝永(1704年~1711年)の元号や、左に「中?村」と彫られている様に見える。
明治に入り、当時の4村が町村合併で一つとなり名和村となったけれど、その中に「中?村」なる村は見つからなかった。
大正、昭和の創建ではなさそうですが、境内に由緒書きがないので創建は不明。

f:id:owari-nagoya55:20211008155001j:plain境内右に一社。
入口に石標もありましたが、文字が刻まれているでもなく、こちらの詳細も分からない。

f:id:owari-nagoya55:20211008155018j:plain八幡社本殿域。
外周はフェンスで囲われ、中は石垣で一段高く盛られ、枝ぶりの良い大きな楠の下に鎮座する。
この神社に狛犬はいませんが、後方の二本の松の古木と楠の巨木が本殿を守護している様に見えてくる。
広場で遊ぶ子供たち、大きく伸びた枝は程よい木陰を提供している。

f:id:owari-nagoya55:20211008155644j:plain玉垣で囲われた本殿域、板宮造りのシンプルなもの。
祭神は応神天皇(誉田別命)
本殿域右に小さな社が祀られているが詳細は不明。
一部に手が施された玉垣には、「村中安全」、「修復工事 昭和五十九年九月」と刻まれていた。
大部分のものは更に古いようだが年代までは分からなかった。
氏子達の目も行き届いているようです。

f:id:owari-nagoya55:20211008155544j:plain敷居の高い神社に対し、子供達の遊びの場に佇む八幡社。
彼らが成長し子供の頃を振り返った時、この神社の事を思い出し我が子と共に訪れる時もあるだろう。

それにしても昇り応えのある楠だ事、今は絶滅した「かみなりおやじ」に良く怒られたものだ。
そんな場所も今はない。

f:id:owari-nagoya55:20211008155123j:plainさて、ここ姥ケ懐の八幡社は八幡社貝塚として市指定史跡にもなっているようです。
境内には写真の解説板がありそれを伝えています。
八幡社の社地から見つかった貝塚、ここからは弥生時代中期(約2,000年前)の土器や石鏃をはじめ、室町時代(約500年前)にかけての土器や瓦などが出土したといいます。

f:id:owari-nagoya55:20211008155141j:plain上は大正時代の八幡社(青地に赤文字)、靑マーカーは一番畑の秋葉神社
海岸線が目の前にあった当時の人々は、八幡社東部に続く丘陵地に定住し、南西の平地で稲作をしていたとされ、海では貝などの海の幸、野山で獣や山の幸を採り生活していたのだろう。住むには良い場所だったようです。
やがて街道が整備され、村は町となり水田は工業地帯に様変わり、丘陵地には住宅が立ち並ぶ。
今後も町は変貌していき、奥に入った古い町割もやがて消えていくのかもしれない。
姥ケ懐の八幡社(八幡社貝塚)がそうした流れに飲まれない事が望まれる。
2021/09/23


姥ケ懐の八幡社(八幡社貝塚)
創建 / 不明
祭神 / 応神天皇(誉田別命)
所在地 / 東海市名和町姥ケ懐​82-5
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公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「名和」から南東方向へ徒歩で15分程  (駐車場なし)