二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」day3
お風呂や考える必要のない食事を提供してくれたホテル泊。
岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」も三日目の最終日が始まった。
朝起きてカーテンを開ければ円山川対岸の山並みに朝もやがかかり、竹田城とは言わないけれど幻想的な光景が広がっていた、思わず外に出て眺めていた。
一瞬のドラマも終わり、ホテルに戻り朝食を済ませ、最終日最初の目的地「玄武洞」に向け走りだす。
大江戸温泉物語「きのさき」
所在地 / 兵庫県豊岡市城崎町桃島1232
ホテルから玄武洞までは、譲り合う気持ちがなければ通れない「城崎大橋」を渡り車で10分程。
現在新たな橋を架けるため工事が進められているけれど、今の「譲り合い橋」で問題なく成立している。
普段の生活で狭くもない道でさえ、「お前が下がれ」と睨みあ合う光景を見ると、渡り始めていれば手前で待つ、待避所に近い側が寄せて待つ、当たり前の事ができない便利な街の日常を見ると、中途半端に整備し過ぎな気がしてならない。
この三日間運転中にストレスを覚える場面は一度もなかった、
10分程で円山川上流にある「玄武洞公園到着」
施設は「玄武洞ミュージアム」と柱状節理の露出した5つつの岩壁で構成される山陰海岸ジオパークの一つ。
展望広場からは眼下に円山川と対岸に山陰本線が良く見える。
河口が近い事もあるのか、玄武洞へ続く苔むした歩道には真赤な蟹の多い事。
玄武洞
160万年前の火山活動に伴う玄武岩の大露頭で、 高熱の溶岩が急激に冷える事で生じる割れ模様「柱状節理」が美しく、断面は人が作ったかのように綺麗な5~6角形をしている。
洞窟になっていますが、これは人の手により採掘された結果のもの。
この石は人々の生活に不可欠なものとして古くから採取され、街中の石垣や漬物石、地蔵湯で見た庭石など利用されてきてそうだ。
こうした柱状節理の露頭は他にも青龍洞、白虎洞、北朱雀洞、南朱雀洞があり、その断面の美しさだけではなく、溶岩流が複雑に蠢いた道筋や、岩盤の上の僅かな地表に根をおろす樹々など、人の及ばない自然の力を感じさせられる。
紅葉が深まれば、更に美しさを増し、腰を据えてゆっくり眺めていられるいい場所です。
玄武洞
所在地 / 兵庫県豊岡市赤石1362
さあ、次は「但馬國一宮出石神社」に向かいます。
円山川を遡り(南下)ながら但馬の小京都と呼ばれる出石市まで小一時間程の移動時間。
「神社の創立年代はあきらかではない、社伝の一宮縁起に谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、
現在の社殿は大正三年に再建されたもので、神門と入母屋造りの拝殿、切妻造りの幣殿と祝詞殿、その先は透塀に囲まれた流造の本殿が主な伽藍。
杉木立に包まれた参道の先に朱に彩られた神門があり、蟇股など彫と色彩は見事だった。
神門から左右に繋がる塀にも朱が塗られ、派手な印象に思えるけれど、周囲の木々の緑と調和する上品なものだ。
場所により紅葉が始まり、祝詞殿や拝殿周辺は色づき始めてきていました。
境内には写真の様に苔も多く見られ、鮮やかな緑色の絨毯が広がっています。
写真の赤い社は夢見稲荷社、祭神は天日槍の妃神。
その奥が比売社で宇賀能魂を祀る、写真の右手方向に絵馬殿がある。
境内にはこのほか市杵島比売神社、菅原神社などが祀られている。
更に後方には玉垣で囲われた禁足地があり、その昔は天日槍廟所と称されていたようで、禁足地に立ち入ると良くない事が起こるとか。
現在の伽藍は南北に長く、一ノ鳥居から続く長い参道始め、今でも十分広大な印象を持ちます。
幾度となく火災に見舞われ、規模や配置なども変わっていったようです。
古来の伽藍は更に大きな規模を誇ったようで、西方向に流れる出石川付近では古い鳥居の遺物が掘り出され、神門の横に安置されています。因みに発見された場所の地名は出石町鳥居として残っている。
往古は東西に長い社地を誇っていたようです。
当日は祈祷や、ウォーキングイベントも重なり、撮影には随分待つことが多く、境内も賑やかでした。
しばらく時間を待っていると賑やかだった境内はいつしか静かさに包まれていた。
「但馬國一宮出石神社」
建立 / 不明(現社殿1914年の造営)
主祭神 / 伊豆志八前大神、出石八前大神、天日槍命
境内社 / 夢見稲荷社、比売社、市杵島比売神社、菅原神社、
古くは但馬の国衙が置かれたとも伝えられ、それらを裏付けるように袴狭地区の田多地公園付近の遺跡から祓いの道具(人形や斎串)が発見されているという。
写真を撮っていると観光協会の方だろうか、他府県の新聞を手に最近記事として取り上げられた事を説明してくれた、地元に住む者のシンボルとして辰鼓楼やこの街並みを大切に保存していると熱く語ってくれた。
彼らが大きくなり、辰鼓楼はじめ情緒ある町並みに誇りを持ち受け継いで行ってくれると思いますよ、そう話すと「そうなんだよ、取材があるから」と云って立ち去って行った。
熱く語れるものがあって羨ましい限り、我が町の誇り?あったかな。
下はこれも出石町のシンボル出石城跡の登城橋。
それでも辰鼓楼や野面積みの石垣、堀などは残り、1968年(昭和43)隅櫓、1994年(平成6)登城門など復元され、登城橋河川公園として出石の観光スポットになっているようです。
街並みには歳月を経た赤い土壁や酒蔵が残り、昨晩堪能した地酒「楽々鶴」の蔵元(右上)もある。
街にはとにかく蕎麦屋が多い、その数は50軒ほどあるらしい、
そもそもが1706年(宝永3)、出石藩主松平氏と信州上田藩の仙石氏の国替えにより、出石でも食べ慣れた「蕎麦が食べたい」と信州からそば職人を呼び在来のそばに信州の技術に加え誕生したのが出石そばの発祥だとされます。
彷徨った挙句、お地蔵様の近くにある「そば庄 鉄砲店」を選択。
割り子そばの様に出石焼きの小皿に盛られた蕎麦、出石そばの特徴といってもいい。
小さな小皿に盛られた蕎麦が机に並ぶ、朝食を普段以上に食べた事もあり5枚の蕎麦は手ごわかった。
食べ歩きスタンプラリーもあるようですが今日は無理。
さて十分すぎるほどお腹は満たされた、腹ごなしにもう少し散策を続ける。
上左
社伝によれば、当初は出石神社近くの水上村に鎮座していたとされ、この地に遷座したのは1574年(天正2)の頃とされる古くから鎮座する神社。
こちらも両部鳥居でその先に拝殿、本殿と続く、特に本殿の各所に施された彫飾りは見る価値がある。
境内には川上神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社など境内社が多く祀られている。
創建 / 不明
祭神 / 多遲摩母呂須玖神
所在地 / 兵庫県豊岡市出石町内町28
町内にはこうした寺社が集中しあっという間に時間が過ぎ去っていきます。
1日そばを食べ歩き、寺社を巡る、ゆっくり滞在したい場所かもしれない。
とはいえ帰りの時間を考えると最終目的地「但馬一宮粟鹿神社」に移動しなければ、走り出すか。
粟鹿山山麗の周囲は田畑が広がる喉かな場所に鎮座する「但馬一宮粟鹿神社」
社頭駐車場へは粟鹿川に架かる趣のある橋を渡った右に無料の参拝者駐車場があります。
社伝によれば
粟鹿の名の由来は粟をくわえた鹿が粟鹿山から現れ、人々に農耕を教えたと伝えられ、その鹿が祀られているとされるのが但馬国随一の古社粟鹿神社、2000年以上の歴史を持つとも云われるそうだ。
町名も神社から来ているのかもしれません。
駐車場から鳥居はすぐそこ、石の明神鳥居には大きな「粟鹿神社」と記された額が架かる。
鳥居の先の参道には勅使門と奥に髄神門が見えている。
勅使門
その名の通り勅使が神社に参向の際出入りする門、記録から4回の参向があったという。
建立年は不詳で屋根は以前は檜皮葺だったようで、過去に幾度が火災に見舞われながら免れてきた門。
シックな佇まい唐様の門で、特に扉は長い時間の経過を感じさせてくれる。
髄神門(日の出門)
瓦葺の随身門は入口側には一対の随身像、内側には狛犬一対が安置され、それらは朝来市指定有形文化財に指定されているもの。
こちらの髄神門も長い時間の経過を感じるもので、そろそろ何とかしないといけない時期に来ている。
門をくぐった左側に天満宮、拝殿右に猿田彦神社が祀られている。
手前の拝殿と奥に1880年(明治13)造営の流造の本殿と並び、本殿の後方には小高く盛られた小山が見える。こんもりは怪しいよね。
この小山は日子坐王の墓だと伝わるようで、古墳調査も行われていない神聖な場所のようです。
古くから国土開発の神とされ崇敬されてきた。
神社境内には由緒書きはなく創建は不詳です。
静寂で神々しい空間に包まれた神社とするのもいいけれど、歴史のある神社や寺など修復の手が届いていない姿を見ると、どうなんだろうといつも思う。
我々からお国が取り立てていった年貢、有効に使われているのか疑問に思う事が多いだけに、尚更そう感じる。多くの参拝客が訪れ、賽銭や御朱印で潤えばいいのだが、どこも実態は苦しいのではないだろうか。
但馬一宮 粟鹿神社
所在地 / 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
これで今回の二泊三日で岡山・鳥取・兵庫「一ノ宮巡り」の予定は全てコンプリート、欲を出して竹田城まで行きたいとこですが、ここから高速に乗り名古屋に帰る事にします。
この三日間、日本海の先にある大陸の香りを感じることも多かった、砂丘や柱状節理等自然の圧倒的なパワー、我が町を熱く語れるパワーを見せつけられ有意義な小旅行でした。
かみさんも今回参拝した神社を塗り潰す事が出来て満足気です。
総走行距離は1000k越え、燃費の悪い愛車も良く頑張ってLiter/8km程度走ってくれました。
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