過去掲載した「亀崎町仲間通りの街並み」
その中に「力神車の保管庫」がありますが、今回はそこから東方向に鎮座する浄顕寺までを掲載します。
かみさんの知多新四国八十八箇所霊場巡りにお供として亀崎に来ていますが、お供が道草ばかりするもんだからかみさんにはドンドンおいて行かれています。
そんな状況にありながら、力神車管庫の左に奥へ続く路地があります、正面に山を背にして建つ瓦葺の小さな門が目に止まり路地を進んで見ました。
町内で盛んに見かけた「望洲楼」の看板、ここがその望洲楼。
知多で作られた日本酒などの産物を江戸に運搬する海運業で賑わった亀崎。
ここに1855年(安政2)に中口屋の屋号で本町通りの南に料理屋として創業したのが始まり。
敷居が高そうな雰囲気、亀崎で一番古い料亭のようで半田市景観重要建造物に指定されている。
「亀崎十二勝」と題して、漢詩で亀崎の景勝を詩ったものらしく、十二勝の10か所を亀崎十景として掲げているそうです。
入口でくつろいでいたキジトラ。
ここの住人なのか尋ねても答えてくれないが、人には動じない姿は、むかし我が家の住人だったキジトラを思い出す。敷居の高そうな雰囲気を彼?が和らげているような。
キジトラに別れを告げ通りを東に2~3分程進むと左に山門が見える。
「寳物 蓮如上人 御自作木像 石山合戦御身方連名 血判弥陀画像 其他多数」と記された看板に目が止まり拝観させてもらいました。
林正山浄顕寺と称し真宗大谷派のお寺。
蓮如上人(本願寺第8代)は1468年(応仁2)応仁の乱と堅田大責の変を避け三河国に下向のおり、亀崎に留まりこの地の教化を導いたとされる。
血誓の阿弥陀如来絵像
「1570年(元亀元年)から1580年(天正8)までの10年間、御田信長による大阪本願寺攻め(俗に石山戦争)に於いて、阿弥陀如来絵像の裏や上に誓約を示す宗徒の署名血判が押されているもので、血判状の代表的なものとされる。
絵像の裏には武士と考えられる「佐田五郎二郎」の名が農民に混じり瀬田町衆、八幡町衆、南蔵坊禰宜の文字も見られ、様々な階層が一致して一揆に参加した事がうかがわれる。
絵像はこの地方のものではなく長浜のものであると考えられ、浄顕寺四世の林正が本願寺に尽くした結果、与えられたと伝えられている」
一向一揆に結集した門徒が血判した「血判阿弥陀如来絵像」が二幅保存されているといわれ、大阪本願寺で信長と戦った人たちの署名血判状の代表的なものとされ半田市指定文化財のひとつだそうだ。
参道の先に建つ瓦葺の山門。
寺の沿革によると1754年(宝暦4)に大門(山門)建立とある。
丸い門柱に角柱の控え柱が付く四脚門でそこから間近に本堂が望める。
参道脇にはイチョウの巨木が聳えている。
創建については諸説あるようです、沿革を尊重すると1468年(応仁2)蓮如上人の開基されたのが始まり。
本尊は阿弥陀如来。
この寺へ幾度も藩主が訪れ、1679年(延寶7)尾張藩、後の第3代藩主・徳川綱誠(つなのぶ)が知多郡巡視の際に浄顕寺に立ち寄り休憩を取ったとされ、1733年(享保18)には尾張藩第7代藩主・徳川宗春(むねはる)も浄顕寺で休憩を取ったようだ。
1803年(享和3)には伊能忠敬も浄顕寺に宿泊した記録があるようだ、1827年(文政10)徳川綱誠立ち寄りの縁で宗春の位牌を受領するなど古くから続く亀崎の古刹。
血判阿弥陀如来絵像は1901年(明治34)に封印されたようで拝観は出来なかった。
本堂左の眺め、東南海地震、三河地震などで被災し伽藍の一部を失い、境内にあった鐘楼も伊勢湾台風で倒壊しその後撤去された、現在の伽藍に留まっているようです。
境内中央には樹齢は不明ですが大きなイチョウが御神木の様に聳えている。
本堂から山門の眺め。
晩秋には黄葉したイチョウの葉が境内を黄色一色に染めるのだろう。
もういい加減待ちくたびれたかみさんから電話が入りそうな・・・・・
2021/09/24
浄顕寺
山号 / 林正山
宗派 / 真宗大谷派
創建 / 1468年(応仁2)
開基 / 蓮如上人
本尊 / 阿弥陀如来
所在地 / 愛知県半田市亀崎町3-51
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力神車の保管庫から / 徒歩2~3分