『美作國一ノ宮 中山神社』

岡山県津山市一宮、名古屋から5時間越えの移動時間で津山盆地に鎮座する『美作國一ノ宮 中山神社』に到着。
駐車場に車を乗り入れ「ヨッコラショ」と外に飛び降り背伸びをする、やはり遠くて疲れるなぁ。
なんとなく体のエンジンがかからない状態で社頭に向け歩き出す、そんな状態も社頭前の老木の姿を見て、エンジンがかかってきた。

f:id:owari-nagoya55:20211116112940j:plain駐車場に向かう際に横を通った時にはこの巨木は「立派な楠があるな」とは思っていた。
実際に目の当たりにしてみるとこれはクスノキではなく「ケヤキ
それもとても太い幹のケヤキで高さこそさほどでもないが、幹には空洞ができ、しかも穴までも開いている。
二本のケヤキが一つになったのかは定かではないけれど、その幹から伸びた枝は道路の上を覆うように広がっている。
自然の驚異的なパワーが伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20211116112957j:plain樹齢は推定800年とされるケヤキ。(写真は2枚合成)
祝木(いほぎ)のケヤキと呼ばれるようです。

この堂々とした風格たるや、何かが宿っていたとして不思議ではない。
その幹の傍らに小さな社も祀られている。

f:id:owari-nagoya55:20211116113013j:plain解説によれば名木百選「中山神社・祝木のケヤキ」とある。
目通りは8.5㍍、樹高が10㍍で推定樹齢800年だそうだ。

中山神社は美作國の一之宮で天武天皇慶雲4年の創建と伝えられる。
社殿は天文二年(1533)に尼子経久の兵火で焼失したが、永禄二年(1559)に再建された。
本殿は国指定の文化財である。
本樹は尼子の兵火以前のもので神社と歴史をともにした記念木である。
正面の小祠には「大国主命」が祀つられている」

なんとなく蛇の予感がしていたがそうではないようだ。
幹の至る所に握り拳のような無数のこぶが現れ、空洞となったところから日差しが差し込む光景は神々しさを感じます。
参拝の際にはこのケヤキは必見だろう。

f:id:owari-nagoya55:20211116113029j:plain祝木のケヤキから左手に社頭。
参道は遥か先まで続く。

f:id:owari-nagoya55:20211116113044j:plain石の明神鳥居と思いきや、両柱を支える横の柱、貫から両柱から先に先端が飛び出ていない神明鳥居に似た珍しい造り。
なので木鼻が存在しない「中山鳥居」と呼ばれるもの。
寛政三年(1791)に作られたこの鳥居、高さは11㍍あるという。
下から額を見上げると長時間運転したストレッチ替わり、首の筋肉がつる感じになる。その先には遮るもののない青い空が広がる。

f:id:owari-nagoya55:20211116113105j:plain鳥居をくぐった左にも「名木百選 中山神社のムクノキ」が聳えています。
津山市一宮 推定樹齢500年。
 本樹は「祝木のけやき」等とともに中山神社の社叢を代表する木で、目通り周囲5.3㍍、樹高は23㍍である」
ひたすら空に向かって延びるこの樹もまた、自然の逞しさを感じさせてくれる。

鳥居前の常夜灯は「文化13?」と記されているように見える。
だとすると1816年、200年程経過したものですが、それを感じさせない意外に綺麗なものです。

f:id:owari-nagoya55:20211116113121j:plain鳥居から先の参道を望む、遥か先に千木が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20211116113136j:plain参道が広がると左に忠魂碑と右に撫で牛が横になっている。
解説らしき板はあったが詳細が読み取れなかった。

f:id:owari-nagoya55:20211116113152j:plain参道を進むと二対の狛犬が神門を守護していた。

f:id:owari-nagoya55:20211116113207j:plainこの辺りに掲げられていた「中山神社の指定文化財」の解説板。
慶雲四年(707)の創建と伝えられる美作國の一宮。
延喜式にも記され、今昔物語や一遍上人御絵伝にも一遍上人が詣でた様子が描かれるなど古来より名が知られている。
・本殿
 国指定重要文化財で戦国時代に兵火に遭うが、永禄二年に尼子晴久により再建。
 入母屋造妻入で向唐破風の向拝を有し、本殿形式は中山造と呼び美作地方独特の建築様式で当社が最古の例。
・神門
 市指定文化財で元は津山城二ノ丸の四脚門で、廃城後に移築した本柱二本と控柱二本の薬医門形式、屋根は切妻造で檜皮葺。
中山神社祝木のケヤキ
 祝木のケヤキは内部が空洞で祠は祝木社で中山し神に國譲りした先住神。
中山神社戦国武将文書(市指定文化財)
   美作地区を支配した戦国武将の戦勝祈願や奉納のために神社に宛てた文書。
 尼子晴久毛利元就の判物、古川元春外三名連署状、毛利元就書状、浦上宗景判物の五通からなる。

f:id:owari-nagoya55:20211116113225j:plain手前側の狛犬
「日露戦役全勝記念」とある、海に囲まれた小さな小国が大陸の大国に勝利し国民が沸いた際に寄進されたものでしょう。
そうした国の勢いが狛犬のデザインにも表れているか、尾を立ち上げ前屈みの勇猛な姿は今にも飛び掛からんばかりのもの。

f:id:owari-nagoya55:20211116113245j:plain手水舎手水鉢。
狛犬の左脇にあり、柄杓はなく、除菌スプレーが置かれ時世を象徴している。

f:id:owari-nagoya55:20211116113302j:plain神門前の狛犬
元号は確認していないけれど先程の狛犬とは姿勢も容姿も雲泥の差がある。
小さな角と小さな尾、ちゃんと付くべきものも付いている。
これ犬?
と感じるような素朴な容姿が印象に残る。

f:id:owari-nagoya55:20211116113318j:plain神門。
門の屋根の先に外削ぎの千木が姿を見せている。
手前に神門を横切るように御手洗川の小さな流れがあり神橋が架けられている。
緊急事態宣言解除もあり、当日は七五三とウオーキングイベントで境内は賑わっていました。

f:id:owari-nagoya55:20211116113333j:plain津山城二ノ丸から移設したとされる四脚門。

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神門をくぐり側面から眺める。
檜皮葺の屋根をケヤキの角柱が支えている、本柱(鏡柱)の位置が妙に不自然で幅も広い。
城の門として戦略的な意味合いも盛り込まれているのだろう。
飾りを控え、派手さはないけれど、落ち着いた佇まいをしている。

下 神門左に吹き抜けの神楽殿
右に美作国の全神祇を合祀する総神殿があるはずなのですが…。

f:id:owari-nagoya55:20211116113408j:plain楽殿から社殿全景。
透かし塀が周囲を取り囲み、取り囲む様に参道が伸びている。
社殿は檜皮葺で手前が入母屋・平入の拝殿で唐破風向拝が付く、その先は釣殿を介し入母屋妻入りの本殿に繋がっていて「中山造」と呼ぶそうだ。
参拝客の途切れない拝殿は控え、左手の参道からぐるりひと回り。

f:id:owari-nagoya55:20211116113423j:plain社殿左の斜面に社と石標、「鉾立石」と末社の「国司社」が鎮座しています。

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「鉾立石」現在の石は1292年(正応5)に造られ、国難の際には本殿に移し祈念されたという。

国司社」地主神として大国主命を祀ったもの。

f:id:owari-nagoya55:20211116113501j:plainその先に急な石段の先に祀られている社が「御先社」

f:id:owari-nagoya55:20211116113517j:plain栞によれば「中山の神の祖神を祀り、中山の神の側にあって供をするという義で、一般には、稲荷神として信仰されている」
……レンズが歪んでいるわけではないようだ。

尼子の兵火以前はこうした末社の数は100を超えたと伝わる。

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御先社から眺める社殿。
ここから見ると本殿周りの擬宝珠の付いた高欄が見渡せる。

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更に進むと正面に鳥居があり、参道は薄暗い杜の奥に続いている。

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参道は途中から細い登山道的な趣となり、その先の岩肌に「猿神社」の赤い幟が見えてきます。
よく見ると岩肌にへばりつく様に小さな祠が祀られている。

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猿神社
今昔物語に「中山の猿」の霊を祀るとされ、現在猿田彦神として祀られている。
この岩肌全体が祭祀対象のような気がする。
牛馬の安産守護神の信仰を受け、子猿を模したぬいぐるみを奉納する風習が今もこうして残っている。
人の思いがこもった手作りなんでしょう、同じものは見受けられない。

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本殿後方から左に回り込んでいきます。
千木と5本の鰹木、屋根勾配は軒に向かい緩やかに反っていく、一番優雅に見える場所かも知れない。

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神厩舎

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神厩舎から中門に向け本殿の横を進む。
大きくせり出した向拝の姿が強調されて見える。

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中門。
この門もあり、拝殿の正面全景は取り辛い。

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創建は707年(慶運4)の創祀とされ、美作國の一ノ宮で鍛金、冶工、採鑛の守護神で農耕・牛馬の守護神として崇められている。

現在の社殿は1559年(永禄2)、出雲国富田城〃主の尼子晴久により18年の歳月をかけ再建されたものだと云う。

主祭神
鏡作神(かがみつくりのかみ)
相殿神は石凝姥神(いしこりどめのかみ)、天糠戸神(あめのぬかどのかみ)

 

創建や祭神には諸説あるようです。
創建は美作国備前国から分立した713年(和銅6)だとされたり、祭神も吉備津彦命金山彦命、天鏡命などと挙げられるようでもある。
そこには吉備国(備前・備中・備後国)の一之宮が吉備津彦命主祭神として勧請されている等あるようで、美作国が分立して勧請され中山神社が創建されたという考察もあるようです。

何れにしても歴史のある神社であることは確か、ここでは栞を尊重しよう。

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拝殿の右側と左側から見る社殿。

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丁石道
神門から右手に進み、宮川を渡り境外に出る、その角に「中山神社萬福寺参拝道(丁石道)」の碑と丁石があった。
碑には
中山神社萬福寺を結ぶ登山道の一つに丁石道がある。古来より多くの参拝者で賑わっていたが、年数経過、時代の変還・徒歩にての参拝者の減少により風化していた。
美作一宮の遺産を見つける会、東一宮財産区・土地所有者・中山神社氏子・萬福寺檀信徒の協力を得て平成28年、欠損した石柱20本を建立し丁石道を復興する。
願わくは、参拝者並びに一宮の地は縁ある方々の安全を祈念する。 平成28年吉日」とある。
守るべきものものがある、ある意味羨ましく思える。


下は碑の左側に建つ「四十三丁石」

旅人はこの丁石を頼りに目的地まで歩いていった、今ならグーグル先生が案内してくれるが当時にそんな物はなく、先生の代わりとなったのが丁石。
単位1丁は約109mあり、36丁で1里 (約4K)となる、写真の丁石は43丁と彫られている。

境外を徘徊し始め時計を見る、既に予定時間は過ぎていた、神門前で待つかみさんのもとに戻る事にする。
長閑な環境の中、豊かな杜に包まれ佇む中山神社の光景は再び訪れて見たい神社。


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美作國一ノ宮 中山神社
創建 / 707年(慶運4)
主祭神 / 鏡作神、相殿神 / 石凝姥神、天糠戸神
末社 / 総神殿、国司社、御先社、猿神社
所在地 / ​岡山県津山市一宮695
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