豊田市松平町 「親氏公行場跡」

前回掲載した松平郷の「八幡神社・松平東照宮
そこから最深部に鎮座する徳川菩提寺「高月院」、今回は高月院から更に山道を登った先で見かけた『親氏公行場跡』を掲載する事にします。

f:id:owari-nagoya55:20211129212453j:plain髙月院(後日掲載)の境内から北に続く細い人道を進むと車道に出るので、そこを右に上っていきます周囲は山の斜面を耕作した長閑な山村の趣が漂います。

東照宮から親氏公行場跡の入口までの約1㌔、道草無しで徒歩30分程でしょうか。
まだまだ等高線の間隔も広いので上りと云ってもさほどのことはない。

f:id:owari-nagoya55:20211129212517j:plain髙月院の境内から上る事20分程。
六所山南西にあたり、道の正面に古びた神明鳥居が現れます。
鳥居の右に小さな道先案内板がありますが、神社指し示すものではなく「親氏公行場跡と展望所」へ導いています。
道の先には更に車道が横切っているようで、この鳥居の社殿は中央の杜の中かと思い鳥居をくぐり参道を進みました。

f:id:owari-nagoya55:20211129212533j:plain枯れ葉が覆う少し荒れた参道はすぐに急な坂となり上の写真の様にガードレールが見えてきます。
「ありゃ、ないじゃん」、車道からの眺め。
何さ、鳥居くぐらなくても道なり進み上の道で左に行けば上らなくても良かったんじゃないの。
すると社殿は何処ヨと道の先を見ると・・・

f:id:owari-nagoya55:20211129212554j:plainその先には今来た参道よりもっと過酷な山道が森の中に続いています。
入口付近の案内板には親氏公行場跡はこの先と導いているが、神社を指し示すものではない。
550㍍かぁ、どうしても神社が気になり、かみさんにはここで待ってもらい一人で上ってみました。
落葉樹と熊笹が生い茂る荒れた細い参道?獣道?、足元は枯れ葉で滑りやすく足元は要注意。

こうした道はついつい良からぬ事を想像してしまう。
足元の長い物やら道の先に猪や熊がいるんじゃない?、足元も道の先にも気を使わなくては安心できない、坂道以上に気を使う。
ささやかでも安心の拠り所となる熊除け鈴は必需品か? 

写真の撮影データから入口から下の写真撮影まで1.5分、この先550㍍にしては近く、実感は長く感じる。

f:id:owari-nagoya55:20211129212613j:plain狭い山道から視界が開け、広くて平坦な空間が現れます。
そこは正面に山肌から露出した巨岩が屏風の様に並び、幾つかの石の社と岩の下に建つ社が視界に入る。

f:id:owari-nagoya55:20211129212628j:plain更に右側に写真の建物があります。
拝殿なのか覆殿なのか、格子から内部を窺うも暗くて詳細は不明でした。
鳥居の先の社殿はこの建物と岩の下に建つ覆屋がそれにあたるのか?
額も神社の名が彫られた石標も見当たらなかった。
自宅に戻ってから、三河物語や松平郷村史など見ていたがどうもはっきりしない。

f:id:owari-nagoya55:20211129212644j:plain岩の前に清水と彫られた手水鉢があり、寄進された年度が彫られていないか探してみたが分からなかった。
左の石標も正面に文字が刻まれているようですが読み取れず年代はイメージすらできない。

この場所が徳川家の根源となる松平親氏が行を行った場所という。

f:id:owari-nagoya55:20211129212701j:plain雰囲気は行をするにはいい場所かも知れないナとは思う。
今とは違い道が整備されていない当時は険しい道だった事だろう。
親氏の素性は諸説あるようで三河物語や松平郷村史でも違うようだ、

三河物語では「親氏の先祖は八幡太郎義家の流れで、上野国新田郡徳河の郷に代々定住し徳河殿と申す。足利高氏に打ち負け、徳河郷を離れ全国を流浪し、親氏は時宗の僧侶となり、徳阿弥と称し当地に辿り着いた・・・・・」
片や松平村史では僧侶としては記されず、徳翁斎信武と名乗りこの地に辿り着いた親氏は、松平太郎左衛門信重の連歌興行の折に筆役としてそつなく務め、それを気に入られ「見納めの井戸」で摘んでいたあやめを差し出した水姫の婿に見染められた。
など記述のされかたが違うようだ。

更に松平村史に親氏公行場跡と思われる記述も現れた。
内容は
「高月院の後山を登ること四十五町、屏風を立てたる如き嶮山あり。観音山と称す。山の中腹に大岩石あり。松平親氏公観音を岩洞に勧請し、其ノ岩上に直立して七日間天に祈りし所なりと云ふ」ものです。

記述にある屏風の様な岩を背にするこの場所が行場で、岩の下の覆屋には松平親氏公観音が祀られている。そう感じさせる程雰囲気は似ている。
一つ腑に落ちない、「高月院の後山を登ること四十五町」…?
昔の距離感なのでなんともいえないけれど、高月院からグーグル先生によれば1㌔も満たない、気にしない方がよさそうだ。
松平村史に記された「岩上に直立して七日間天に祈り…」の場所がここである事には間違いなさそうです。

ところで本題のあの鳥居は?
ここに鳥居の社殿があったと思いたいが修験道のようなこの道が万人が訪れる神社参道なのだろうかと思うと腑に落ちない。

そういえば、八幡社・松平東照宮の栞には1916年(大正5)に松平郷内の三社を合併とあった。
推測でしかないけれど、この鳥居はその合祀された神社の名残なのかもしれない。

社殿のあった場所となると……やはりここなのかな?
その根拠になるものがこの空間にあったのかもしれない、けれど自分には鳥居以外に神社の痕跡を見付けられなかった。
下で待つかみさんの事を思うとこれ以上は時間を費やせない、岩の前で手を合わせこの場を立ち去りました。
2021/11/18

親氏公行場跡
所在地 / 豊田市松平町藤伝田
高月院から徒歩ルート /  ​約15分
八幡社・松平東照宮から高月院まで徒歩ルート / ​10分程
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