半田市 「開運山 光照寺」知多四国八十八箇所十八番札所

乙川八幡神社を後に西方向へ徒歩で5~10分程の所に知多四国八十八箇所十八番「光照寺」は鎮座します。
道のりは相変わらず見通しの効かない狭い道ばかり。

f:id:owari-nagoya55:20211227093428j:plain上は光照寺南側の鐘楼門前の通りの写真。
境内入口脇で見かけた「知多四国霊場道標」、☞十九番「光照院」までは十三丁と彫られています。
1丁が約110㍍なので約1.43㌔、20分程の道のりか。

f:id:owari-nagoya55:20211227093447j:plain鐘楼門、入母屋瓦葺の四脚二層の門。
道路から見る門は、見る者に覆いかぶさってくるようでもある。

f:id:owari-nagoya55:20211227093505j:plain鐘楼門正面。
扉の様に見える袖壁が四脚其々に付けられ、軒先の深い屋根は鳥が羽を広げたよう。

f:id:owari-nagoya55:20211227093525j:plain石段から境内の眺め、目の前に本堂は見えています。

f:id:owari-nagoya55:20211227093544j:plain境内から見た鐘楼門、45度方向に付けられた袖壁が重心の高い門を支えているのがよく分かる。
無骨な鉄骨に比べると遥かに違和感もなく寺の佇まいに調和している。
過去に大きな地震も経験しているだけに学びの形だろう。

f:id:owari-nagoya55:20211227093609j:plain本堂全景。
庫裏、納経所は右手になります。
光照寺は1324年(興国3)源 親房の建立とされるようです。
その昔海岸線がもっと近かった頃は、過去記載した乙川八幡社付近の海岸に鎮座していたという。
沿革は
1324年(興国3)源 親房により建立。
1555年(弘治元年)天誉白応和尚により復興再建。
1781~1788年の天明年間に自然災害で伽藍を失う。
1811年(文化8)堂宇建立。
1980年(昭和55)庫裏改修、2003年(平成15)に本堂改修
宗派は時宗で本尊は阿弥陀如来

 
本堂は入母屋瓦葺平入で大きな向拝が付き、深い軒の下に縁が付く。

f:id:owari-nagoya55:20211227093636j:plain本堂、賽銭箱に三つ引きの紋が入る。

f:id:owari-nagoya55:20211227093659j:plain本堂左から廻廊が続き観音堂と繋がっているようです。
観音堂としては立派な方型の二層屋根の造り。

1808年(文化5)、十四世 覚阿是興上人の時、紀州徳川家の支援によりこの地に移転した。
1811年(文化8)、廓山和尚により本堂はじめ庫裏等が建立されますが、この時観音堂は塔として建てたかったようですが、当時寺格の高くない寺に塔の建立は許されなかった。
塔の建立を捨てきれず、当時尾張徳川家の付家老だった成瀬隼人正家に懇願、「ひさしをつければ塔にあらず」の言葉をもらい建立が許されたのが観音堂だという。

f:id:owari-nagoya55:20211227093807j:plain

観音堂正面の眺め、二層方形屋根の観音堂で約束通りに大きな向拝が付けられています。
改修履歴は不明で、現在の姿は1811年以降大きな改修を受けていないのか、軒などに傷みが見られます。

f:id:owari-nagoya55:20211227093826j:plain

観音堂向拝から内陣の眺め。
外陣には大きな奉納額や提灯が吊るされ、内陣中央の厨子に本尊の秘仏十一面観音像が安置されている。
この本尊はその昔、亀崎沖で漁師の網にかかったものと云われ、それをここに安置したという話が残るそうです。
正直理解に苦しむ話ですが、こうした言い伝えは各地で耳にします。
そうした数だけ戦禍や自然災害が起きていたのだろう、素直に解釈して「昔の海や川には沢山の仏像が流れていた」という事だろう。
弘法大師像は内陣左に安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20211227093846j:plain
観音堂左の不明社、ここでは氏子社としておきます。

f:id:owari-nagoya55:20211227093908j:plain鐘楼門に続く境内南側に二つの祠があります。
右の地蔵堂は「清水次郎長地蔵尊」、左が六地蔵堂。

f:id:owari-nagoya55:20211227093927j:plain
清水次郎長所縁の地蔵尊とされ、以前は亀崎街道の県道沿い安置されていたそうで、時代の流れで居場所を失い光照寺に安置されたようです。

勝負事に御利益があるとされ勝軍地蔵、心願成就地蔵とも呼ばれるそうです。
そもそも「亀崎清水の次郎長さん?」となるだろうが、その昔の亀崎は海運業が盛んで舟の往来も多かった。
講談にも取り上げられる話で、八尾ケ嶽惣七の四股名の相撲取り、穂北の久六は博打が好きで十手持ちでもあった。
次郎長からも情けをかけてもらうなど親交があり世話になるも、ついにはその道にどっぷりと浸かっていき博徒として子分を持つほどの頭角を現していったという。
悪行の数々を働き、次郎長からも行いを改める様に再三警告を受けていた、久六は次郎長の名声や警告を嫉み、次郎長に有らぬ疑いをかけ捕縛を画策したという。

幸運にも逃げきった次郎長は、大政、森の石松八五郎の子分を呼び、亀崎巡業に訪れていた久六を誘い出し、亀崎街道の現在の乙川駅付近で久六やその子分を襲撃、次郎長により右腕を切り落とされた久六は虫の息となった。
見かねた村人が久六を取板の上に乗せ光照寺に運びそこで息絶えたと云う。
1859年(安政6)のことだという。
この地蔵は久六打ちを前に、次郎長が成功を祈った地蔵され、以来勝負事に御利益あるとされ参拝者が訪れるのだそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20211227094000j:plain六地蔵堂に安置されている地蔵達、どれだけの年月を重ねてきたものか、一部に表情は消えかけようとするものも安置されていました。

f:id:owari-nagoya55:20211227094020j:plain

地蔵堂から山門方向眺め、地蔵堂の左が手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20211227094041j:plain

参拝を終え西側から光照寺を眺める。
成瀬隼人正家の粋な計らいで形になった二層の観音堂と鐘楼門が印象に残る寺だ。
2021/9/24

f:id:owari-nagoya55:20211227094102j:plain

乙川の清き流れに佛を映せば胸の垢や落ちなん

開運山 光照寺

宗派 / 時宗
創建 / 1342年(興国3)
建立 / 源 親房
​本尊 / 阿弥陀如来
札所 / 知多四国霊場十八番札所 / 知多西国霊場三十二番札所
所在地 / ​半田市乙川高良町120(乙川八幡神社から徒歩約10分程)
関連記事 /  

owari-nagoya55.hatenablog.com