ここまで上ってきた道も社頭で行き止まり、道の正面に社号標が見える。
駐車場はこの辺りと、社頭左に2台ほど停められる。
安産岩
社頭に続く道の手前に大きな岩があり、その上に石の社が祀られています。
その右手には更に古そうな社が祀られていた。
その昔難産に苦しむ一人の妊婦が一之宮に願いをかけ日参したという。
以来この岩は安産岩と呼ばれるようになった。
上
夫婦岩
安産岩から社頭に向かう道沿いの左に二つの岩。
湯梨浜町文化財ガイドブックには以下のように紹介されていた。
「二つの岩は右の岩が女性、左の岩が男性を表わしているという。
一説によるとここで、夫婦の契りをかわし、安産岩で安産を願い、倭文神社でおはらいを受けるという、一連の夫婦和合から出生までの経過をたどることができると伝承されている」
下
倭文神社社頭
右に古い手水鉢、社号標、参道は緩やかに右に曲がる石段が続く。
スロープもあり車椅子の方に対する配慮もされている。
正面に刻まれた元号は宝暦(1751~1764年)とあり辰の字も見える、宝暦十年(1760年)に寄進されたもののようだ。
石の明神鳥居で額は「伯耆一ノ宮倭文神社」
柱には一宮大明神、享保12年(1727)の元号が見られ、手水鉢より少し古い。
古くから神仏習合し「一宮大明神」や「倭文大明神」など呼ばれていた名残がここに残っています。
鳥居は苔むしてはいるが、目立った罅もなく300年間風雪に耐えて来たとは思えない。
4本の棟持ち柱を持つ切妻の三間一戸の八脚門で、遠目に見ると素木の外観は人目を引く彩色もなく、一見地味に見える。
ところが間近に来ると、部材の至る所に繊細な彫が施され、興味の有る無しに関わらず訪れた者は必ず足を止め見上げる事だろう。
虹梁やらなにから見ての通りの彫が施され、雲の中で蠢く龍もいる。
棟梁や建立年度など分からなかったけれど、こうした彫は本殿も同様。
本殿の再建が1818年(文化15)と云われ、同時期あるいは1872年に造られたものだろう。
手先が不器用な自分からすれば、人の手によりこうした形にできる技術は神業その物。
見入ってやらなければ失礼と云うものだ。
社地は鬱蒼とした社叢に包まれている。
湯梨浜町文化財ガイドブックにはこうも書いてあった。
「記録的な初見は808年(大同3)に編纂された「大同類聚方」によると「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也・・・」と記載されている事から少なくとも平安時代初期には既に祭られていた事が窺えます」とあった。
更に
「940年(天慶3)以前は波波伎神社(伯耆神)が上位に列していた事から、どちらが伯耆国一宮かは不明だった。境内から発掘された伯耆一宮経塚の出土品の銘文(山陰道伯耆國河村東郷御坐一宮大明神)から、1103年(康和5)時点で倭文神社が伯耆国一宮だったことが明確となり、少なくとも平安時代後期には倭文神社が伯耆国一宮だった事が改めて判明しました(逆に言えば当初の伯耆国一宮は波波伎神社で何らかの理由から倭文神社に変更になったとも言えます)」
ここに出てくる波波伎神社は東郷池西方の倉吉市に鎮座し、ここから車で30分もあれば行ける。
とはいえ、伯耆国一宮参拝すら予定外で訪れた、二日目の大命題「鳥取砂丘を雨が降り出す前に見終わる事」を思うともうこれ以上西には向かえない。次のお楽しみとしておこう。
参道を進むと正面に社殿と左に手水舎が見えてくる。
訪れたのが2021/10/25、流行病も下火?と錯覚していた時期だった。
写真では大きさが伝わらないかも知れないが、小さなものではない。
後ろ足を立て、頭を下げて耳を伏せた前屈みの態勢は今にも飛び掛からんばかりのもの。
年代や石工等不明ですが、石の風合いから容姿には貫禄すら漂う。
拝殿は平入の入母屋造りで大棟後方右側に神饌所(?)が付く特徴のあるもの、そこから渡廊と流造の本殿に繋がっていきます。
倭文神社は1521~28年(大永年中)戦禍に巻き込まれ焼失、1600年(慶長5)にも焼失しているそうで、1625年(寛永2)に社殿再興、現在の社殿は1818年(文化15)造営とされ、1872年(明治5)随神門も造営された。
祭神は先の通り健葉槌命(主神)、下照姫命、外五柱(事代主命、建御名方命、少彦名命、天稚彦命、味耜高高彦命)。
下照姫命が湯梨浜町宇野に降り立ち、御冠山中腹に祭られるようになったのが始まりと伝えられ、下照姫命が安産普及に尽力を尽くした神という事から、安産に御利益があり、一時期に於ては主神とされた頃もあったようです。
社殿全景、この位置でも本殿の姿は見ることが出来ません。
上
左側から見る拝殿。
下
拝殿から本殿の眺め。
三間社流造の本殿は3本の鰹木、外削ぎの千木が付き、光物の少ない素木の外観は随神門同様落ち着いた外観。
虹梁、木鼻、妻壁等は随神門で見たあの彫が施されています。
朝もやに包まれているようですが、落ち葉焚きの煙が漂い絵がぼんやりしてしまった。
上
本殿後方で見かけた石塔、年代は不明。
下
社務所。
受付前の時間でしたが快く御朱印を頂けました。
社務所から随神門方向に少し戻った左側に燈籠があり、山中に続く道が伸びています。
「境内から発掘された伯耆一宮経塚」とはこの山道を5分程登ったところで発掘された。
上り口に「伯耆一ノ宮経塚」の解説板があり、それが目印。
最初は石段が付いていますが、すぐに下の様に階段のない地山の坂に変わります。
枯れ葉が積もり気を抜くと滑りやすい道です。
「伯耆一ノ宮経塚」
参道から続く山道を5分程上った小高い尾根の頂にポッカリと開いた窪み、周囲は注連縄で結界が張られ
たその場所が経塚。
伯耆国一ノ宮経塚は1935年(昭和10)に国指定史跡に指定されています。
高く聳える樹々が経塚の周囲を取り囲み、境内以上に静けさが漂う。
上
「伯耆一ノ宮経塚」
この地は古くから伯耆一ノ宮倭文神社の御祭神・下照姫命の墳墓と伝えられていた場所。
「元旦の朝に金の鶏が鳴く」という金鶏伝説のあった場所でもある。
経塚の築造は平安後期、神仏混合の時代で伯耆一ノ宮にも神宮寺が幾つか建立されていたという。
経塚の発掘は1915年(大正4)に行われ、伝承に従い地元の人々により発掘が進められた。
そこから直径16㍍、高さ1.6㍍の経塚が発掘され、経筒には1103年(康和5)の銘と共に京尊という僧が、何れ弥勒菩薩が出現するので、それまで功徳を積んでおく必要性を説いています。
石棺は長さ1.2㍍、幅0.9㍍、高さ0.5㍍の安山岩製で棺内には出土品と共に荒砂が敷き詰められていたといいます。
経筒以外の出土品は観音菩薩立像(白鳳時代)、千手観音菩薩立像(平安時代)、弥勒菩薩立像(平安時代)の他に銅鏡、瑠璃玉、短刀、銅銭等が発見され、何れも1953年(昭和28)に国宝に指定されています。
下
経塚の右にはそれを見守る様に石仏が安置されていた。
色々な言い伝えがあるけれど、頭から「ナイナイ」と決めつけられないようだ。
東郷池を渡る白蛇や町史にあった「境内は蛇が多く、倒壊した御神木の中は空洞で、蛇の巣・・・」など
「ナイナイ」では決めつけられないかもしれない。空を覆う黒雲や鬱蒼とした社叢など雰囲気は整っているようだ。
今にも泣きそうな空模様、龍が下りてくる前に鳥取砂丘に向かう事にする。