城下街出石町を散策していると小さな神社や祠をそこかしこに目にすると思います。
以前掲載した出石町魚屋の國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)から出石町材木方向の天満宮を掲載します。
國朝天女稲荷から天満宮は南に約150㍍程、道の先に見える距離です。
以前掲載した出石町魚屋の國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)から出石町材木方向の天満宮を掲載します。

國朝天女稲荷から天満宮は南に約150㍍程、道の先に見える距離です。
その前に國朝天女稲荷の向いに建つ白いレトロな外観の建物に視線が行くと思います。
城下街の雰囲気漂う街中に文明開化の香り漂うこの建物は出石明治館。
エキゾチックな外観のこの建物は1887年(明治20)に郡役所として建造された木造建築の建物。
出石の町に唯一残る明治年間の建築物で1983年(昭和58)に保存整備されたものという。
古い建築物を伝え残す、辰鼓楼で熱く語りかけてきた地元の方がそうであったように、出石に住む者の郷土の誇りが伝わってくる。
天満宮由緒
御祭神は管原道真公。
明治の始め「神仏分離」により藩校弘道館正門跡の現在地に祀られたもの。
弘道館は維新期の東京大学初代総長加藤弘之博士など多数の人材を輩出した。
当地東隣には町人に儒学を教えた義倉役所もあった。
現在もこの付近に弘道館跡碑(聖堂跡)や藩儒桜井氏の屋敷跡など学問に所縁のある文雅な遺跡が散在する。
毎年7月24・25日、学業成就・家内安全祈願大祭を行っている」
神仏分離でこの地に遷座したようですが由緒から創建時期や元々の鎮座地について記されていなかった。
兵庫県神社庁など調べて見るも足取りは掴めませんが、出石町材木に鎮座し2世紀ほど、今も町民から崇敬される天満宮。
奥に長い社地、間口一杯に建てられた入母屋瓦葺の拝所。
拝所に掲げられた「天満宮」の額。
拝所内にはいくつかの奉納絵馬が掛けられている。
行人包の武将が振りかざす刃を軍配で受け止める武将、描かれているのは川中嶋合戦の謙信と信玄だろうか。奉納年度は記されているも既に消えかけ、推測すらできなかった。
拝所内の両脇に長椅子が置かれていたのが印象に残ります。
ここで井戸端会議に花を咲かせるのだろうか。
いつの間にやら、黒雲が湧きポツン〃と降り出してきた。
散策中に急な雨に降られても、天満宮が受け入れてくれそうだ。
社頭の祠は弘法堂の様です。

放射状の赤い線は光背を描いたのだろうか?、供えられた花の陰で姿をよく拝めなかった。
こちらの大師像は祇園さんで見かけた弘法大師以上に色使いに拘りを持っている。


