目的地の金城町4の「六所社」までゆっくり歩いて25分くらいか。
住宅が立ち並ぶ区画が続く一帯に一区画を社地として与えられた「六所社」が現れる。
区画の一部に光城学区集会所もあり、この区画は金城町のコミュニティーの場と云っても良さそうだ。
明治の頃の周辺の地図を見ると周辺は水田が広がり、黒川樋門から導かれた庄内用水が田畑を潤していた。
「黒川樋門」
水田が広がる中に集落が点在する地域だったが、昭和に入り急速に区画整理が進み、水田は宅地に変貌していった。
六所社から5分も北に進めば用水沿いに「庄内用水緑道」として歩道が整備され、今も緑と水を身近に感じることが出来る。
街中にあって、今では六所社の杜は貴重な緑をたたえている。
社頭から境内。
常夜灯と右に「六所社」の社標、神明鳥居の先には石の蕃塀が見える。
境内へは東に鳥居を構えた脇参道がある。
社頭左の由緒書き
「六所社
祭神 伊弉諾神、伊弉冉神、大国霊尊、素盞嗚尊、月夜見尊、蛭子尊
祭儀 例大祭10/19、祈年祭1/10、新嘗祭11/10、月次祭毎月10日、天上祭7/10
由緒 創立年月日不詳なれど古文書の記録に天文十六年再建と記載があり天文年間以前より御鎮座ありし事は確か」
六所社や六社神社(宮)の社名の神社は全国でも見かけます。
創建時から六柱を祭神としていた場合、近隣の六つの神社を合祀したなどがあり。
こうした社名の神社は市内北部、特に北区にこうした社名を冠する神社が集まっている。
金城町の六所社がどちらにあたるのか、由緒にそうした事の言及まで記されていないので定かではない。
個人的に田園風景広がる一帯に集落が点在し、人が集まれば拠り所として規模の大小を問わず神は祀られていっただろう。
再建が1547年とあるので、現在に至る過程で纏められて行ったのが自然な流れと思います、それくらいの様変わりです。
創建となると更に遡る事になるがそうした元号を刻むものは境内では見受けられなかった。
参道の左に手水舎、瓦屋根を支える柱は見るからにか細く補強が施されていた。
参道に戻ると正面に石造りの蕃塀が構え、手前の高い台座の上に狛犬。
1940年(昭和15)に寄進されたもので肉付きの良い姿。
控え柱の付く石の蕃塀、下部の両脇に獅子、中央に羊が彫られたもので、上部に二匹の龍も彫り込まれている。1935年(昭和10)の寄進。
蕃塀後方から社頭方向、右手は神楽殿だろうか。
境内中央に一際大きく育った二本の楠木が空を覆う様に枝を張る。
樹高の高さもあり、住宅が広がる一帯にあって遠くからでも六所社の存在が分かる。
温暖な地方では楠木の成長は早く、高く伸び枝を張ります、間違ってもシンボルツリーにしてはいけない。
木陰の下は心地いいけれど、我が家の桂も巨大化し、今では樹の成長の速さと剪定の鬩ぎあいだ。
拝殿全景、シャープでスタイリッシュな外観の木造平入拝殿、その前で狛犬が守護するが顔ぶれを紹介できない。新年早々撮り忘れてしまった。
拝殿額「六所社」と拝殿内は五三桐と菊の紋に視線が行く、幣殿から本殿方向の眺め。
幣殿奥にも木製と思われる狛犬の姿がある。
1547年の棟札が残る年月を積み重ねた神社ながら、近年建て替えられたようで伽藍はとても新しい。
拝殿前のとても特徴のある御神木の楠。
思わず表情も緩む…マスクしていてよかった。
拝殿右側に境内社が複数祀られているが残念ながら個別の社名は分かりません。
大正時代の狛犬小さいものですが阿形の表情は猛々しい物がある。
祭神の看板が掲げられていて、大日霊尊、伊弉諾神、伊弉冉神、大山祇命、素盞嗚尊、天照大神、猿田彦大神とある。
正面から見ると大きめの社と左右に小振りの社の三社の様に見えます。
しかし斜めや後方から眺めると後ろに二社が祀られ、この一画に五社が纏められています。
どれがどれやら分からない・・・
斜めから境内社と本殿の眺め、どちらも神明造で千木は共に内削ぎ。
上
境内社の東隣に殉国英霊之碑が建てられている。平和な日常の礎となった英霊を祀る。
境内社後方。
赤い板宮造りの社が二社姿を現す。
六所社本殿域内は窺えず状況は分からなかった。
六所社社殿全景。
市街地にありゆとりのある社地を持つ美しい神社だと思う。
この一画だけはゆったりとした時間が流れていた。
2022/01/05
金城 六所社
創建 / 不明(天文十六年再建)
祭神 / 祭神 伊弉諾神、伊弉冉神、大国霊尊、素盞嗚尊、月夜見尊、蛭子尊
所在地 / 名古屋市北区金城町4-27
公共交通機関・徒歩ルート / 市営地下鉄名城線「黒川」降車、北へ徒歩25分
駐車場 / なし(東側に交番がある)
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