豊岡市出石町「諸杉神社」

天満宮から谷山川の下流に向け2分程歩くと、正面に出石町駐車場が現れ、路は左に向きを変えます。
正面に谷山川に架かる橋があり、橋の対岸に鳥居が見えます、橋の手前右側には「諸杉神社」の社号標が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20220204151539j:plain社号標も鳥居も苔むし、古くから続く神社のようです。
鳥居の先に社殿らしき姿も見え、雨は少し強くなってきましたが、あそこまでなら参拝する時間はあるだろうと橋を渡り向かう事に。

f:id:owari-nagoya55:20220204151557j:plain石の明神鳥居の先は左に赤い社務所?、右に手水舎、正面が社殿か?
参道は中ほどで右にも伸び、手水舎の後方に控え柱らしき姿も見える。

f:id:owari-nagoya55:20220204151616j:plain鳥居をくぐった左の建物はやはり社務所、「諸杉神社社務所」とあるが無人のようだ。

f:id:owari-nagoya55:20220204151634j:plain橋から見えていた建物は本殿ではなさそうだ、建物は社名札が見当たらず詳細は不明ですが
どちらも注連縄が吊るされ、右側の建物は鈴緒が吊るされGマップにある川下神社かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20220204151706j:plain境内右手方向は、内町通りからだと樹々の陰になり見通せなかったが、橋を渡り終えると手水舎の横に建つ両部鳥居と諸杉神社の社殿が広がっていた。
周囲は杜に包まれ、境内を苔や下草の緑が一面覆い、静かで印象に残る光景が広がっていた。

ニノ鳥居となる木造の両部鳥居の右に手水舎、その先が拝殿。
雨の中参拝し見て廻るには多少時間が必要、これ以上雨脚が強くならなければいいが。

f:id:owari-nagoya55:20220204151733j:plain鳥居の額には「諸杉大明神」とある。
カメラを上に向けると雨が降り込みひっきりなしにレンズを拭くことになってきた。

f:id:owari-nagoya55:20220204151752j:plainこの辺りに掲げられた諸杉神社由緒。

・鎮座地 兵庫県豊岡市出石町内町
・御祭神 多遲摩母呂須玖神(但馬諸助神)
・多遲摩母呂須玖神は新羅国王子天日槍命の嫡子で、母は多遲摩之俣尾の女 前津見である。
 古事記日本書紀に記される清彦、田道間守の祖で、神功皇后の母、葛城高額比売命の祖である。
・創立年月は不詳。
 延喜式内の古社で、始め出石川側の出石町水上に鎮座していたが、当國の守護 山名氏の居城を
 出石町宮内の比隈山より出石 有子山に移すに及び、当社を城下の現在地に移転された。
 累代の出石城主の崇敬厚く、江戸時代小出大和守は長刀を奉献、松平忠徳は社殿を改造し宝駕を具え
 華表を建て、治下瑞泉寺主釋大梅に諸杉大明神記を選ばしめた。
・寛保二年(1742)仙石政辰は社殿を改築、神供五石八斗を寄進。
・宝暦二年神霊を勧進し且つ同僚諸侯及び有名な宗匠に俳句を求め、扁額として拝殿に奉納された。
・仙石氏が出石城主の時、在城の年は年首必ず自ら参拝、参勤交代の時は帰城の年早々必ず自ら参拝し
 た。
・明治六年(1873)十月郷社に列せられる。
・明治九年(1876)三月二十六日夜、民家より失火し、社殿は悉く類焼。
・明治十五年(1882)新に工事を起し、明治十七年(1884)十月十四日現在の本殿、拝殿が竣工。
・大正十三年(1924)四月二十一日縣社に列せられる。

本殿建物
・正面三間 背面二間、側面二間、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、鋼板葺
祭礼
・例祭(秋祭) 10月中旬
境内神社
・川下神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社、
 稲荷神社

いかにも出石、祭神は天日槍命の子「多遅摩母呂須玖神」を祀る、一説によると社名の「諸杉(もろすぎ)」は「母呂須玖」が訛ったものだと云う。

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手水鉢と龍口。
鉢は昭和に入り寄進されたようだ、龍から注がれた清水は鉢を満たす事はない。

f:id:owari-nagoya55:20220204151842j:plain拝殿全景。

拝殿に続く参道を2対の狛犬が守護している。
 
由緒によれば、当初は出石町水上(むながい)に鎮座とある、先に掲載した出石神社から徒歩で南に15分程に鎮座していたようですが、創建は更に遡る事になる。
この地に遷座するきっかけとなった、山名祐豊による出石城の築城が1574年(天正2)とされ、この地で5世紀近く継がれて来た神社。

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手前の狛犬

寄進年度は不明ですが、阿形は苔むし、裏から見ると緑の顎鬚のようで年季を感じさせる趣のある姿。
双方とも紅潮し胸は桃色に色付いている。

f:id:owari-nagoya55:20220204151919j:plain拝殿前の狛犬
こちらも阿形は苔に包まれようとしている。
明治の大火によるものなのか、経年劣化なのか一ノ鳥居や狛犬の黒ずみは何かを語っているようだ。
寄進年度が分からないので何とも言えないところ。

f:id:owari-nagoya55:20220204151937j:plain拝殿左に境内社が祀られていたが社名が分からない。
こちらの燈籠も赤みを帯びている、石材から由来するものなのか、妙にこの色は気になる。

f:id:owari-nagoya55:20220204151953j:plain拝殿左に神池があり小さな太鼓橋が架けられている、境内社厳島神社とあったがその先に社の姿を見かけなかった。

参道は本殿脇に続き奥には複数の社が祀られています。
本殿を囲む玉垣は赤く塗られていたのか、名残を留めている。

後方に見える朱の鳥居は有子山稲荷に続く参道。

f:id:owari-nagoya55:20220204152011j:plain本殿左の境内社
一社ゝ参拝させて頂くも何れも社名札はなくどれがなにやら…
出石の町を散策を始めると賽銭用の小銭入れが軽くなるのが早い。
軽い賽銭に対し相変わらず願いだけは重いものがある。

f:id:owari-nagoya55:20220204152028j:plain1884年(明治17)に再建された本殿。

焼失前の姿を再現したものなのかは不明ですが実にいい姿をしている。
光物は目に付かないが造りは手が込んでいる。
入母屋造りに千鳥破風と唐破風向拝が施され、向拝や虹梁、木鼻などの彫物は見応えがある。

f:id:owari-nagoya55:20220204152044j:plain破風の毛通しにはくちばしを赤く彩色した鳳凰や向拝には劔を抜き鳥に立ち向かう神の姿、その上で向拝を支える力士の姿が彫られている。
これらの彫飾りは丹波柏原藩、現在の兵庫県丹波市の宮大工中井道源(~1698年没)を初代とする中井権次一統の八代目中井権次橘正胤(1854~1928年)の作、再建時期を考えると脂が乗り始めた頃の作品だろう。
派手な彩色をせず、目や口にポイントを絞って赤が塗られているあたりとても好感が持てるもの。
各部を拡大し撮ってみたが、レンズに雨があたり一枚も掲載できるものがないのが残念。

本殿自体は高欄や向拝柱等に朱で塗られていた面影が残り、本来は赤く存在感のあるものなんだろう。
あるべき姿を見たいような気もするが、個人的にこの色調がいい。

f:id:owari-nagoya55:20220204152102j:plain本殿右の境内社
手前に三社、少し奥の一段高い境内に一社祀られていますが何れもどれが何やらでした。
狐の姿すら見当たらなかった。
とはいえ、僅かな賽銭大きな願い、しっかりお願いして来た。

f:id:owari-nagoya55:20220204152120j:plain諸杉神社本殿後方から見る社殿。
写真を撮るには難があるけれど、雨に霞む山々を背景にそぼ降る雨に打たれ佇む姿は快晴の時には感じえない別の表情を見せてくれる。

f:id:owari-nagoya55:20220204152137j:plain境内社の脇から有子山稲荷に続く参道に出ることが出来る、参道から諸杉神社の眺め。
正面の朱色の鳥居は「稲荷神社」、有子山稲荷は山の上に向かって奉納鳥居が続く石段を上った先。

f:id:owari-nagoya55:20220204152157j:plain山の上に向かって伸びる石段と鳥居。
有子山稲荷、行ってみたかったがこの雨の中では進む気になれなかった。
車に戻る事に戻ろう。
出石町駐車場から谷山川に架かる有子橋、この朱色の橋が諸杉神社への近道だろう。

f:id:owari-nagoya55:20220204152213j:plain出石町駐車場付近から眺める出石城、右手に登城橋と登城門。

出石城は当初から天守を持たず、有子山の傾斜地を利用し、堀で囲った三ノ丸を築き、下ノ丸、二ノ丸、本丸、稲荷丸と階段状に曲輪を築いたもので、そこに4つの櫓と藩庁や居館が建てられていたとされます。
現在は本丸西隅櫓と東隅櫓が復元されています。


2021/10/26
諸杉(もろすぎ)神社
創建 / 不明
祭神 / 多遲摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)
境内社 / 川下神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社、稲荷神社
祭礼 / 例祭(秋祭) 10月中旬
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