門前町を西に進むと、朱の東大鳥居が現れる。
鳥居の先に朱で彩られた二層の楼門。
社伝によれば540年(欽明天皇元年)鎮座とされ、810年(弘仁元年)に正一位の神階と日本総社の号を奉られ、一条天皇(980~1011)の正歴年中、天王社の号を授かり天王社の本社として全国に約3000社の分社があります。
歴史があるだけに当然ながら尾張名所図会にもその姿は残されている。
広大な境内に塔頭寺を含め規模の大きな伽藍が描かれています。
上は写真の東鳥居を下にして門前町と右脇に宝寿院、上に向け伽藍と参道には多くの参拝者の姿が描かれています。
伽藍は挿絵の左に建つ南鳥居から更に左方向に続いていきます。
昔も今も津島神社に参拝する参拝客の姿は途絶える事はない。
当時と今で大きく違うのは、歩きから車に変った事、東大鳥居周辺は参拝者駐車場となり多くの車が駐車し賑わっている。
上は先の挿絵の南門から左の続き。
南門前の広い境内に南大鳥居が建ち、現在は鳥居から南門にかけて駐車場となっています。
参道を更に南に進めば天王祭で知られる津島湊(天王川公園)も近い。
600年以上受け継がれ、昨年は7月24~25日開催予定でしたが中止を余儀なくされたようです。
祭りは無形民俗文化財、ユネスコの無形文化遺産にも登録され、まきわら船の屋台の上に365個(1年の日数)の提灯、中央の真柱に12個(1年の月数)の提灯をかかげあかりをともし天王川を漕ぎ渡る夏の風物詩。
古くは信長もこの天王祭をよく見物した云う。
現在は流れは堰き止められ池となったが、挿絵には滔々と流れていた頃の天王川を舟で訪れる姿もある。
東大鳥居から太鼓橋を経て国の重要文化財に指定される楼門方向の眺め。
1941年(昭和16)に修復の手が入っている。
楼門左の末社。
右
愛宕社 祭神 迦具土神(防火・火の守護)
1760年(宝暦10)建立の銅板葺流造の社で、元は楼門外北側の橋守社と相似して鎮座していたが神厩移転の際現在地に遷座。
左
橋守社 祭神 猿田彦命(交通安全・導きの神)
銅板葺流造の社で、1760年(宝暦10)建立、元は天王川に架かっていた天王橋の守神として橋の袂に祀られていたとされ、橋姫社と称していたという。
楼門右に手水舎、手水鉢。(写真は2018年6月撮影)
津島神社由緒と境内案内図
祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)
由緒
「津島神社は古くは津島牛頭天王社と申し今日もなお一般に「お天王さま」と尊称されております。
境内には本殿含め37の摂末社が祀られ、ここに掲載した末社はその一部分にしかすぎません。
(今回、写真を整理していて津島神社が未整理で投稿すらしていないことに気付き、2018年の画像を基に投稿しています)
上は尾張名所図会の当社記述。
津島神社を氏神とする信長から厚遇され、神社神紋紋木瓜紋と織田氏の家紋も同じである事など信長と神社の関りの深さが窺われる。
秀吉が1591年(天正19)に寄進した楼門、丸柱や三手先の斗供、垂木など赤く塗られた二層の門は、軒の長さもあり、艶やかでどっしりとした安定感を感じさせる。
国の重要文化財に指定されている。
楼門から境内の眺め。
上は授与所から拝殿方向。
下は拝殿から南門方向の眺め。
拝殿から本殿方向の眺め。
南門、蕃塀、妻入拝殿と平入の祭文殿、それに廻廊が左右に繋がり、渡殿から流れ造りの本殿に続く尾張造。
檜皮葺の切妻妻入拝殿は1649年(慶安2)建造とされ県の指定文化財。
この先にある祭文殿や渡殿は1823年(文政6)の建造で廻廊は1825年(文政8)の建造で何れも県の指定文化財。
本殿は1605年(慶長10)の棟札が残り国の重要文化財に指定されている。
上
楼門左側の摂末社群、突き当りから南門方向にも複数祀られている。
境内にある摂末社の内、ここから南に祀られた摂末社を参拝して行く。
下
柏樹社 1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。
御神徳 無病息災。
上
瀧之社(左)、祭神は配水の神、弥豆麻岐神を祀る。
右は和御魂社、1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命和御魂。
1760年(宝暦10)建立で祭神は建速須佐之男命奇御魂。
御神徳 無病息災
下
突き当りに鎮座する二社
左
大蔵社(左) 穀物の守護神大年神を祀る。 右が熱田社、災難除けの神、倭建命を祀る。
更に右へと社が続く。
上
熱田社から南門方向の摂末社、ここからは社名むと祭神のみ記載。
左から
米之社(宇迦之御御魂神)、児之社(若年神)、大社(大山咋命)、外宮(豊宇気比売命)、船付社(庭高津日神)
と南門に向けずらりと鎮座する。
下
南門から見た摂末社。
上
摂末社を過ぎるとシックな蕃塀が建つ、檜皮葺で控え柱の付くもので中ほどは透垣になっている。
江戸時代後期の建造で県の指定文化財。
正面の鳥居は弥五郎殿社。
下
南門。1598年(慶長3)建造の四脚門で県の指定文化財。
秀吉が病に伏した時、秀頼の発願で清洲城主福島正則が建立したとされる。
南門から入ると左側に三社祀られています。
左から多度社(羽山戸神)、秋津比咩社(速秋津比売命)、内宮(天照大神)。
本殿は流造で拝殿・本殿共に1673年(寛文13)の建造でどちらも県の指定文化財。
祭神は大穴牟遅命、武内宿禰命。郷土の守護
社家堀田一族の堀田弥五郎正奏が造替、津島神社社宝で国の重要文化財の大原真守作の佩刀を寄進するなどから弥五郎殿社と呼称されるそうだ。
上
拝殿右の社は戸隠社(手力雄命)
下
弥五郎殿社拝殿から本殿の眺め。
上
弥五郎殿社から津島神社拝殿方向の眺め。
気付かなかったが左の西の廻廊と東の廻廊にまだ多くの摂末社が祀られていた。
次回はこの摂末社は忘れずに参拝しよう。
下
蕃塀から境内方向の眺め。右は旧授与所。
ここから南門を出て南大鳥居方向に。
神橋から南門境内の眺め。
上
神橋の左に南門参道の手水舎がありその左に石標が立つ。
下
石標は照魂社とあり、正面の鳥居から先に拝殿と本殿が祀られている。
津島照魂社の謂れ
「昭和26年10月9日、旧津島町出身の英霊六五八柱を奉斎して遷座され、祖霊社としてお祀りしたのが始まり。
昭和29年10月10日現在地に移築し社頭を整備した。
昭和51年5月、終戦30周年記念として本殿の修復及び境内整備を行う。
昭和54年8月、遺書掲示板を設置し、同年12月には狛犬一対が奉納された。
主な大祭(祭典)、御魂祭/7月15日(夜)、10月10日(昼)、月次祭/毎月10日(午前)
現在祭神数一一七三柱」
郷土のために英霊となられた方々へ、平穏な日々が送れることに感謝するしかない。
上参道入口にある津島市指定先祖の遺産「三つ石」
長さ2㍍、1.4㍍、3㍍、直径1㍍ほどの石がトライアングル上に配置されている。
この石については何ら伝承がないという。
尾張名所図会の神社境内図の現在地と同じ位置に三つ石は描かれている。(下)
津島神社は540年(欽明天王元年)に居森の地に鎮座と伝承されており、古代祭禮の場ではないかとも云われる。
この三つ石はその一角に置かれていて津島神社の鎮座と関わりがあるのかもしれない。
ミステリアスな石だ。
写真下
鳥居の先、中央に菅原社、左にも小さな社と右側の絵馬掛けの先にも社が祀られています。
正面の菅原社
1644~1647年の政保年間、津島神主氷室氏の邸内社として京都北野社(北野天満宮)から勧請されたもので1901年(明治34)にこの地に遷座したもの。
祭神は菅原道真、例祭は3月25日。
左の社は不明。
菅原社の右に小さな鳥居を構えて鎮座する社。
ここから南大鳥居方向に進めば疹社と摂社の居森社が鎮座していますが、宝寿院で御朱印の話に盛り上がっているかみさんの元に戻る事にした。
2018/6/15
津島神社
創建 / 540年(欽明天皇元年)
祭神 / 建速須佐之男命、 相殿 / 大穴牟遅命(大国主命)
摂末社 / 南大鳥居参道沿い、境内廻廊の南、東に本殿含め37社
所在地 / 愛知県津島市神明町1
公共交通機関アクセス / 名鉄津島線「津島」駅から西に徒歩15分程
関連記事 /
余談
今回、豊場中之町『津島社』掲載の時に関連記事として津島神社へ飛ばしたかった。
しかしさっぱり見当たらず纏めていない事に気付き急遽掲載する事にしました。
少し出歩きやすくなったら、見逃した摂末社や新しい御朱印を頂きに行こうと思っています。
この際にコロナ直前の京都、奈良などの神社仏閣の写真が多数出てきた。
参拝客の映り込みが多く見送っていたのだろう。
メジャーな神社仏閣を訪れるにはある意味今がいいのかもしれない…が。