嘗ての矢田川堤に鎮座する『中切町 神明社』

名古屋市北区中切町2-21
前回掲載した金城の「六所社」
そこから中切町の神明社まで北へ10分程進みます。
中切神明社矢田川「右岸」の堤の高台に鎮座する神社…だった。

この辺りまで来ると北を流れる矢田川庄内川の流路抜きに始まらなくなる。

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という事でひと昔前の地図。
左が明治中頃、右がほぼ現在の庄内川(上)と矢田川(下)の流路。
中央の黄色のマーカーが中切の神明社で明治の頃は矢田川右岸に鎮座していた事が分かります。

一帯は現在の北区福徳町、中切町、成願寺間が庄内川矢田川に挟まれる地形で古くは川中三郷と云われていた。

庄内川矢田川が合流する一帯は、川底の高さもあって古くから水と鬩ぎあってきた地域。
川は時としてそこに住む者に試練を与えるが、見返りとして土壌を豊かにし水は田畑を潤す。
そうした立地に生活する上から輪中や石を高く積み上げ家を建てる水屋などが生まれた。


その流れを制御する目的から、1930年(昭和5)から1932年(昭和7)にかけて流路を整える付け替え工事が行われた。
川に挟まれた集落だった地域は川の外になり、神明社が鎮座地する下中切のある川中村などは左の地図を見れば一目瞭然。
過去の立地を伝える町名、川の外になった村は現在も川中町として名が残っている。
因みに下中切の由来は水系上流に中切の地名があり、その下にあたるこの地には下が付いたようです。

住宅が広がる今の中切町の光景から当時は想像できませんが、昔の流路は庄内用水沿いにあたり、川の中の面影は中切の神明社で見られます。

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中切神明社北側からの眺め。
この盛り上がりはどことなく古墳をイメージしますが、つい最近までこの高みの南側を矢田川が流れていた。
社頭はここから南側に進ます。

f:id:owari-nagoya55:20220209211513j:plain社地西側の緩やかな上り坂を南に進むと、明神鳥居と境内に続く西参道が現れる。
ここからでも高台に鎮座する社殿の姿が見られる。
社頭は南側になります。

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中切町の神明社社頭。
新年を迎えた社頭には神明社の神社幟がはためいている。
参道の先に石の明神鳥居、その先に石の蕃塀が建っている。

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鳥居から見る境内。
松の内(7日)前なので鳥居の前には門松も飾られていた。
ここで鳥居の形に視線が行く、上では何気に明神鳥居と書いてはいるが、考えてみればここは神明社なので神明鳥居が定型だろうと思う、神明社=神明鳥居の凝り固まった考えは捨てるべきなのかもしれない。
寄進して頂ける方の思いが尊重されるもので、セオリーと思いは無縁のものと思うべきかもしれない。

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蕃塀から境内の眺め。
境内は中央に社殿、左に手水舎、社務所、その先は西の鳥居へ繋がる伽藍。
社殿は三方を杜りに囲まれ、特に蕃塀後方の巨樹は高く伸び、枝も四方に広がる立派な樹だ。

f:id:owari-nagoya55:20220209211629j:plain控え柱のある蕃塀は上に龍、下の両側に獅子、中央には牡丹?の花が彫られている。

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手水舎と西参道。
龍はお休みで長い首にしめ飾りが飾られていた。
じゃんじゃん清水を注げるその日を首を長くして待っている、そんな姿だ。

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手水舎左の石碑は忠魂碑。

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石段先の拝殿。

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社殿はコンクリート造りで比較的新しいように見える。
境内はとても綺麗に掃き清められていた。
石段の先に西陽を受け赤みを増した狛犬が待ち構えている。

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昭和34年に寄進された新しいものですが、均整の取れた姿をしている。

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拝殿に掲げられた額「神明社

拝殿から本殿方向、神社幕の神紋は五七の桐、正面に鏡も見て取れる。

神明社の由緒については定かではないようです。
平安末期、土地調査の為に作られた1143年の検注帳が領主の醍醐寺に残っているという。
往古はこの地から春日井にかけて安食荘の荘域だったとされ、安食荘の荘司だった安食重頼からも崇敬されていたという話もある。安食重頼はwikiによれば源氏の血を引く1112年(天永3)~1176年(安元2)の武将。
創建について地史を見開いても明確な記述など見当たらず、始まりはどこまで遡っていくのか分からない。この地の産土神として古くから今日まで受継がれてきた古社である事に変わりはない。

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社殿西側からの眺め。
神明社とあれば祭神は天照大神
鳥居の形じゃないけれど、凝り固まった視線で神明造りの本殿の千木や鰹木を見る。
鰹木は6本の偶数、千木は横にスパッと切られた内削ぎ、女神という事になる。
堤防の上に鎮座していたいう名残は後方の街並みと社殿の高さを比較すると感じ取れる。

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本殿前を守護する狛犬(昭和31年)

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本殿左に二社祀られています。
西鳥居の幟に秋葉社とある事から、どちらか一方は秋葉社なのかも知れない。
境内で由緒書きを見逃したようで、社名札が欲しいところです。

全ての参拝を終え拝殿から南方向を眺める。
眼下に続く街並みは庄内川矢田川の堤から眺めるものに通じるものがある。
分からない事ばかりの神明社ですが、狛犬が見つめる先につい最近まで川は流れていた。

中切町 神明社
創建 / 不明
祭神 / 天照大神
所在地 / 名古屋市北区中切町2-21
徒歩ルート / 六所社から北へ10分程、​名城線「黒川」駅から六所社経由30分程
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