出石町から粟鹿川左岸に鎮座する「但馬一宮粟鹿神社」までの移動時間はほぼ1時間程。
日々時間に追われる生活からかけ離れ、ゆっくりと時間は流れる、携帯なんて切っておけばいい。
社頭右に広大な無料駐車場があり、右奥に進むと御神木が聳えています。
社頭。
右に自然石に粟鹿神社と彫り込んだ社標が立つ。
榊が立てられた砂盛の先は石の明神鳥居、参道の先に勅使門と髄神門が見えている。
社頭前のマンホール。
蓋には鹿と菊と粟?が描かれている。
調べて見ると町花が菊だという、上の波の様なデザインは県旗、三角形は町章を表しているようだ、右側のデザインがよく分からなかった、町の木はモクセイです。
人によってこのデザインをモクセイとする方もある。
自分の目で見る限りどう見てもそれには見えない、粟と鹿で粟鹿郷か粟鹿神社を表しているようにしか見えないのだが。
鳥居扁額は「粟鹿神社」
石の鳥居は寄進年を見ていない、建てられたのは比較的新しいように見える。
上
鳥居をくぐった右に礎石が並べられている、鳥居が綺麗なところを見ると過去の鳥居の礎石なのかもしれない。
下
参道はすぐに広がりを見せ、右手に勅使門、左に随神門が見えてくる。
写真には入っていないが左に社務所がある。
勅使門
「朝来市指定文化財 粟鹿神社 勅使門
勅使が神社参向の時出入りする門、粟鹿神社では4回の参向があった記録が残る。
創建年は不詳。
桁行3.95㍍、梁間3.3㍍、妻造りの四脚門で建材の大部分は欅。
屋根は現在銅板葺だが、以前は檜皮葺。
柱は上下に粽(上下の先端をすぼめたもの)を施し、基盤の上に建てられている。
柱上の組物は中揃えの三斗組、海老虹梁は唐様式の手法を示す。
本柱間の両開きの唐戸は透かし彫りの欄間が付き、羽目板に鳳凰が刻まれている。
頭貫に簡素な若草模様が施され、全体的には唐様だが、妻梁を支える本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。
度々の災禍も免れたと伝わる数少ない遺構の一つ」
今だに欄間など彩色の跡が残り当時は鮮やかな色合いの門だったようだ。
勅使門から随神門まで白壁が続き、壁は更に先に伸びている。
門左に解説が掲げられていて随神像の解説が充実している。
「木造著色倚像(一対二体)は随神門に安置される
木造著色倚像(阿形)は随神門南東部に安置、総高117.6㌢、像高(座高)82.2㌢の一木造(内刳りなし)、彩色、彫眼。
左右に緌を付けた冠をかぶり、口は少し開け顔をやや左に向ける。
朱色の袍を着て、表袴をはき5本の矢を挿した胡ぐいを背負い、右手に弓を左に太刀を持つ。
木造著色倚像(吽形)は随神門北東部に安置、総高122.1㌢、像高(座高)87.3㌢の一木造(内刳りあり)、彩色、彫眼。
左右に緌を付けた冠をかぶり、口を閉じて顔をやや右に向ける。
黒色の袍を着て、表袴をはき左腰に太刀を佩く、5本の矢を挿した胡ぐいを背負い、右手に弓を左手に矢を持つ。
随神像の制作年代は両像ともに銘文は記されていない。
随神像内に収められていた棟札から江戸時代前期、宝暦5年(1755)に修理された記録が残る。
さらに棟札の裏に天和3年(1683)に再興の記録が残る。
台座は候補で色彩は殆ど剥落、像内に修理時の補材が見られるが像立当初の姿を留めている」
残念ながら随神門の解説はない。
木造著色随身倚像(吽形)
右手に太刀、左手に矢
下
木造著色随身倚像(阿形)
右手に弓、左手は太刀
表情が読み取れないほど退色と剥落は進み修復が待ち望まれる。
「粟鹿神社木造著色狛犬像(一対二体)は随神門に安置される
狛犬(阿形)は正式には獅子で像高89.4㌢、像長88.3㌢の木造、彩色、彫眼。
右足を少し前にして座り、やや左を向き開口する。
たてがみは巻髪。
狛犬(吽形)は像高97.6㌢、像長85.9㌢の木造、彩色、彫眼。
左足を少し前にして座り、口を閉じやや右を向く。
頭上に1本の角を出し、たてがみは直毛で房状に表している。
狛犬の制作年代は両像とも銘文はない。
迫力のある表情や力強さのある作風は鎌倉時代風であるが、背筋の後半が湾曲しているのは制作年代が新しい事を示す。
江戸時代前期の制作と推定される。
台座は候補で、彩色はほぼ剥落、足先に矢や傷みが見られるものの、力強く迫力がある姿を良く伝えているのは貴重」
狛獅子(吽形)
角は欠落したのか原形を失っているように見える。
左
狛獅子(阿形)
もっと多くの参拝客が訪れてもいい神社なのに、参拝者が皆無なのは寂しい限り。
手水舎
手水鉢には絶える事無く清水が注がれていた。
右は井戸の名残だろうか。
天満宮
手水舎の向かい建つ切妻瓦葺の覆殿。
鈴は上げられたままだった。
「こんな時期もあったね」と語れる日はいつ訪れるのだろう。
上
天満宮から見る社殿。
手前に土俵と社殿左右に境内社、本殿後方に大きな盛り上がりがある。
下
拝殿右の覆屋には猿田彦神社が祀られている。
社殿全景。
苔むした狛犬が守護する。
粟鹿神社は緑豊かな社叢だけではなく、境内全体に苔が多く自生し緑に溢れている。
緑に包まれた静寂な空間に漂う空気は、森林を歩いて感じるものと似て、とても澄んだもののように感じる。
狛犬
台座に元号が見られ、「和」は読み取れるが上の一文字は分からない。
昭和と仮定し、僅か100年程でこの貫禄が備わるのかぁ。
拝殿
入母屋銅板葺で大きな向拝を持つ。
勅使門などの解説にある様に、伽藍は現在に至るまで幾度も災禍にあい再興されている。
こうして見る社殿はいつ頃修復されたものか、当社HPや兵庫県神社庁の当社解説など目を通すが定かにはならなかった。wikiによれば本殿は1880年(明治13)に造営されているようだ。
神社庁の解説と社頭由緒よれば以下の内容。
「和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)
一体始まりはどこまで遡るのだろう。
そもそもの始まりは粟鹿の名に由来する。
その昔、粟鹿山の洞穴に一頭の鹿が住んでいたという、ある時粟三束を咥えた鹿が粟鹿郷に現われ、村人に農耕の技術を教えたという、その鹿が祀られたのが当社の始まりと云う。
この地の農耕の起源まで遡るようだ。
神社に近い粟鹿川の右岸に粟鹿遺跡があります。
そこからは縄文時代や弥生時代の出土品が見つかっているそうだ。
狩猟生活から定住し農耕に移り変わっていくのが弥生時代、鹿が教えた農耕が始まりとすると・・・弥生時代まで行く事になる。
いつまでもここに留まっていると進まない、先に進みます。
上
1880年(明治13)に建て替えられた流造の本殿。
後方の大きな盛り上がりは古墳、丹波一円を征定した日子坐王を埋葬したとも云われるようです。
過去に発掘調査はされていないようで、静かに眠らせてあげたい。
下
本殿から拝殿の眺め。
拝殿左から見る社殿と古墳。
恰も古墳を御神体として社殿が建てられているように見える。
拝殿から左の境内。
杉の巨木の先に複数の境内社と山に続く参道があり入口に赤い鳥居がある。
夫婦杉
二本の杉の巨樹は一本の注連縄で結びつき、寄り添うように聳えるその姿からその名が来ているのだろう。
不思議な樹で上を見上げると根元は其々一本でありながら途中から複数に幹が別れている。
根の周りは一面苔むし鮮やかな緑に覆われている。
拝殿左の境内には二社が祀られている。
上
手前の社は大巳貴神を祀る床浦神社。
下
奥まった場所に鎮座する社は草野姫命を祀る茗荷神社。
稲荷神社
茗荷神社の左に朱の鳥居、参道は山を登るように奥に続いています。
帰りの時間はとっくに過ぎている、登っていいもんだろうか。
「ササッと参拝してくるから」と先の見えない稲荷神社へ登り始める。
見えないのは不安だが、登り始めると直ぐに視界が開けた、山の斜面にできた僅かな平坦地に稲荷神社が祀られていた。
下
稲荷神社参道から下を眺めると茗荷神社がこの様に見える高低差。
上
社務所
随神門の正面にあり、本来は有人なのだろうが当日は無人。
御朱印は社務所後方の道路際に建つ宮司宅で頂くことになります。
下
社務所から境内は奥に伸びている、先に進んでみると、写真の脇参道の鳥居に出た。
手前の通りは宮司宅の前に続く通り。
既に御朱印を手にしたかみさんの姿が見える、さっさと車に戻って帰途に着くことにしよう。
何事もなく無事に家に戻って旅は終わり、まだ先は長い。
但馬一宮 粟鹿神社
創建 / 不明
主祭神 / 天美佐利命、日子坐王命、日子穂穂手見尊
所在地 / 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
出石町から車アクセス / 県道10号線➡県道104号線➡国道9号線➡国道427号線➡ 県道275号線で約1時間
関連記事 /