名古屋市北区中切町 『中切天神社』
前に掲載した中切神明社から東に5分程の住宅街に鎮座する。
周辺は北垂れの傾斜地で神社が鎮座する辺りはその高みにあたる。
この神社も昭和始めに行われた矢田川の付け替えにより大きく変貌した地域。
黄色のマーカーが中切天神社で付け替え前は矢田川右岸に鎮座していた。
こうして見ると以前の矢田川堤沿いに歩いてきたのが分かります。
天神社西側から北方向の眺め。
右が天神社で左の建物は地蔵堂兼社務所のようだ。
社殿の建つ高みは北側にある二階建て民家の棟の高さほどもある。
堤の名残だろう、そのことは地図からも想像できます。
高みの小さな境内には見事な太さの幹を持つ欅?の巨樹が聳え、中切天神社の場所を示している様にも見える。樹齢何年なのか定かではないが、注連縄は巻かれていないがここまで立派な樹となると長い物の予感がする。
境内の東側にもイチョウの巨木があり、葉が茂る頃は社殿全体が緑に包まれているのではないか。
社頭へは西側の緩い参道を上がっていきます。
参道は左に折れ、石段の脇に手水舎がある。
鏨跡が残る粗削りな手水鉢。
いつごろ寄進されたものかは分からなかった。
拝殿全景。
南向きで瓦葺妻入りの四方吹き抜け拝殿、額は掛けられていない。
右側に天神社社標と二対の常夜灯、天神様の代名詞牛の姿は境内では見受けなかった。
南向きで瓦葺妻入りの四方吹き抜け拝殿、額は掛けられていない。
右側に天神社社標と二対の常夜灯、天神様の代名詞牛の姿は境内では見受けなかった。
拝殿を見上げるとそこにはしっかりと梅の紋がある。
参道の中切天神の幟とこの梅紋意外に天神社を肌で感じるものはない。
拝殿から本殿の眺め。
小ぢんまりとした境内は拝殿と本殿域が占め、広さに余裕は無い。
狛犬の先に二つの社が祀られている。
この天神社の創建は定かではなく、一説に安食重頼や山田重忠の崇拝されたともいう。
特に往古の山田荘地頭の山田重忠(~1221)はいくつもの寺社を建立するほど信心深かったと云われます。
だとすれば平安末期から鎌倉初期には神社が存在していた事になります。
古くは茄子天神と呼ばれていたともいい、お腹の痛みを抑える御利益があり、お参りの際に茄子をお供えした事からそのように呼ばれたとも聞く。
参拝に訪れた際にそうした痕跡は見かけられなかったが、代々この地に住む人の中にはそうした話が語り継がれているのかもしれない。
参拝と写真を撮ったりで30分程いたがその間参拝に訪れる方と出逢うことはなかった。
小ぢんまりとした境内は拝殿と本殿域が占め、広さに余裕は無い。
狛犬の先に二つの社が祀られている。
この天神社の創建は定かではなく、一説に安食重頼や山田重忠の崇拝されたともいう。
特に往古の山田荘地頭の山田重忠(~1221)はいくつもの寺社を建立するほど信心深かったと云われます。
だとすれば平安末期から鎌倉初期には神社が存在していた事になります。
古くは茄子天神と呼ばれていたともいい、お腹の痛みを抑える御利益があり、お参りの際に茄子をお供えした事からそのように呼ばれたとも聞く。
参拝に訪れた際にそうした痕跡は見かけられなかったが、代々この地に住む人の中にはそうした話が語り継がれているのかもしれない。
参拝と写真を撮ったりで30分程いたがその間参拝に訪れる方と出逢うことはなかった。
本殿域は丸石が積まれ高く盛られた神域を玉垣が囲う。
神域の二社は社名札はないが、左の社の透かし彫りに梅の紋が彫られているのでこちらに管原道真が祀られている。右の社の詳細は分からない。
本殿域右に一部が欠け落ちた役行者像が安置されていた。
こちらも年代まで分からなかった。
天神社を東から眺める。
嘗ての堤は削られ整地されて宅地に変わり、当時の名残を留めるのが天神社の高みなのかもしれない。
長い歴史がありそうですが、鳥居はなく牛もいない。
学問の神「菅原道真」を祀る天神社、この時期なら合格祈願に訪れる学生の姿もありそうだ。
住宅街に佇む姿は妙に寂しさが漂う。
さて、流れを変えた矢田川沿いをもう少し東に向かう事にします。
嘗ての堤は削られ整地されて宅地に変わり、当時の名残を留めるのが天神社の高みなのかもしれない。
長い歴史がありそうですが、鳥居はなく牛もいない。
学問の神「菅原道真」を祀る天神社、この時期なら合格祈願に訪れる学生の姿もありそうだ。
住宅街に佇む姿は妙に寂しさが漂う。
さて、流れを変えた矢田川沿いをもう少し東に向かう事にします。
2022/01/05
『中切天神社』
創建 / 不明
祭神 / 管原道真
所在地 / 名古屋市北区中切町4
中切神明社から徒歩アクセス / 東に5分程
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