長久手市「大草城址、永見寺、熊野社」

長久手市杁ノ洞。
長久手市東部に位置し、南に矢田川支流香流川が流れ田畑が多く残り、丘陵地にも広がっている。

ここから少し東には愛地球博記念公園があり、西には秀吉勢と家康勢が刃を交えた長久手古戦場も近い、一帯には合戦に纏わる史跡や言い伝えが残る。
今回訪れた永見寺、熊野社も合戦とは無縁ではないようです。

f:id:owari-nagoya55:20220410145709j:plain

鎮座地は長久手市杁ノ洞集落の北外れにあたり、右の地図で見てもらうと、香流川右岸沿いの集落から北に丘陵地が続くその高みに鎮座している。
左の明治24年頃と比べても劇的な変化はないように見えますが、少し引いて見ると田んぼや畑は随分と減り開発が進んでいる。
小さかった頃の香流川は水質が悪く、このあたりまで来ないと水遊びが出来ない頃もあり、悪友とシラハエに遊ばせてもらった。
当時は草が生い茂っていた堤も随分と綺麗に整備され子供の頃の面影は薄れてきた。

f:id:owari-nagoya55:20220410145736j:plain上は尾張名所図会の長久手古戦場の挿絵。
鎮座地周辺は赤丸部分になり、安昌寺、首塚を中心にして永見寺と思われる周辺を丸で囲ってみました。
挿絵は実際の尺度と違うものの、概ねの鎮座地は円の右隅あたりの小山かと思われます。
この道は山間の谷筋になり長久手と瀬戸方面を行き交うには容易な立地。
その東側の小山に鎮座するのが永見寺の鎮座地だと思われ、この小山の頂には嘗て大草城があり、現在は土塁らしき遺構と石碑が建っている。

f:id:owari-nagoya55:20220410145803j:plain名古屋から県道57号線を走り、大草交差点を直進し細い道を進むと左側に「村社熊野社」の社号標が立っています。
目的地はこの奥に見える小山になり、中央の瓦葺の屋根が永見寺の本堂。

f:id:owari-nagoya55:20220410145824j:plain細い道を右に少し進むと道路左に永見寺駐車場があります。
上は駐車場から見る曹同宗永見寺の伽藍全景。
近年補修の手が入った様で建物は新しい。

f:id:owari-nagoya55:20220410145844j:plain石段右の掲示板の言葉。
「人に褒められて喜ぶことなかれ
人に貶(けな)されて怒ることなかれ
いたずらにすごす月日は多けれぞ
道を求むる時ど少なし」

この掲示板の裏が永見寺の由緒になっていた。

f:id:owari-nagoya55:20220410145908j:plain長文で一部破損しているので抜粋する。
開基は興国2年(1341)禅僧碩応道暉の地蔵堂建立に依る、二代、三代、四代と続いたがその後は後継者がなく無住となり伽藍は100年以上荒廃した。
天正13年(1585)長久手の合戦で討ち死にした豊臣方の武将池田伸輝の家臣が大草城に落ちのび、この地で百姓となった者の内7人により荒廃した土地の開墾や伽藍を再興し地蔵堂を建立、庵を結んで湧水庵を建立し出家した法眼が初代庵主となった。
湧水庵の由来は開墾時に堂の傍らから泉が湧き出た事からこの名が来ているようです。
合戦後両軍将兵の冥福と村の五穀豊穣を願い祖神、土地神を合祀し湧水庵から水福山永見寺に改称した。
この合戦による両軍戦死者を弔ったのが安昌寺住職の雲山和尚とされている。
ここから北に10㌔程の所に雲興寺がありますが永見寺はその末寺でもあるという。

永見寺由来
水福山永見寺開創の由来は貞観(859~877)のころ。
大草村北西に権道寺なる一寺があったが野火で焼失。
地名のみとなる、古老の話によれば大草村の中を東西に流れる小川に香の煙が日毎たなびき、訝しむ村人は異変の前兆と恐れ慄いた。
ある日、黄衣錫杖の菩薩が夢枕に現れ「川辺を點めよ、されば我出さして万民に五穀豊穣の利益を授けん」のお告げを受けて村人が集まり川を浚ったところ仏尊像が現れた。
村人はその仏尊像を小高いこの地に奉安。永見寺の本尊で秘仏延命地蔵菩薩として崇敬した。
以来出土地は大草埋古と呼び、香煙たなびく流れは香流川と呼ぶ始まりとなる。

f:id:owari-nagoya55:20220410145932j:plain本堂に向かう石段脇に二つの堂があり、手前に地蔵、奥に弘法大師の像が安置されている。

f:id:owari-nagoya55:20220410145952j:plain永見寺本堂全景。寄棟瓦葺で大棟に山号の水福山が入る。
由緒によれば
開創は貞観(859~877)、開基は興国2年(1341)、宗派は曹洞宗で本尊は地蔵菩薩
古刹ながら補修の手が入り外観から長い歴史を物語る古びた趣は漂っていない、綺麗な伽藍です。

f:id:owari-nagoya55:20220410150016j:plain熊野社の社頭は永見寺門前の左に社号標が建っている。
ここから緩やかな山道を登っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20220410150039j:plain道は右に折れ石の明神鳥居とその先に拝殿が見えてきます。
訪れたのが3/31、暖かい日差しを受け周辺の梅は見頃を迎えるそんな時期だった。

f:id:owari-nagoya55:20220410150103j:plain石の明神鳥居の先に境内に続く石段とその先に拝殿が見える。
右に手水舎があり熊笹の中にも社号標が建っている。

f:id:owari-nagoya55:20220410150123j:plain鉢には清水は張られていないものの、一つの岩の上部を削った立派なものだ。

f:id:owari-nagoya55:20220410150143j:plain石段から境内の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20220410150202j:plain海抜100㍍に満たない小高い丘の頂を切り開き社地が作られ、そこに入母屋瓦葺で四方吹き抜けの拝殿と、その先に石垣が積まれて一段高く盛られた所に本殿域がある。
熊野社の詳細についてはよく分かりません、言えることは明治24年当時の地図に熊野社の鳥居はしっかりと記されています。
webの情報によれば長久手町史に熊野社は明治以前は八幡社と称していたようです。
見た目以上に長い歴史を持つ神社のようです。
明治以前は永見寺の由緒にある祖神、土地神、八幡大神などを祀る神仏混合の伽藍だったのでしょう。
やがて神仏分離に伴い現在の形態になったのでしょうが、その際に熊野三山の一部、または全ての分霊を祀り熊野社に改めたようです、その際にそれまでの八幡大神がどうなったのか分からない。

f:id:owari-nagoya55:20220410150230j:plain拝殿は奇をてらった意匠は避け素朴で落ち着いた外観で比較的新しいもの。
鬼瓦には「熊」の文字が入っています。

f:id:owari-nagoya55:20220410150251j:plain拝殿から本殿域の眺め。
堂内には多くの氏子の名が記された木札が掛けられています。
多くの氏子の志で1983年(昭和58)社殿の改修が施され、この綺麗な外観はそのお陰なのだろう。
集落の氏神様として崇敬され大切に守られているようです。

f:id:owari-nagoya55:20220410150314j:plain拝殿内を見渡しこの木札に視線が止まる。
猿投大明神と記されている、猿投神社が鎮座する猿投の山は直ぐ東に迫る、何ら不思議ではないか。

f:id:owari-nagoya55:20220410150333j:plain本殿域を守護する狛犬
本殿域は全周を透塀が取り囲み神門に繋がっています、本殿域は幣殿があり本殿の姿を窺うことは出来ません。

f:id:owari-nagoya55:20220410150352j:plain境内の東外れに百度石。
1928年(昭和3)と刻まれていた。

f:id:owari-nagoya55:20220410150411j:plain境内西側から眺める社殿全景。
頂を切り開いただけに陽光降り注ぐ明るい境内です。
ここから左に本殿後方に回り込む小道があり進んで見る事にします。

f:id:owari-nagoya55:20220410150431j:plain道は直ぐに二手に別れ、左手に霊神碑と社が祀られた御嶽神社があります。
創建、祭神等の詳細は分かりませんが、ここから香流川沿いを車で5分程走らせれば、そこは岩作御嶽山
この辺りは御嶽信仰の崇敬篤い土地柄の様です。

f:id:owari-nagoya55:20220410150451j:plain別れ道を右に少し進むと熊野社本殿域が良く見通せました。
本殿域は妻入りの幣殿と本殿、右側にも社が祀られています。
何れも神明造の様ですが祖神、土地神、八幡大神など他にも祀られていると思われます、何せ由緒書きがなく詳細は分からない。
これ以上は諦めるとしよう。

f:id:owari-nagoya55:20220410150516j:plain帰り道、社地の西側の大草城址の石標に寄ってみた。
碑文は以下
「大草城は「尾張志」に「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす、右城内城内東西廿間、南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之内といふなり」とみえる。 平成8年11月吉日 長久手町教育委員会
とある、現状の大草城址に遺構らしきものは多くは残っておらず、東側の一部に土塁の痕跡が残る程度ですが、ここから西側の谷筋は瀬戸方向に繋がり、多くの兵が移動するには好都合、僅かな標高ながらここからなら人の動きは手に取るようにわかる。
小さな城ながら重要な拠点だったろう。

f:id:owari-nagoya55:20220410150538j:plain碑から南方向を眺める。
香流川を越えたその先に長久手古戦場方向を一望できる。

f:id:owari-nagoya55:20220410150620j:plain永見寺を東側から眺める。
杜に包まれ山の姿は分かり難いけれど土塁らしき痕跡が見られる。

この丘陵地にも田畑は作られている、立地から香流川の水は導けない。
雨は天の恵みそのもの、雨が降らなければ田畑に水は行き届かない、龍神さまにお願いする事になるのだろう。
とはいえ神頼みだけで人は終わらない、周辺の丘陵地には古くから灌漑用の池が作られている。

曹同宗 水福山 永見寺
宗派 / 曹洞宗
開創 / 貞観(859~877)
開基 / 興国2年(1341)
本尊 / 地蔵菩薩

熊野社
創建 / 不明
祭神 / 不明

御嶽神社
創建 / 不明
祭神 / 不明

所在地 / 長久手市杁ノ洞2331
公共交通機関アクセス / リニモ公園西駅から北西へ​徒歩25分程​

関連記事 / ​

owari-nagoya55.hatenablog.com

owari-nagoya55.hatenablog.com

​​

owari-nagoya55.hatenablog.com

owari-nagoya55.hatenablog.com