慈雲寺 『白山宮・秋葉社・行者堂』

知多四国霊場第72番「慈雲寺」からの続きとなります。
今回は慈雲寺後方の山の頂に鎮座する白山宮となります。

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上は尾張名所図会の慈雲寺挿絵。
1844年(天保15)の刊行当時の挿絵に白山宮は記されています。(赤丸部分)
右に秋葉、左に行者と記された小さな社が描かれていますが現地では見つけられなかった。
白山宮の創建はよく分からないが、岡田の集落では古くから鎮座する古社のようです。

f:id:owari-nagoya55:20220414151012j:plain慈雲寺観音堂左に白山宮の鳥居が建ち、鳥居から直ぐに石段が頂の境内に続きます。

f:id:owari-nagoya55:20220414151028j:plain鳥居左に縁起が掲げられ賽銭箱が置かれています。
縁起には以下のように記されています(一部読み取れない部分はアドリブで記載)

「白山宮縁起 1522年(大永2)慈雲寺境内にまつられた白山妙理大権現をいう。
身体健康、商売繁盛を祈願する時その御利益は広大無量と云われ町民の尊敬する所となった。

秋葉社
火難除けの神様であり秋葉三尺坊を祀っている。
修験行者もまつり、上まで行けない方はこちらで参拝下さい」

縁起から1522年(大永2)が白山宮の始まりと見ていいのかな。
白山宮が鎮座する岡田の町、往古の村の氏神はこの白山宮だったとされます。
それも後の神仏分離により氏神を岡田神明社に改めたようです。

f:id:owari-nagoya55:20220414151050j:plain石の明神鳥居。

さほど大きな鳥居ではないが笠木に石が積まれている。
いつからか「投げた石が笠木に乗れば願いが叶う」、まことしやかな説があるようです。
拝んで尚且つ自ら努力して願いが叶う、乗せる努力をするくらいなら石段上って拝んだ方がどれだけ確実か。それにしても上手に乗るものだ。

f:id:owari-nagoya55:20220414151107j:plain上り口から上を仰ぐ、ちらりと見えていた拝殿も姿は見えなくなる。
両側に白山妙理大権現の奉納幟がズラリと並ぶ。
白い幟はあたかも壁のように上まで続く、青い空を背景にすると更に白く感じる。
今も変わらず多くの方から崇敬されているのが良く分かる。

f:id:owari-nagoya55:20220414151125j:plain石段を上り切ると境内が広がる、参道の先に拝殿が見える。
ここも参道両脇を奉納幟が白壁のように拝殿まで伸びている。

f:id:owari-nagoya55:20220414151141j:plain拝殿は簓子壁と白壁の入母屋瓦葺で向拝のない拝殿はシンプルな美しさが漂う。

鬼瓦や軒丸瓦に5本骨扇の日の丸紋が入る。
慈雲寺では寺尾家の三つ扇の紋を目にした、宮山城主の佐知氏の紋は9本骨扇。
5本骨扇の日の丸紋は誰のものだろう。

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拝殿内。
左が行者堂大権現、中央が白山妙理大権現で右が秋葉山大権現。
挿絵にある秋葉や行者は、縁起の記載内容からこの白山宮に纏められたようですが、この秋葉山大権現や行者堂大権現の始まりがいつなのかは分からない。

長く神と仏は共生していたが、神仏分離により権現様を祀っていた鎮守の多くから権現が消え、白山社や秋葉社に改め、祭神は菊理媛命や加具土命に変えられる。
寺と神社は塀で隔てられ神宮寺の衰退や廃仏稀釈などに繋がった、明治維新神仏分離令その意義は凡人には理解できないものがある。

f:id:owari-nagoya55:20220414151213j:plain白山宮境内全景。

f:id:owari-nagoya55:20220414151230j:plain拝殿から氏子の住む岡田の町の眺め。

石段の手前の右に慈雲寺境内に下りる参道があります、下った先に慈雲寺を開基した一色範光の墓が立てられています。
ここから南西方向に範光が築いた宮山(大野)城跡がある。

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白山宮から慈雲寺観音堂の眺め。

2022/03/03

白山宮・秋葉社・行者堂
創建 / 1522年(大永2)
祭神 / 白山妙理大権現、秋葉山大権現、行者堂大権現 
所在地 / ​知多市岡田太郎坊108
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