豊山町豊場冨士 「富士神社」

西春日井郡豊山町豊場冨士、なんともいい地名だ。
今回の目的「富士神社」はここに鎮座します、地名はこの神社から来ているのかもしれない。
前回訪れた千松寺から「富士神社」までは徒歩で南に30分程の移動時間。
この時は自転車で巡ったので概ね10分程の移動時間でした。

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上はこれまで訪れた豊場一帯の地図、上の千松寺から赤で示した富士神社まで豊山の町を縦断した形になります。
明治の頃は田園地帯に点在する集落を繋ぐ道はシンプルで目標とするものが見て取れたはず、よもや狐に道を騙されることはないが現在の道筋はまるで迷路のようです。

 
毎度〃書いているけれど、この一帯は迷路のように入り組んだ細い路地が続き、対面通行や一方通行だったり、そもそも駐車場余地はなく車で動くのは難しい。
ミニパトが取り締まりの目を光らせ、当日も交差点で止まらず切符を切られる光景を目にしました。

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富士神社西側から社叢の眺め。
住宅街の一画にこんもりと盛り上がった社地に豊かな杜がある。
平地の続く一帯でこのこんもりはある意味「冨士」です。
「森に神社あり、こんもりに古墳あり」
富士神社はその両方に該当し、「青塚古墳」と呼ばれる古墳の上に社殿が造営されています。

青塚古墳?
個人的には犬山市青塚青塚古墳(王塚、茶臼山)が馴染みがあります。
青塚古墳史跡公園として整備され、古墳時代前期に作られた県内2番目(全長123㍍)の大きさを誇る前方後円墳があり、航空写真でもその姿ははっきりとわかる大きなものです。
どちらも同じ呼び名なので以降は豊場青塚古墳として区別しよう。

青塚砦跡?
富士神社を調べていたところ「尾張誌」に「青塚砦跡」の記録が残っていた。
それによると「豊場村にあり、1584年(天正12)小牧、長久手の戦いの際、秀吉方の森長可が砦を築いた、塚山の高さは6間、四方11間」とある。
6間というと約10㍍の高さ、現地の高さもそんなもんだ。
記述にある塚が豊場青塚古墳、築かれた砦が青塚砦なのだろう。

県の資料に富士神社について以下の記述があった。
「この地開拓の祖、物部氏の墓と思われる古墳。
元々は前方後円墳であるが、現在は円墳部分のみが残り、冨士社が祭られています。
1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いの際には、豊臣軍の武将森長可が、この塚に陣取りし、砦を築いたといわれています。
平坦な地形の豊山町の中で突如として小高くそびえる姿は、その歴史とともに、孤高ともいえる存在感を放っています」
とあった、ここで云う砦も「青塚砦跡」を指すようだ。

こんがらがってくるが青塚古墳の解説で砦の名は記されていないが「小牧・長久手の合戦で砦が築かれた」と記されていた気がする。しかも向こうは地名に靑塚が残っている。
しかし豊場青塚古墳は周辺に「靑塚屋敷」の地名はあるものの地名は冨士。
古墳のこんもり以外に砦の遺構らしきものが見当たらないだけに、青塚砦の靑塚がここでいいのか自信がなくなる。

古墳の事ばかりで神社の詳細は乏しく詳細が掴めなかった。

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社頭左に小さな祠があった、「靑塚」御堂とある、靑塚かぁ。

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堂内には右から地蔵さま、中央に弘法さま、左が観音さまの三体が安置されていた。
生花が御供され身近な存在として今も崇敬され「さま」をつけられ親しまれているようだ。

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社地東側からの眺め、ここから少し北に行くと「靑塚屋敷」がある、由来は靑塚さんの屋敷があったとかではなく、数件の集落を集まりをその様に呼んだことに由来するようです。
社地の東側は富士神社前公園として整備され子供たちの集いの場になっていました。
公園の前に「靑塚古墳前」のバス停があります、靑塚かぁ。

「森に神社鎮まり、こんもりは古墳で城址(砦)あり」と見よ、という事か。

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富士神社社頭。
右に社号標「富士神社」があるが鳥居や狛犬は見当たらなかった。
右手に桜の老木があり、この時期は社頭に彩りを与えているのだろう。

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社頭左側に豊山町文化財研究会の解説。
「富士社
祭神 木花開哉姫命
由緒
冨士浅間神社の分神を迎えて奉祀する。
青塚が富士山の形をしていたので、冨士社と名づけられた。
1520坪もある相当大きな前方後円式古墳の後円部だけが残る」

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社頭から墳丘に向け石段が続く。
頂きに陽に照らされた白い拝殿が見えている。

社地を一周したけれど前方部がどちらにあったのか痕跡は見当たらなかった。

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拝殿。
切妻で妻入りの四方吹き抜けのコンクリート製。
全体は白塗りで梁部分は淡いピンクに塗られている、女神らしいお化粧だ。

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拝殿から本殿の眺め。
左側に境内社と石標が見える。

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拝殿左側から本殿域の眺め。
本殿、境内社ともにステンレス製の玉垣で囲われています。
光り輝くステンレス製の玉垣、意外にコンクリート製の拝殿と調和がとれている。

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綺麗な台座の上に祀られる板宮造りの富士神社本殿。
祭神は木花開哉姫命。
創建は調べて見るもよく分からなかったので地図で追いかけて見た。

鳥居の印がはっきりあらわれるのが昭和20年以降、それ以前は後円部らしき丸い円が描かれているだけだった、創建に繋がるものはそれくらいだった。
しかし現在の豊山町豊場冨士付近が明治24年豊山村当時から昭和47年頃まで青塚だった事が分かった。
それが豊山村➡豊山町に変わっていく段階で靑塚が消え、靑塚屋敷になった。
字靑塚で存続できなかった経緯が気になるが靑塚に拘るのはもうやめよう。

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本殿左の境内社、其々社名札はない。
参拝に訪れる方と会えないものか期待したが結局逢う事はなかった。
左の社はお手上げ、右側の社は扉が半開きで、中の御札からこの社は秋葉社のようだ。

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社の前で跪き中を覗き込む姿、なんと怪しい姿だろう。

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境内社の左に山乃神が祀られている。

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富士神社本殿右からの眺め、陽光に浮かび上がる姿は正に女神のようだ。

この辺りで墳丘を眺めて見たが古墳の面影は十分感じられるが、砦の遺構らしきものというとやはり見当たらなかった。

・靑塚古墳は二つある。
前方後円墳の後円部分に鎮座する事。
・どちらも砦が築かれた。
境内社の一つが秋葉さんだった。
・社名は冨士のような古墳の形から来ている事。
・豊場冨士の地名は以前は靑塚だった。
ミニパトの取り締まりあり。

富士神社
創建 / 不明
祭神 / 木花開哉姫命
境内社 / 不明社、秋葉社、山乃神

靑塚御堂 / 地蔵菩薩弘法大師如意輪観音、何れも銘文不明

所在地 / 西春日井郡豊山町豊場冨士15
千松寺から富士神社徒歩ルート / ​徒歩30分、自転車10分
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