「山口八幡社」

瀬戸市八幡町「山口八幡社」
尾張国愛智郡山口村で目の前には猿投山が聳える。
愛智郡の東端に位置し、三河国猿投山の入口にあたる事から山口の地名が来ているようで、町名の八幡も八幡社から来ている。
山口八幡社は隣国三河との国境を鎮護する山口村の氏神として古くから崇敬されてきました。

山口八幡社社頭。
左に「郷社八幡社」の社号標と八幡川に架かる朱の神橋、その先が一ノ鳥居。
訪れたのは3月31日。
今にも泣きそうな空模様でしたが見頃を迎えた桜が目を楽しませてくれるいい時期でした。

八幡社の社地は八幡川右岸の山裾に社頭を構え、山の中腹にかけて三段に造成され社殿が建てられています。
当神社の背後の森には6世紀末の古墳時代に築かれた山口八幡社古墳群があり山口稲荷の鎮座地には石室の形跡も見られる。
「森に神社あり、こんもりに古墳か砦あり」だ。

新橋から八幡社下流の眺め。
堤の桜並木は見頃を迎え咲き誇る、本来なら多くの花見客が訪れ賑わうのだろう。

上流の桜並木、美しくもあり寂しい光景でもある。
避けようのない現実に怯え委縮する生活もそろそろ卒業だ。

 

上は尾張名所図会から教春山宝泉寺(左)と右に山口神社(山口八幡社)を描いた挿絵。
赤津川支流八幡川右岸の山麗中ほどに鎮座し、後方は雲興寺方面を描いていると思われます。
河畔の景観は時と共に移り変わっているが鎮座地は当時の面影を今も残している。
桜並木が綺麗な八幡川に架かる赤い神橋、当時の挿絵には描かれていません。

尾張名所図会の記載は以下
「山口村にあり、延喜式に山田郡山口神社とあり、本国帳に従三位山口天神としるされる、今八幡宮と称し、応神天皇を祭神とす、摂社多度祠・山神祠あり、往昔、当社の傍らに沼池ありしが、山田五左衛門というもの、菼馬にのりながら此池に陥ちて溺死せし故、当村あしげ馬を飼う事をいむ。
風土記残編に、より人は 今ぞより来る 長はまの あしげの駒に 手綱ふりかけ といへるを、彼五左衛門が亡霊巫女に託して唱えさせしよし、所のものいひ伝えたり」とある。
尾張誌にも同様の記述が残る。
その中で多度、八剱、浅間、山神、神明、冨士浅間など摂社についての記述や八剱と神明の祠はなく草創年暦の記録は焼失したとあった。

長閑な山間に佇む伽藍を描いた挿絵ですが、鎮座地から雲興寺にかけて過去に「瀬戸市赤津万徳寺前の山崩れ」という大規模な自然災害に見舞われた地域でもあります。

1767年(明和4)の7月10日~12日、ここから車で10分程北東の赤津万徳寺周辺で降雨による山崩れが起り、土砂は赤津川を堰止め、赤津村は沼状になったという。
天然ダムと化して川を堰き止めていた土砂は、後に決壊し濁流が下流の山口や菱野にまで押し寄せ、多くの死者と家屋を流失した、この際に雲興寺門前付近や猿投山も崩壊したという。
山が迫り、渓流が流れる自然豊かな光景も時にこうした牙をむく、平和と安全は当たり前と錯覚しないためにも語り継いでいく事も必要だろう。

一ノ鳥居から境内の眺め、鳥居左に「郷社 八幡社」の社号標と手水舎。

鳥居の前は公道と参拝者駐車場になっており、少し左に山口神社、山口稲荷に続く鳥居が立っています。
桜の見頃を迎え、社頭は本来なら多くの花見客と出店が並び賑わいを見せるだろうが寂しいものだ。

手水舎。
この後方斜面に須左之男社が祀られています。

古びた趣のニノ鳥居と左に舟形の手水鉢。
鳥居左に鳥居の解説、右に山口八幡社の概説板が掲げられている。

手水鉢。
青竹から清水が注がれているが清水が鉢を満たす事はない。

ニノ鳥居。
笠木の反りが綺麗な鳥居だ。

瀬戸市教育委員会による鳥居解説
「市指定有形文化財
「石造鳥居(八幡社)
製作年 延宝5年(1677)
形式・構造 花崗岩製 明神鳥居
規模 高さ3.08㍍
銘文 延宝5年丁巳閏12月吉日
尾州愛知郡山田庄山口村氏子

市内で確認されている石造鳥居の中で最古のもの。
明治以前に建立されたものは、この鳥居と赤津の大目神社(1755年製)の二基のみである。
小型ではあるが均衡のとれた姿は美しい。
平成5年2月19日」

今回、意図せず大目神社にも訪れているので後日掲載します。

境内の由緒
「祭神 神功皇后応神天皇、多紀理比売命、市寸島比売命、田寸津比売命
末社 21座

当社は古くは山口神社といわれ、醍醐天皇の926年(延長4)編纂の延喜式神名帳に山田郡山口神社と記載され、本国神名帳にも従三位山口天神と記載されている。
その後、1220年(承久2)に清和天皇十二代の末孫山田次郎重忠が当地に八幡宮を勧請し社殿を造営。
1223年(貞応2)9月15日に竣工、同時に山口神社を合祀しました。
山田郡は室町時代中期に荒廃して春日井郡と愛智郡に別れ、当山口村は愛智郡に属し愛智郡の東端に三河との国境を鎮護する神社として崇敬されました。
毎年9月15日に祭事を修め、翌16日の大祭には近郷24ヶ村の村人全てが飾馬を率いて参詣した。
社頭には6世紀末の古墳始め鎌倉期の古窯及び当地方最古の鳥居などがあり、往事の隆昌が偲ばれる。
明治5年に郷社に列格され近年まで郷社まつりが盛大に行われた」

ニノ鳥居の左に石標と複数の石の祠が祀られています。
その中に八剱神社跡や神明と刻まれた小さな祠など見られ、尾張誌に記載のある摂社はこの辺りの祠を指すのかもしれない。

唐門で左右から透塀が繋がる。

唐門前を守護する狛犬

精一杯大きく口を開ける阿形の表情が印象に残る、寄進年は未確認。

唐門の額は「八幡社」

拝殿
鈴紐は巻き上げられ、鈴は・・・鳴らない。

拝殿内から本殿の眺め、橘が神紋の様だ。

八幡社の伽藍は背後の山が迫り、樹々が包み込み全容は見えない。

右は入母屋瓦葺の妻入り拝殿、そこから奥に向かって平入の幣殿と本殿に繋がっているようです。

拝殿左に石の祠と覆屋に納められた社が祀られている。
石の祠は金刀比羅社 祭神 / 崇徳天皇、大物主命。

覆屋の4社。
右から秋葉社 祭神 / 加具土大神、祖霊社 祭神 / 護国英霊

右から天神社 祭神 / 管原道真、山神社 祭神 / 大山津見神、木花佐久夜比賣命

ここから左手に上りの参道があり、山口神社、山口稲荷の境内に続きます。

八幡社の参拝を終え、山口神社、山口稲荷の鳥居に向かいます。

須左之男社 祭神 / 須左之男社
手水舎後方に鎮座し、参拝には駐車場に面した社頭からになります。

須左之男社から更に左に進むと山口神社、山口稲荷の社頭。
長い石段が山の上へ続きます。

一ノ鳥居。
石造の明神鳥居で額には「山口神社、山口稲荷」
ここから先も石段は続き、赤い鳥居の先にも鳥居があるようです。

ニノ鳥居。
左側にも鳥居が立つ。

山口神社、山口稲荷境内全景。
この辺りが山口八幡社古墳群の一画になり、これより奥は全域古墳群と云っても良いかもしれない。

境内右の鳥居は山口天神。

山口八幡社が山口神社と呼ばれていた奈良時代には天照大神の五男三女の八柱が祀られていたとされる。
山口神社は後の鎌倉時代初期に創建された八幡社へ合祀されている。

拝所は小さな狛犬が守護する。

山口天神牛石。

ここには「牛石伝説」が伝わると云う、神域内に横たわる長い岩が牛石と呼ばれるようです。
この岩が「牛に見えると願いが叶う」と言われ、山口神社鎮座時の石とも云われるようです。
角度を変え岩を眺めて見ました、頭を右にして腹這いになった伏せ牛ぽい感じがするのがこの位置。
これで世界は平穏になる。

岩を上から見ると上面に凹みも見られ基礎石のようにも見える、しかし古墳群の一画である事を考えると古墳で使われていた石とか磐座などに見えなくもない。

境内左の山口稲荷。

拝所には狛狐、肉付きの良い健康的な容姿の狐だ。

稲荷社の社は山肌に石で組まれた穴の奥に祀られている、中から無数の子狐がこちらを睨んでいる。
ここから後方は杉塚と呼ばれる古墳群で墳丘らしき光景も見えるが、何より社が祀られるこの穴自体が横穴式石室のように見えてくる。
この一帯だけでも1~3号墳まであり、左の山麗に鎮座する本泉寺境内にも古墳が残る。
何れも円墳のようで、こうした古墳は大目神社方向の猿投山西の麓にも点在します。
神社の歴史同様この地には古くから人が居住していた事を示しています。
稲荷社 祭神 / 保食大神、豊受大神

稲荷社左に役行者が祀られている。

山口神社と山口稲荷が鎮座する境内の雰囲気は八幡社とは何か違う、不思議な岩と誰が埋葬されたか分からない古墳群などスピリチュアルな雰囲気がある。

ニノ鳥居から山口町の眺め。


山口八幡社
創建 / 1220年(承久2)
祭神 / 神功皇后応神天皇、多紀理比売命、市寸島比売命、田寸津比売命
境内社 / 秋葉社、祖霊社、天神社、山神社、須左之男社
所在地 / 瀬戸市八幡町3
公共交通機関アクセス / 
車アクセス / ​矢草ICから国道155号線を北進、山口町交差点を左折し一本目を右折。​​所要時間10分程​。
参拝日 / 2022/03/31
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