全国一之宮巡り 一泊二日で愛媛・広島へ part2

久し振りの全国一之宮巡りの二日目

二日目の行程は昨晩過ごした「道の駅 アリストぬまくま」から阿伏兎観音、鞆の浦を散策、備後國一ノ宮の素戔嗚神社、同じく備後國一ノ宮の吉備津神社を参拝し名古屋に戻る約450㌔を移動します。

車中泊で利用した「道の駅 アリストぬまくま」
深夜の車の出入りもなく、とても快適な一晩を過ごせました。
近くのコンビニで朝食を買い求め、最初の目的地「阿伏兎観音」へ走り出す。

県道47号線を南下し10分程の移動時間で阿伏兎観音無料駐車場に到着。
写真の奥にも一カ所駐車場はありますが、道は狭く駐車台数も少ない。
ここから阿伏兎観音まで歩道を歩いて5分もかからないので敢えて先には進まなかった。
阿伏兎観音の拝観時間は朝8:00から、十分な時間もありここで朝食を摂り周辺散策。


目の前は阿伏兎の瀬戸と呼ばれる水道、その遥か先に広島県福山市の沼隈半島と田島を結ぶ全長832㍍の内海大橋が望める。
この狭い水道、丁度干潮のピークだったのかもしれないが実に穏やかな表情をしていた。
竿があれば出して見たいくらいのゆったりした光景です。

阿伏兎岬と田島の間の水道で幅は約500㍍、長さ約1㌔に渡り急激に海は狭められる。
干満差が大きく満潮時には左方向、干潮時は右方向に潮流が生まれ、動力のない昔の船は潮任せ、風任せの自然を利用し航海していた、潮や風が動いていない時は港でその時を待つ潮待ちを行っていた。
この速い潮の流れは美味しい魚を育む事にもなる。

駐車場付近の背後の阿伏兎山は海に向かって急激に切れ落ち、露出した岩は岩だらけの海岸にまで達している。
駐車場からは阿伏兎山森林自然公園の散策路入口があり、阿伏兎灯台や展望台に繋がるようですが、入口のルート案内の状況を見ると歩道を含めた整備状況はいいとは言えないかも知れない。
この駐車場まではトモテツバスが繋がっているようで、運行ダイヤを見ると本数は限られているので車で訪れるのがいいかも知れない。

そろそろ時間だ、海岸沿いに続く歩道を進む、案内板に書いてあったように3分程で歩道は行き止まり、その正面が阿伏兎観音(磐台寺)の参道に変わる。
拝観料100円を納め境内へ。

磐台寺境内。
海潮山磐台寺は臨済宗妙心寺派の寺院。
暦応年間(1338~1342)覚叟建智が開いたと伝えられ、一時衰退し建物は荒廃したという。
元亀年間(1570~1573)、毛利輝元により観音堂と共に再建されたとされる。
入母屋造で内部は仏間を中央に左右に書院と奥の間を配した方丈建築。
客殿全体がフレームに入らないほど海が迫り境内は狭い。

細い境内の先は岩壁が聳え、朱塗りの廻廊は見上げる高さに建つ観音堂へ続く。
阿伏兎解説。
「海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、その突端の断崖に建つ磐台寺観音堂は古くから阿伏兎観音と呼ばれ崇敬されてきた。
観音堂は986年(寛和2)に花山法皇が一帯を航行する舟の航海安全を祈願し岬の岩山に十一面観音石像を安置したのが開基とされる。
後に毛利輝元が再興、福山藩主第四代水野勝種が現在の磐台寺の伽藍を整えたという。
磐台寺観音堂と客殿は室町時代の建築様式を伝えている。
本尊の十一面観音は小授け、安産、航海安全の祈願所として崇敬されてきた。
朱塗りの観音堂は海からの眺望が絶品、観音堂から眼下に広がる燧灘の展望も素晴らしい」

良くぞこの岩山に岩を積み上げ堂を建てようと考えたものだ。
方型の朱塗りの堂は周囲に高欄付きの縁があるが幅は狭く、海側に若干傾斜しており、立ったまま眼下を覗き見ると体が吸い込まれるようでもある。

今は阿伏兎灯台が岬の高みに立っているが、往古の海を行き交う船にとって、断崖の頂に建つ朱塗りの堂は絶好の山たて(道標)になったことだろう。
磐台寺と観音堂の全景を撮影するには内海大橋を渡り、田島側から撮るしかないのだろう。

海潮山 磐台寺
宗派 / 臨済宗妙心寺派
開基 /  花山法皇
本尊 / 十一面観音
創建 / 986年(寛和2)
所在地 / 福山市沼隈町能登原阿伏兎1427-1

さて次は潮待ちの船で栄え、昔から多くのドラマの舞台となった鞆の浦を目指す。
磐台寺から国道47号線を福山方向に向け走り、広島県鞆町鍛冶駐車場までの移動時間は15分程です。

広島県鞆町鍛冶駐車場脇の案内板
小さな赤丸が駐車場で目的地は右の大きな円で囲ったあたりになります。
それだけに駐車場は少なく、この二階建ての県営駐車場は立駐で完成後間もないようです。
鞆の町は古くからの港町で海岸間近まで山は迫り、追われる様に住宅は海近くまで立ち並び、街に一歩入ると道幅は狭く、入り組んでいて典型的な港町の印象。
ここはチャリか自分の足で廻るのがいい。
県営鞆町鍛冶駐車場
所在地 / 広島県福山市鞆町136-143

駐車場から海岸沿いを歩く。
瀬戸内海国立公園鞆の浦の看板。
目の前の小島は弁天島(百貫島)で島の頂に見える二層の建物は弁財天福寿堂の姿。
歴史好き、ドラマ好きには鞆の浦は魅力的な町だろう、寺社好きにとってもそれは同じで小さな町内には多くの寺社が鎮座する。
鞆の浦はいろは丸事件でもよく知られる、今もいろは丸が悠然と航行していく。


大波止から鞆の浦と常夜灯の眺め。

陸奥稲荷神社から淀媛神社方向を眺める。


大波止から常夜灯方向の港沿いを進むと港を向いた小さな住吉神社が鎮座する。

玉垣の中の神域左に重要文化財「鞆の津の力石」が置かれ、尾道住吉神社同様に荷役作業に携わる者達が力を誇った。
本殿前には石の額が置かれ「住吉大明神」「蛭子神社」と刻まれている。
また、神社右に笠木が置かれていた、石の額に笠木、以前は鳥居があったのだろう。
小さな狛犬の台座には明治10年の刻みがあった。
住吉神社
祭神 / 住吉三神
所在地 / 広島県福山市鞆町

住吉神社から少し進むと案内表示、どちらに行くか選択肢は多い。
後方の壁は火災で被災したのだろうか壁は炭化して痛々しい・・・いいえ
これ、焼き板塀といって日本の伝統技術の一つで、杉板などの表面を焼き、炭化させた板をこうして張ったもので、対候性や耐火性、防虫性にも優れこの辺りではよく見かけるもの。

炭化させると燃えやすいのでは?
いいえ、キャンプで炭に火をつけるのは一苦労するけれど、針葉樹の生木の枝はマッチ一本でも火が付きます、煙は出るがそれはそれで虫除け効果もある、派手にやると人除けになってしまう。
普通に板を張るより手間のかかった作りです、この壁と白い漆喰で作られた建物の外観はシンプルで清楚な美しさがありいいものです。


住吉神社からすぐ先に鎮座する胡神社。

江戸時代前期の古史にも記述がある神社で西町の氏神様として崇敬されている。
港を生業とした商人たちの商売繁盛を祈願して祀られたものだろう。
鞆の街並みで見かける建物や建造物には福山市の伝統建造物としてほぼ〃黒いプレートが付けられている。

胡神社
祭神 / ゑびす
所在地 / 広島県福山市鞆町

手前から「とうろどう」、「いろは丸展示館」、鞆の港のシンボル「常夜灯」


展示館前の解説
「なぜ坂本龍馬・いろは丸の展示館がここ鞆の浦にあるのでしょうか?」
漁師の間では昔から「宇治島沖に石炭船が沈没している」として、そこに網を入れても石炭しかかからないからやめとけ的な伝承が伝えられて来たという。
後の調査でこれがいろは丸である事が証明された事からこの展示館が作られたようだ。

いろは丸事件とは1867/4/27宇和島沖で紀州藩の明光丸と伊予国大洲藩が所有していた蒸気船いろは丸の衝突事故の事で、坂本龍馬海援隊により航海中のいろは丸は6倍近い大きさの明光丸と衝突し沈没してしまう。所謂海難審判の先駆け的事件の場となった、龍馬のいう大量の銃は沈没後石炭に化けてしまったようだが、龍馬は紀州藩から多額の賠償金を手にした。

常夜灯と雁木。
常夜灯は1859年に建てられたもの、手前の雁木は「浜の大雁木」と呼ばれ、古い物で1811年のものが残る。

鞆の港の解説


常夜灯付近の鞆の浦の港と石積み、干満の大きさはここにも表れている。

街並みで見かけたメダカ鉢、アニメ好きは足を止めるのかもしれない。

太田家住宅・朝宗亭、鞆七卿落ち遺跡。
1863年(文久3)尊王攘夷を主張する三条実美らの公家は、公武合体派に追われ都落ちをした。
一行はここ旧保命酒に立ち寄り、その時に実美は保命酒をたたえた和歌を残した。
「世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くて嘗むるも 珍しやの世や」

母屋の太田家住宅と別邸朝宗亭は18世紀中頃から19世紀初期り建造物で重要文化財に指定されている。
写真の先には保命酒屋鞆酒造がある。

岡本亀太郎本店
明治の初期にこの建物は火災で焼失、復旧のため、嘗ての福山城長屋門の払下げ受けて移築したもの。

保命酒を名乗る醸造元は鞆の町に4蔵あり、もとは大坂の医師中村吉兵衛が考案した薬用酒で古くから酒の醸造元があった鞆の町、1659年(万治2)に吉兵衛の知識と中村屋の技術で製造を始めたもの。
本家の中村屋は明治に入り廃業、その技術を受け継いだ複数の業者が保命酒として製造・販売し現在は4社が製造を行っている。
効能は夏バテや疲労回復に効果があるという。


お船宿いろは

旧魚屋萬蔵宅で坂本龍馬が談判の場として使用した築220年の町家、後に空き家となり当地を訪れたアニメ監督の音頭で旅館に再生したもの。
当日も内装工事中で少しだけ中を見せてもらうと外観のレトロ感に対し室内は和モダンなものだった。

龍馬の隠れ部屋 桝屋清右衛門宅
江戸時代の廻船問屋を営んでいた桝屋。
お洒落な片流れ風の建物で、隠れ部屋は母屋の右側になる。
ここに「坂本龍馬が宿泊した」という伝承があったが長年その場所は見つからなかったという。
1989年にその隠れ部屋が見つかり現在一般公開されている。

ここ鞆の浦時間はいくらあっても足りない見所多い町。
そろそろ本題の一ノ宮巡りにもどり、備後國一ノ宮の素戔嗚神社に向かう事にする。
駐車場から県道22号線で福山方向に向かい、芦田川の左岸を遡る約1時間の移動時間。

素戔嗚神社の駐車場は社頭と社地西側の二か所。
お勧めは西側駐車場で、そこから銀山街道沿いに社頭へ、相方城から移築した城門の北門と南門を眺めながら社頭に向かう。
街道沿いの「県社」「式内社」の社標から鳥居に向かう。

素戔嗚神社社頭。
石の明神鳥居と左に由緒書き、参道の先に随神門と遥か先に神楽殿が小さく見える。
茅の輪くぐり発祥の地とされるようだ。

鳥居の額は「素戔嗚神社」、相変わらず笠木の上には石ころが乗っかっている。

境内の伽藍。

楽殿から拝殿、本殿と左側に境内社蘇民神社と疱瘡神社が祀られている。

中央が社務所で右が戸手天満宮
戸手天満宮は「本地堂」とされ、神仏習合時期の別当寺だった天竜天王寺の本堂だという。
江戸時代中頃に再建され、素盞鳴命を祀る神社にあって、廃仏毀釈の際に祭神に菅原道真を祀り守られて来た。

本殿は入母屋檜皮葺の平入で平側には大きな破風が付く、鰹木は5本で千木は外削ぎのもの。
本殿は幣殿と繋がり瓦葺の平入拝殿に続く。
大きな社地で周囲の杜は樹々も生い茂っているが、境内の樹々が少ないからか陽光降り注ぐ明るい神社の印象を受ける。
備後國の一ノ宮が二つあるには大人の事情があるのだろう、一ノ宮の御朱印全制覇を目指すかみさんにとっては一つでいいんじゃないとなるだろう。

備後國一ノ宮 素戔嗚神
創建 / 天武天皇年間(673~ 686)
祭神 / 素盞嗚尊・櫛稲田姫命・八王子
蘇民神社 / 蘇民将来
疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神

所在地 / 広島県福山市新市町大字戸手1-1
公共交通機関アクセス / JR福塩線上戸手駅から徒歩5分ほど

さて次の備後國一ノ宮吉備津神社はここから神谷川右岸を遡る10分程の移動時間。


吉備津神社参拝者駐車場脇の境内配置、これは境内社が多い、昼ご飯もまだ摂っていない、とてもじゃないが全ては参拝は無理そうだ。

そもそも駐車場前からして写真の厳島神社が祀られている。
かみさんは御朱印目指しまっしぐらだ。

県道を渡り傍らに鎮座する胡神社を横目に路地の進むと社頭が現れる。
石の明神鳥居の左に由緒書き、右に「国幣小社 吉備津神社」の社号標。
参道の先は重要文化財下の随神門、そこから先も参道は続き石段が見える。
流石にこの鳥居の笠木には石ころは乗せれなかったようだ。


社頭の由緒書き
「備後國一宮 吉備津神社
由緒
当社は吉備開拓の恩恵神 吉備国の総祖神 大吉備津彦を奉斎し 霊験あらたかにして光輝き 国家安寧 護国豊穣 交通安全 延命長寿 開拓招福の守護神として備後國一宮・一宮さんと親しまれ広くそのご神威を仰がれている。
例祭 市立大祭 (11月23日及びそれに近い日曜を含む3~5日間)」 とある。

下の随神門をくぐると視界は一気に広がり、イチョウの巨木が聳える広大な駐車場が現れる。
後方の山は虎睡山。

参道右に桜山神社の社頭。
注連縄柱の先に瓦葺の平入拝殿と瓦葺の入母屋平入の本殿を渡廊が繋ぐ。
1488年(長享2)頃、桜山城に創建されたが、1765年(明和2)の暴風で倒壊、現社殿は1911年(明治44)桜山城跡から移築・再建されたものという。祭神は桜山茲俊命。
境内左に見頃を過ぎた桜とその奥に桃太郎の像が立てられている。

さて石段を上り参拝に向かおう。

石段の先に見えるのが上随神門、門が二つもあり其々に随神が安置されている。
その理由が社伝記されていて、10月の神無月は全国の神〃が出雲に集まる、しかしここの大吉備津彦命のだけが欠席したという。
そこで出雲から2人の使者が吉備津神社に派遣されたが、歓待を受けそのまま吉備津神社の門守として仕えた事から上下に随神門が作られたいう。
本店の社長命令で支店に出向きそのまま支店に席を置いてしまったという事かぁ。

二つ目の随神門をくぐると目の前に神楽殿(重要文化財)
1673年(寛文13)に建てられ、屋根は銅板が葺かれているが以前は檜皮葺だったという。
境内はここから二段に造営され、石段の先が拝殿になります。
この日はタイミングが悪かったようで、ここから先は祭礼に向け幕やテントを張る工事の真っ最中だった。やむなく右側から回り込み本殿に向かう。

吉備津神社本殿。
眼にも鮮やかな朱で彩られた本殿は江戸時代の1648年(慶安元年)に初代福山藩主水野勝成による造営された入母屋桧皮葺で大きな唐破風向拝と破風の付く豪華な造りだ。(国重要文化財)
創建は806年(大同元年)で主祭神大吉備津彦命
相殿神に大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命
一年の2月と9月に正中の光という、不思議な現象が起こると云う。
ご神体が朝日を反射し正中を貫き、ここまで見て来た拝殿、神楽殿、上随身門、下随身門の建造物の中をすり抜けて石鳥居付近まで照らし出すという。
その時期の日の出の方角と伽藍位置を織り込んで設計されたという事、昔の人は凄い事を考えるものだ。

備後國一宮 吉備津神社
創建 / 806年(大同元年)
主祭神 / 大吉備津彦命

相殿神 / 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命
所在地 / 広島県福山市新市町宮内400
公共交通機関アクセス / JR福塩線新市駅から徒歩30分ほど

さあて二日目の予定地は全てコンプリートすることが出来た、時間はとっくに3時近くになる。
今更ながらのお昼ご飯「広島焼き」を目指して府中方向に向かう。


お祭り広場駐車場に掲げられた銀の道案内板。
江戸時代、石見銀山から笠岡を結ぶ古道として観光化されているようだ。

左の神社は日本一の石灯籠がある金刀比羅宮
生憎広島焼きの店が優先で訪れる事は出来なかった。

府中市で見かけたマンホール。
ここはオオムラサキがシンボルの様だ、このタイルなかなか綺麗でいい。
写真を撮っていたらかみさんが戻ってきた、既に店は閉店、もう少し早ければ間に間に合った様だ。
彼女が楽しみにしていた広島焼きは高速に向かう道すがらのスーパーで買い求め味わう事となる。
申し訳ないが、ここで地酒と地のものを買い求め、名古屋に向けて帰途に着く。

高速は観光バスも戻り、訪れたスポットでは全国各地のナンバーも多かった。
印象に残ったのは軽バンに乗り車中泊で東京から女子一人で訪れていたのを見た。
今時は男子より女子の方が行動的なのかもしれない。
走行距離は1020㌔、使用した燃料は100liter。久し振りの一ノ宮巡りはこれにて終了。
二日目のルート
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