瀬戸市塩草町93 太子山 万徳寺
以前掲載した山口八幡社から県道248号線を車で10分程北に鎮座する。
万徳寺は尾張名所図会にも記された古刹。
上は挿絵に描かれた万徳寺の伽藍で当時から大きな伽藍だったことが窺われる。
万徳寺境内北側の眺め。
訪れたのは3月31日、境内には春の彩りに溢れていた。
万徳寺総門からの全景。
総門の右に「聖徳太子尊像安置 太子山 万徳寺」と刻まれた大きな寺号標に視線が行く。
太子山 万徳寺。
真宗高田派のお寺で本尊は阿弥陀如来。
歴史は古く約700年前、親鸞の弟子の海円が武蔵國から三河國今橋に移り住み、加茂郡越戸(現豊田市)に万徳寺を建立したのが始まりとされる。
総門をくぐると正面に方型の堂と右に入母屋の本堂。
挿絵と比較すると境内に描かれた塀がない以外に伽藍の配置に大きな違いはないようだ。
近隣の山は造成され変貌していく中で寺の周囲は当時のまま。
全4巻のうち1・4幅は15世紀中葉の成立、後補の2・3幅の成立年代は不明、簾槍霞の表現などから江戸時代後半ものとされる。
瀬戸市指定有形文化財(典籍)
■名称「聖徳太子伝」5冊
聖徳太子の伝記で、太子信仰の発展とともに多くの本が書き写されたが、当寺のものは現在残る伝記とは異なる表現とされる。
特徴は聖徳太子の年齢により説話を編集され、様々な伝説・口伝が引用される。
1464年(寛正5)に松原広長寄進の記述が残る。
瀬戸市指定有形文化財(歴史資料)
■「松原広長寄進状」一点
聖徳太子伝第5冊最終丁に記された松原広長寄進内容の記述を1742年(寛保2)に抜き出した。
・1464年(寛正5)万徳寺に一貫400文の収穫がある田畑を寄進。
・1742年(寛保2)、円応和尚が聖徳太子伝の虫害による破損を懸念し巻末から抜き出した記述がある。
左が太子堂、右が本堂。
太子堂正面全景、瓦葺の方型屋根で宝珠露盤から軒先に向け続く三角錐の面が優実な美しさを持っている。
左側に二十二夜と刻まれた月待塔が立つ。
太子堂に掲げられた「皇太子殿」の額。
万徳寺には聖徳太子自作と伝わる聖徳太子孝養像の寺宝がある。
当時の瀬戸一帯は長江・松原の二大勢力が鎬を削っていた。
この寺に功績を残した松原広長は、後の1482年(文明14)の大槇山の戦いで桑下城主長江利景に敗れ討死します。
万徳寺に功績を残した松原広長、月待塔の左に彼の功績を伝える大きな碑が立てられています。
また、松原広長の首を納めたとされる松原塚が太子堂左脇にひっそりと建っている。
万徳寺では伝統ある祭り「太子まつり」が受け継がれ、1616年(元和2)初代尾張藩主の徳川義直が当寺を参詣、大法会を行った事を機にお祭りが執り行われるようになり以来長きにわたり受け継がれて来た。
旧暦の7月22日が太子の縁日にあたるため、今は8月の第4日曜に太子祭りが行われ、その時は山門や太子堂に大行燈や奉納行燈、太子堂の提灯などが吊るされ夏の夜を彩ると云う。
本堂。
太子堂右にあり入母屋瓦葺の堂々とした姿は挿絵のままの姿を伝えている。
向拝下から本堂の山号額「太子山」
木鼻に獅子と象が施されているが全体的に飾りの少ない落ち着いた外観。
瓦など傷みはなく、本堂も近年補修の手が入っているようだ。
手間はかかるけれど木の質感は温もりがあっていいものです。
手水舎。
こちらも挿絵が描かれた当時のまま。
立派な髭を持つ龍、龍口から清水は注がれていなかった。
境内右側の鐘楼。
挿絵では左に描かれている、この場所に移されたのはそれほど古い事ではなさそうです。
松原廣長古公碑。
背面の碑文。
1968年(昭和43)に建てられたもの。
松原塚。
彼が厚遇した万徳寺、その境内に広長が鎮まっている。
境内左に入母屋の建物がある、挿絵からみると恐らく経蔵と思われる。
挿絵ではここから左に坊が描かれているが面影はなかった。
庫裏から眺める本堂、太子堂、経堂。背後の樹々と伽藍は今も当時の面影が残ります。
境内から東の眺め、猿投山山系を目の前に、左は赤津川、雲興寺方面の山々が広がります。
1767年(明和4)の崩落はこの山系の凧山が崩壊したことにより起きたという。
新芽が芽吹きだした山々に桜、一年で一番好きな時期ですが、過去にこうした災害があったとは思えない、周囲の景観や道は大きく様変わりしたようです。