長野県飯田市 元善光寺 御開帳

5月24日~25日 
長野県飯田市元善光寺の御開帳を見に車を走らせました。

 前日は近くの妙琴キャンプ場で昨年の乗鞍以来となる久し振りのキャンプ泊を楽しみ朝一番で参拝に訪れた。
 日帰りで全然行って帰れる距離なんですが、軽にキャンプ用品一式積み込んでどんな感じか試してみようという目的もあった。
軽で車中泊は流石にきつい、コンパクトで快適にキャンプが出来ればキャンプで遠征も出来る。
 肥大化した用品の中で何がダイエットできるのか不用品チェックも兼ねていた。

快適なキャンプを楽しみ朝一番に撤収、キャンプ場から東に20分程の元善光寺へ。

元善光寺無料駐車場には9:00を少し回ったころに到着、元善光寺の拝観時間が9:00からなので丁度いい感じ。
 既に参拝者の車が見られましたが、余裕で正面駐車場に駐車できました。
ここに至る途中で複数の観光バスに遭遇、嫌な予感がしたが見事に外れた。
 団体客がいない分落ち着いて参拝できる。

駐車場から境内に続く石段。
 まず目にするのが立葵の紋で、良く知られる長野市善光寺の紋と似ているが元善光寺立葵は丸で囲まれています。
 この紋は善光寺元善光寺を開いた飛鳥時代の人物「本多善光」の家紋。


元善光寺の栞の縁起には以下のように書かれています。 
お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋(がっかい)長者の願いによって此の世に出現された阿弥陀如来様は、今からおよそ千四百年前、欽明天皇の御代に百済国から日本へ渡ってこられました。 
 しかし、物部氏蘇我氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。


 その後、推古天皇十年(602年)に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
 
その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との御誓願を残されました。

 善光公は山中にて授かった霊木をもとにして自ら一刀三札の、御本尊様と同じ大きさの御尊像を彫られたのが元善光寺の御本尊となりました。

そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。
 
 御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。

 約1,400年前の出来事、お告げでこの地に持参した阿弥陀三尊像は自宅の一室に臼を台座として置き、そこに阿弥陀三尊像をお祀りしていたという。
やがて再びのお告げから本尊は善光寺に移され、本尊を失った台座の臼からは不思議な光が放たれていたとされる、「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺創建時に霊宝として今も受け継がれています。
 ここは善光寺の発祥の地。

長野市善光寺御開帳は全国的な知名度も高く、満員電車に乗っているようで何ともならない程混みます。
 それと比較すると元善光寺の御開帳にあの混雑は見られない。
「一度詣れよ 元善光寺 善光寺だけでは片参り」の由来には、ほかの意味も込められているような気がしてならない。

石段右の元善光寺の寺標。
 善光寺発祥の地ながら至って質素な大きさのもの。

境内へ続く石段は御開帳の幟がはためき、その先には山門が見えている。

山門。

 小高い丘陵地の中ほどに築かれた石垣と瓦葺の薬医門の佇まいはどこか城門に通じるものがある。

「定額山 元善光寺 境内図」
 山門左に矢場があり、山門をくぐり一段上がった境内左から客殿、本堂、裏門とあり、更に上には宝物殿、平和殿、稲荷閣の伽藍。
善光寺と比較するとコンパクトな伽藍。

山門から矢場方向の眺め。

矢場。
1906年(明治39)に境内を整備し造られ、現在の建物は2016年(平成28)に射場を改修、2018年(平成30)に的場を更新したようです。
 元善光寺で3月の春分の日と9月の秋分の日の年に2回、射会が開催されるという。

山門右には複数の供養塔がある。

山門扉に御開帳のポスター。

 期間・令和4年4月3日~6月29日
行事日程・開闢大法要4月3日中日大法要5月1日、結願大法要6月29日
 蓮華座の上で光り輝く「座光の臼」が描かれている。

御開帳とは
 七年に一度秘蔵の仏像を納めた厨子仏舎利の扉を開け、帳を上げて法会を行うもので、元善光寺の御開帳は長野善光寺と同じく七年毎に一度行われ、丑年と未年に行われます。
往古の御開帳は今の様に明確に定まっていなかったようです。
 現在は十二支を丑年で二つに分けると裏は未年、「丑に引かれて善光寺参り」で覚えておくといいかもしれない。
元善光寺の御本尊様「一光三尊阿弥陀如来」は、一つの光背の中に中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三体の仏様が並ぶもので、善光寺仏独特の形をしています。
 御開帳となった前立本尊の手に金糸が結ばれ、五色の綱となり回向柱に繋がっています。
回向柱に触れる事で直接仏と繋がり御利益を授かるとされています。

元善光寺本堂、正面には回向柱が立っています。

回向柱から続く五色の綱はここから本堂の本尊の手に繋がります。
 長野善光寺の御開帳では回向柱へもなかなか辿り着けなかった記憶もあるが・・・
回向柱に触れる前の消毒、触った後にも消毒、禍で学んだ新しい手水の習慣だ。
 時間も早い事もあるのだろう、同じ善光寺とは思えない御開帳の光景だった。


本堂左の「元善光寺宝物の紹介。
・「座光の臼」
・涅槃像、元善光寺には二体の涅槃像が安置され一体は飯田市文化財に指定。
・薬師三尊像、薬師如来と脇侍の日光菩薩月光菩薩の三像はこの地域では最大の物。
・他に仏像、仏画など80点程が宝物殿に収蔵。

伊那出身の日夏耿之介の歌碑。
「花散る夕 心経を誦して 俟ち給へ」「魚一寸 草三寸のかすみかな」
境内にはこの句碑はじめ、裏門付近には芭蕉の句碑など複数見られる。

境内右の鐘楼と手前に手水鉢。
 梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれ、元々の梵鐘は戦時中に供出されたという。
敗戦後の昭和25年に平和を祈願し新たに鋳造されたものがこの「平和の鐘」
 二度と同じ道を歩まないように後に語り継ぐ思いが込められた梵鐘ともいえる。
・・・・・きな臭い世の中になったものだ。 

鐘楼の建立年度は不明ですが、格子天井には龍が描かれ鋭い目つきで下を睨んでいます。

手水鉢。
 鉢一杯にガラス玉が敷き詰められ陽ざしを受けて光り輝く光景は実に綺麗。
映えが必須ともいえる昨今、花手水とは一味違う映えを求めて訪れるのはどうだろう。

映え後方の仲睦まじい道祖神


裏門横に芭蕉の句碑、「うらやまし 浮世の北の 山桜」
 車もない時代、よくぞ全国各地歩いて廻ったものだ。

本堂脇の元善光寺由来。
 手前の馬頭観音1838年(天保8)に寄進されたもののようだ。

棟の鬼瓦に輝く寺紋は善光寺同様の立葵

元善光寺は1788年(天明8)火災に見舞われ、現在の建物は後に再建されたもののようです。
 入母屋瓦葺の妻入り本堂で垂木など部分的に補修の手が入れられている。
奥に写り込んでいるのは客殿。

五色の綱に導かれ本堂に進む。

本堂に掲げられた額「元善光寺

外陣でまず目にするのは大きく赤い奉納提灯、その先の内陣入口に掲げられた額には「本多善光誕生霊地」とある。

本堂内で参拝と御朱印を頂き、外陣右側のびんずる尊者像の横から戒壇巡りへ。
 ソーシャルティスタンスを取るのが目的だろう、入口に用意された砂時計の砂が落ち切ってから戒壇に下りていくルール。

明るい世界から徐々に暗闇に包まれた仏の胎内に入っていきます、一寸先も見えなくなり頼りは手摺のみ。
 暗闇の中、極楽往生・開運の錠前を探し求め手探りで前に進む、仏と深い縁を結ぶため本尊直下にある錠前に触れる、目的はただそれだけだ。
長い暗闇の先の前方に外光が差し込み、少しずつ現実世界に立ち戻る。
 戒壇巡りは明日をも知れぬ今を生きていく縮図そのものかもしれない。
長野善光寺戒壇巡りでは、暗闇に怯える息子達を導くのが精一杯、錠前に触れることすら出来なかったが今回はしっかりと錠前に触れることが出来た。
 ここ元善光寺戒壇巡りにお布施は不要、有難いことだ。

暗闇から眩いばかりの境内に舞い戻る。

 まだ本堂後方に宝物殿、平和殿などありますが次の目的地に向かうため今回は拝観は見送りました、
栞によれば平和殿(拝観料500円)では西国三十三番の札所の観音像や霊場の御砂踏みが出来るらしい。

元善光寺御開帳は6月29日まで。 

元善光寺
宗派 / 天台宗
山号 / 定額山
創建 / 伝・ 602年(推古天皇10年)
開基 / 本多善光
本尊 / 善光寺如来
境内社 / 稲荷閣
参拝日 / 2022/05/25
車アクセス / ​中央自動車道飯田ICから20分
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