『備後國一之宮素戔嗚神社』

愛媛県広島県の一之宮巡り二日目。
 鞆の浦から次の目的地「備後國一之宮の素戔嗚神社」へは県道22号線で福山方向に向かい、芦田川の左岸を遡る約1時間の移動時間だった。

素戔嗚神社の駐車場は社頭前と社務所後方の二か所に無料駐車場が用意されています。
 私達は社務所後方の駐車場に駐車、社地北側の銀山街道(旧山陽道)沿いを社頭まで歩く事にした。

素戔嗚神社西門 (相方城移築門)

 素戔嗚神社南西の芦田川右岸に聳える城山に、嘗て存在した相方城から城門2棟と櫓1棟が素戔嗚神社に移築されたと云う。
戦国時代の山城の城門としては最古級とされる城門2棟は、神社北門、西門として移築されこうして現存するが、櫓は1970年代の火災で焼失したと云う。

街道沿いに小さな堀が続き右手が境内。

素戔嗚神社北門 (相方城移築門)

 切妻の薬井門で建築年代は不明という、建築様式と部材の風化具合から16世紀末から17世紀初めではないかと云われている。
北門の前に安置されている狛犬は躍動感があり、阿形は球の上で逆立ち、吽形は二本足で立ちあがった姿。

街道沿いの社頭右に「縣社」「式内社」の石標。

素戔嗚神社社頭。

 石の明神鳥居と左に由緒書き、参道の先に随神門と遥か先に神楽殿が小さく見える。
右手が参拝者駐車場。

社頭の素戔嗚神社由緒、内容は以下。
 「式内社・備後一宮 素戔嗚神社、茅の輪くぐり発祥の地
御祭神 / 本殿 素戔嗚尊櫛稲田姫命、八王子
 天満宮 / 管原道真公
蘇民神社 / 蘇民将来
 疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神

疫隈の郷(江ノ隈の里) この付近は江熊の里と呼ばれたところ、古くは江隈とも記された。
 「江」は入江であり、「隈」はかたすみとも読め、江ノ隈の読みから穴の海の入江であったことが伺われる。
奈良時代は古山陽道がこの辺りを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えた。
 
茅の輪神事
 備後の國の風土記に疫隈の国社。
昔、北海に坐します武塔神…南海に出てまししに日暮れぬ、その所に将来二人ありき。
 兄の蘇民将来甚く貧しく、弟の巨旦将来富て屋倉一百ありき…即ち、詔詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。
蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。
 現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。

素戔嗚尊は武塔天神或いは祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖である。
 本社は備後三祇園社の一社で七月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり、祭り終了日の深夜、吉備津神社宮司、彌宜が当神社に参詣し「無言の神事」が行われている。
 明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した」

鳥居の額は「素戔嗚神社」、相変わらず笠木の上には石ころが乗っかっている。

石の明神鳥居の先には注連柱鳥居が立ち、その先に随神門と神楽殿が見通せる。
 注連柱に刻まれた八紘一宇、武運長久。
寄進年は見ていないけれど、日本に勢いのあった頃に寄進されたものだろう。

1820年(文政3)に寄進された狛犬
 垂れ耳のドングリ眼で尾は九尾狐のように彫り出されている。

随神門。

 1764年(明和元年)に当時戸手村だった庄屋により奉納されたもので、櫛岩間戸尊(左)と豊岩間戸命(右)の門守が安置されている。

境内は正面に神楽殿、拝殿、本殿、拝殿左に蘇民神社、疱瘡神社、拝殿右の正面が社務所天満宮が主な伽藍。
 境内は幅・奥行ともにゆとりがあり解放感がある。

参道右の手水舎。
 鉢の側面には一面に大きな龍が施された大きなもので、その鉢を下で支える邪鬼の表情がいかにも辛そうな表情をしています。

北門から見る神楽殿と社殿。
 素戔嗚神社の創建は天武天皇の御代(673~686年)頃の創建とされ、「延喜式神名帳」には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記された古社。
神仏習合により牛頭天王を祭神とした「早苗山 天竜天王寺」とも呼ばれたが、明治に入り明治政府が発布した神仏分離令により祭神は素盞嗚尊になり現在の素盞嗚神社に改められた。
 地元では親しみを込め天王さん、祇園さんと呼ばれていると云う。

訪れた4月20日はこの時期にしては強烈な陽射しが降り注ぎ、広い境内に参拝で訪れていたのは我が家だけだった。

楽殿

 入母屋瓦葺で四方吹き抜けのもので、内部天井は防鳥ネットが張られ、その先には複数の奉納絵馬が掛けられているのだが上手く撮れず載せられなかったのが残念。

右手の社務所天満宮

素戔嗚神社拝殿。
 注連柱の両脇で毬を持った狛犬が本殿域を守護している。

1909年(明治42)寄進の狛犬で、耳は横に、尾はピンと上に立てた姿で頭が小さく俊敏そうな姿。

 入母屋瓦葺の拝殿は建立年代不明ですが、全体は派手な飾りを避け落ち着いたもの。
向拝の鬼瓦には五瓜に桔梗?の紋が施され、兎毛通には羽を広げた鳥の姿が彫られていた。
 その下には上を向いた姿の龍が彫られている。

拝殿、幣殿、本殿方向の眺め。

備後國一之宮 素戔嗚神社社殿の眺め。
 社殿を遮るものが無く全体が良く見通せる。
本殿は入母屋檜皮葺の平入で大棟から大きな破風が付き、棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が乗せられている。
 社地周囲の杜は樹々が生い茂っているが、境内に樹々が少ないので真夏の炎天下は木陰が恋しくなる。

本殿の鰹木と乗せ千木。
 派手な彩色や光物もなく、個人的にはこの落ち着いた佇まいに魅かれるものがある。

拝殿左に鎮座する蘇民神社と疱瘡神社の相殿。

向かって左に蘇民神社、右が疱瘡(ほうそう)神社。
 「茅の輪くぐり」発祥の地 蘇民神社 
「備後風土記によれば、昔、素戔嗚尊がこの地を訪れた時、一夜の宿を求め大きな屋敷を構え栄えていた弟の巨旦将来を訪ねたが断られた。
 次に兄の蘇民将来を訪ねたところ蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し暖かくもてなした。
歳を経て、蘇民将来素戔嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びる事が出来ました。
 この伝承が基となり、素戔嗚尊をお祀りする神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われる様になりました」とある。

一説によればこの社地は茅の輪を授かる機会を逸し病にかかり途絶えた巨旦将来の屋敷だと云う。
  また由緒にある「疫隈國社」とは蘇民神社を指すと云う話もあるようだ。

疱瘡神社。
 疱瘡と聞くと疫病神のイメージが先に来ていい印象はないけれど、全国各地に祀られている事から単にそうとも言えないようです。
疱瘡とは天然痘を指すようですが、広い意味で伝染病を指し、記録に残るものでは天平の疫病大流行や戦国時代にも大流行しています。
 周囲を海で囲われた島国の住民は大陸から持ち込まれる疫病に対し免疫は脆弱です。

昔は感染すれば処置も出来ず、江戸時代に緒方春朔が行う種痘まで打つ手はなかった。
 それまでは自然治癒するのを待つか、天に祈るしかなく。
禍をもたらす疱瘡神ですが、時にその禍を持ち去ってくれる事もあるようで疫病退散を祈願し祀られたようです。
 素戔嗚尊から茅の輪が授けられなかった巨旦将来、案外天然痘に伝染したのかも知れない。
因みに疱瘡神は赤が苦手だという、何年か前に着た赤いチャンチャンコや赤丸神事の赤の意味にはそうした意味合いもあるのだろう。

天満宮
 向拝下に吊るされた提灯と賽銭箱に梅紋の入り一目でそれと分かる。

入母屋瓦葺で向拝が設けられている。

「元は戸手祇園社(早苗山天王寺)の本地堂(観音堂)。

1748年(縁起5)に再建されたもので、明治の神仏分離令の際、須弥壇等を撤去、神座を作り天満宮として取壊しを免れた。
 現存する本地堂は、全国的にも二十例しかなく、広島県内でも二例だと云う。
又、全国の祇園社で本地堂が現存するのは素戔嗚神社のみで、本来の祇園信仰の祭祀形態を留めている。
 18世紀初期の三間堂の寺院建築様式が良く残っている建物で、素戔嗚神社本地堂として福山市重要文化財の指定を受けている」
祭神 / 菅原道真

毎年7月15日には祇園祭が3日間行われるという、その最終日はけんか神輿が行われます。

境内北側に神輿の収納庫があり、祇園祭にはこの静かな境内は人で埋まるのだと云う。
 ガラスの反射で良く見えなかったが、少なくとも3基の神輿が保管されているようだ。

備後國一之宮、それは素戔嗚神社だけではありません、二社が一之宮を称しています。
 それも、ここから車で10分程西の神谷川上流に鎮座する吉備津神社も備後國一之宮です。
一之宮の御朱印全制覇を目指すかみさんにとって、「一之宮一つでいいんじゃない」となるんだろう。
 備前、備中、備後として考えれば備後の一之宮は吉備津神社、二つあるのには大人の事情があるのだろう。

備後國一之宮 素戔嗚神
創建 / 天武天皇年間(673~ 686)
祭神 / 素盞嗚尊、櫛稲田姫命、八王子
蘇民神社 / 蘇民将来
疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神
参拝日 / 2022/04/20
所在地 / ​広島県福山市新市町大字戸手1-1
公共交通機関アクセス / ​JR福塩線上戸手駅から徒歩5分ほど
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