名古屋市西区八坂町
先回掲載した榎白山神社、その社頭の前を東西に延びる美濃路を西に向かう事10分程。
美濃路沿いの住宅と商店街連なる一画に『八坂神社』の社頭が現れます。
通りから少し奥まった位置に神明鳥居を構え、その先に拝殿か神楽殿らしき建物が見える。
上は使い回している枇杷島周辺の新旧の地図。
左上に続く道が美濃路で庄内川に向かって続いています。
鳥居の先の正面にコンクリートの壁のような建物は商業施設。
この神社は初めて訪れましたが、古社でありながら神社より、例大祭として行われる提灯祭りが有名なようで、そちらを取り上げた記事が多いのに驚きます。
祭りの際はこの参道は吊るされた奉納提灯で埋め尽くされ、氏子はじめ近隣、遠方から山笠提灯、大提灯を見に訪れるようです。
神職は常駐ではないようで、広い境内は静まり返っていました。
社頭から続く参道は左右に建物が迫り狭い印象を受けますが、鳥居を過ぎると左右に広い境内が現れます。
その広い境内の右に複数の収蔵庫が建てられ、ここに祭で使用する提灯が保管されているのでしょう。
収蔵庫から西の境内全景。
手前は四方吹き抜けの切妻瓦葺の拝殿?で鬼瓦には「水」の文字と波が施されている。
その先に本殿域が続き、右手に境内社が祀られている。
杜の樹々は本殿域に集中し、提灯祭りが行われることもあり、拝殿から東側の境内に木陰はない。
妻壁や蟇股にも波。
火の禍から逃れたい現れですが、その思いは昔も今も変わらない。
拝殿から幣殿の眺め。
八坂神社について幾つかの記録を見付けた。
神社由来は以下
「八坂神社の歴史は古く、文治元年(1185)、平家の武者が現在地の北方約100㍍の村外れに住み着き、一ツ池と称する沼田の中に祠を建て、建速素之男命を祀ったのが初めとされる。
後の慶長15年(1610)那古野開府となり、美濃路と云われた現在の八坂通りの両脇に商い店が集まり町屋が形成され、一緒に祀る様になる。
幾度か修復を受け、元禄15年(1702)に現在地に造営正遷宮を行い、この頃から祭りも盛大に執り行われる様になった。
この祭礼は長寿延命、豊作祈願でありますが、特に子供の守り神様としても有名。
祭礼は従来の6月14・15日を、平成7年から5月第三土曜日・日曜日と改めた。
初日は午前10時から神事が行われ、その後、山笠提灯、大提灯等各種提灯を掲げて献灯をする。
夕方には全提灯一斉に火が入り、祭は最高潮に達して壮観である。
山笠提灯は元禄15年(1702)からと云われ、現在の山笠は文化11年(1814)作とされる。
高さは20㍍あり、最上段は縦に5個で「五穀」を表し、その下に5段構えに880個の提灯を掲げ「米」を表し、米寿にも肖るとされる、大提灯は高さ5㍍、周囲は10㍍あるもの。
祭礼二日目は御神葭船流しが行われる。
この神事は諸々の禍事、罪とがを葭に托し、これを御神船(長さ1.8㍍、巾0.6㍍)に積み氏子大勢がお見送りする中、町内の惣兵衛川にお流しする儀式をもって祭りを終える。」とある。
また別の記録によれば
「東向きの社は当初南向きであったが、この神社の前の美濃路は新川の刑場で処刑される罪人が裸馬に乗せられて通る道筋でもあり、神社の前を通るたびに鳥居前で落馬した。
人々はこれを神の祟りとして、神社の向きを東向きに作り替えると罪人は落馬しなくなったと云う」
また、「もとは牛頭天王宮、あるいは天王社と呼ばれていた」などが見つかったが、これらは由緒に書かれていない事から、興味深い話と受け止めて下さい。
八坂神社幣殿、本殿方向の眺め。
七本の鰹木、外削ぎの千木が付く神明造。
社殿の左右に境内社3社が祀られています。
大きな御神木の木陰に祀られた二社は右側が祖霊社、左が神明社。
幣殿、本殿側面。
本殿は覆殿の中に納められている様に見える。
社殿正面全景、玉垣内には一対の狛犬と銅製燈籠が立てられ、それらの年代等は見る事は出来なかった。
参拝はここからとなります。
神域を守護する狛犬と燈籠。
吽形の左目や全体の黒ずみは何かを物語っていそうだ。
この規模の伽藍で立派な銅製の燈籠は珍しいかもしれない。
幣殿に掲げられた「八坂神社」の額。
幣殿左の境内社は秋葉神社。
この神社は初めて訪れましたが、古社でありながら神社より、例大祭として行われる提灯祭りが有名なようで、そちらを取り上げた記事が多いのに驚きます。
祭りの際はこの参道は吊るされた奉納提灯で埋め尽くされ、氏子はじめ近隣、遠方から山笠提灯、大提灯を見に訪れるようです。
神職は常駐ではないようで、広い境内は静まり返っていました。
社頭から続く参道は左右に建物が迫り狭い印象を受けますが、鳥居を過ぎると左右に広い境内が現れます。
その広い境内の右に複数の収蔵庫が建てられ、ここに祭で使用する提灯が保管されているのでしょう。
収蔵庫から西の境内全景。
手前は四方吹き抜けの切妻瓦葺の拝殿?で鬼瓦には「水」の文字と波が施されている。
その先に本殿域が続き、右手に境内社が祀られている。
杜の樹々は本殿域に集中し、提灯祭りが行われることもあり、拝殿から東側の境内に木陰はない。
妻壁や蟇股にも波。
火の禍から逃れたい現れですが、その思いは昔も今も変わらない。
拝殿から幣殿の眺め。
八坂神社について幾つかの記録を見付けた。
神社由来は以下
「八坂神社の歴史は古く、文治元年(1185)、平家の武者が現在地の北方約100㍍の村外れに住み着き、一ツ池と称する沼田の中に祠を建て、建速素之男命を祀ったのが初めとされる。
後の慶長15年(1610)那古野開府となり、美濃路と云われた現在の八坂通りの両脇に商い店が集まり町屋が形成され、一緒に祀る様になる。
幾度か修復を受け、元禄15年(1702)に現在地に造営正遷宮を行い、この頃から祭りも盛大に執り行われる様になった。
この祭礼は長寿延命、豊作祈願でありますが、特に子供の守り神様としても有名。
祭礼は従来の6月14・15日を、平成7年から5月第三土曜日・日曜日と改めた。
初日は午前10時から神事が行われ、その後、山笠提灯、大提灯等各種提灯を掲げて献灯をする。
夕方には全提灯一斉に火が入り、祭は最高潮に達して壮観である。
山笠提灯は元禄15年(1702)からと云われ、現在の山笠は文化11年(1814)作とされる。
高さは20㍍あり、最上段は縦に5個で「五穀」を表し、その下に5段構えに880個の提灯を掲げ「米」を表し、米寿にも肖るとされる、大提灯は高さ5㍍、周囲は10㍍あるもの。
祭礼二日目は御神葭船流しが行われる。
この神事は諸々の禍事、罪とがを葭に托し、これを御神船(長さ1.8㍍、巾0.6㍍)に積み氏子大勢がお見送りする中、町内の惣兵衛川にお流しする儀式をもって祭りを終える。」とある。
また別の記録によれば
「東向きの社は当初南向きであったが、この神社の前の美濃路は新川の刑場で処刑される罪人が裸馬に乗せられて通る道筋でもあり、神社の前を通るたびに鳥居前で落馬した。
人々はこれを神の祟りとして、神社の向きを東向きに作り替えると罪人は落馬しなくなったと云う」
また、「もとは牛頭天王宮、あるいは天王社と呼ばれていた」などが見つかったが、これらは由緒に書かれていない事から、興味深い話と受け止めて下さい。
八坂神社幣殿、本殿方向の眺め。
七本の鰹木、外削ぎの千木が付く神明造。
社殿の左右に境内社3社が祀られています。
大きな御神木の木陰に祀られた二社は右側が祖霊社、左が神明社。
幣殿、本殿側面。
本殿は覆殿の中に納められている様に見える。
社殿正面全景、玉垣内には一対の狛犬と銅製燈籠が立てられ、それらの年代等は見る事は出来なかった。
参拝はここからとなります。
神域を守護する狛犬と燈籠。
吽形の左目や全体の黒ずみは何かを物語っていそうだ。
この規模の伽藍で立派な銅製の燈籠は珍しいかもしれない。
幣殿に掲げられた「八坂神社」の額。
幣殿左の境内社は秋葉神社。
玉垣の扉が閉じられている理由は中央の注意書きが原因なのかナ。
子供の頃こうした神社で遊ばせてもらったものですが、流石に燈籠は登らなかったが、今や管理責任を強く問われる世の中になりリスク回避の結果なのかな。
創建 / 不明(元禄15年当地に遷宮)
祭神 / 須佐之男命
所在地 / 名古屋市西区八坂町1-20